飛ぶ探偵 06

flight-06
七見、医者にかかる

一夜明けて、事務所に顔を出した清治は、意外にもきちんと椅子の上に鎮座ましましている七見の姿に驚いた。
「お前、ショックで寝込んでるかと思ったぜ」
「馬鹿にするな。あ、あんなもの怖くなんかない」
言いつつも七見の細い指は安楽椅子の皮を、ぎゅうと握りしめている。
ああ、こいつ独りで家に居るのが怖くなったな。
という事が清治には一瞬にして知れたが、口には出さなかった。無理もないと思ったからだ。何しろ目の前で人が、倒れたのだ。それも依頼人を装って七見を探っていた野上美雪が、口を割る直前に、である。
口封じ、
その可能性は充分に考えられた。

「じゃあまあ、とりあえず腹ごしらえといきましょう~」
簡易キッチンからさよりが銀の丸い盆に乗せた胡麻団子と温かいジャスミンティーを運んできた。
「…ムショで食ったケーキよりうめえ…」
「当たり前だ。西江にはちょっとしたおやつにも食材からこだわるよう、僕が仕込んでいる」
「出来合いですがお褒めにあずかって光栄です坊ちゃま」
来客用のテーブルを囲んで、3人はしばらく黙々とお茶の時間を楽しんでしまったが、やがて清治が沈黙を破った。
「所長…野上美雪のことだけどよ、あの女の言ってたことに心あたりとかねーのかよ」
「むぐ…」
七見はジャスミンティーを口に運んだ。

「目的は判らないが、奴らは千里眼能力者が欲しいんじゃないか?」
七見はそう答えたが、清治にはまだひっかかる部分があった。
「でもお前、名指しで狙われてんじゃあねーか。お前個人が狙われる理由はねえのか?」
眠りに落ちる直前、野上美雪は言ったのだ。"あの人"は、四ヶ伍家の末息子を欲しがっている、と。
単に千里眼の能力を持つ者を手に入れたいだけならば、"四ヶ伍家の末息子"でなくとも構わないはずだ。清治はそこが気になっていた。
「お前んちは兄弟も多いのによ、あの女はわざわざ末息子って限定したんだぜ」
そう言われて七見は眉間にしわを寄せた。

ティーカップをテーブルに、タン、と置いて、七見は口を尖らせる。
「そんな事言ったって僕が名指しで狙われる理由なんか無いのは判りきってるだろう。ふん、僕だけ狙われない理由なら山ほどあるけどな!千里眼が欲しければ僕より兄さんたちの方がずっと有能だろうさ。四ヶ伍家に何らかの脅しをかける目的だったとしても、厄介者扱いされている僕じゃ何の役にもたたない。誘拐して身代金?出すわけない、勘当してそれまでだ!」
ヒステリックにまくしたてた後、七見は袖で目を拭った。
「は?勝手にヒクツになって泣くなって…わけわかんねーなおい」
清治は舌打ちしてこめかみを押さえた。

情報は無い。存在だけは嫌と言うほど感じる。何をしていいかわからないが何か行動を起こさずにはいられなくなった清治は、ジャスミンティーを飲み干して席を立った
「俺、野上美雪の様子見て来る」
すると、さよりに差し出されたカシミヤのタオルに顔を半分埋めた七見がくぐもった声を出した。
「野上美雪は目覚めない」
「…どういう意味だ」
清治はその言葉に何か、胸に石でも詰め込まれたような気分になる。タオル越しのまま、七見は答えた。
「あれは"能力"だ。どういう力なのか具体的には判らない。だが"野上さんを眠らせた奴"にその気が無ければ、彼女はきっと永久に目覚めない」

「永久って、」
言いかけて清治は、昨晩七見が漏らした台詞を思い出した。

野上美雪が倒れる瞬間、七見は"目"を見たと言ったのだ。
「…目か」
攻撃的な衝動に、清治の瞼が険しく細まる。凶悪な気配を感じたのか七見はタオルから僅かに顔を上げた。
「テメェよ、その目を"飛んで"捜すってことはできねーのか」
指の関節をポキポキと鳴らしながらそう告げた清治のドスのきいた声に、七見は怯んだ。
「ちょ、待っ、で、出来なくはないかもしれないが…お前、まさか殴るつもりじゃないよな?捕まるぞ!」
捕まる、の単語で清治はハッと我に返った。
「う、うるせえ分かってるよ!」

「や、やってみるが、うまく見つかるかどうかは、わからないからな…」
人間の、目だけを捜す、それも発現した"能力"としての"目"を頼りに捜索するというのは七見にとっても初めての試みだった。だからなのか、七見は離陸する前にやけに神経質に何度も安楽椅子に座り直し、執拗に机や本の位置を直させた。いよいよ飛ぶかと思えば
「西江、喉が乾いた時用の水、」
細かな指示で中断、その繰り返しに我慢して付き合っていた清治も、幾度目かの机位置調整に、さすがに苛立ち始める。
「おい、お前なぁ…」
「黙れ」
清治の文句を遮った七見の額には冷たい汗が浮いていた。

「……どうかしたのか、」
「うるさいな!少しくらい黙っていられないのか君は!」
訝しんだ清治を一喝して、七見は安楽椅子に前のめりに腰掛け直すと、右手で見えないレバーをぐっ、と、引く
はずだった、しかし。
「……」
手は動かされなかった。七見は茫然とした表情のまま、肩で息をしてその場に硬直している。
「所長…?」
さよりの顔色が青ざめた。
「……こわれた…、」
七見が、か細く呟く。
「…動かないんだ…レバーが…反応、し、な…」
小動物のような弱く速い呼吸を挟み、七見のガラス玉のような美しい榛色の両目玉から大粒の涙が零れた。
「と…飛べない、なん、で?」

「何だと…おい、どういう事だよ」
「飛べなくなった…」
尋ねた清治に、七見は死にそうな顔を向ける。
「ど…どうしよう、どうしたら…」
あまりのショックに涙を拭いもせず、半ば放心してしまっている七見の頭に、さよりがカシミヤのタオルをそっと被せた。
「落ち着いてください、所長、大丈夫、だいじょぶですよ~」
「どうしよう、西江、どうしよう」
タオルを被ったまま七見はさよりに縋りつく。
「大丈夫ですから」
さよりは七見の頭をタオルごとやんわり抱きしめてそう囁いた。
「ぼ、僕…飛べなくなったら、ほんとに…ほんとに…っ、」
横隔膜を震わせ、七見はワアワアと泣きじゃくった。

さよりの代わりに清治が淹れてきた珈琲を飲んで、七見はようやく少し落ち着いてきたのか、
「原因を…考えなければ」
ぽつりとそう言った。しかし頭にタオルを被ったまま安楽椅子にしょんぼりと収まる七見の姿は、誰の目から見てもどん底まで落ち込んでいるのは明らかで、どう励ましていいやら判らない清治は、仕方なく
「た、たまたま調子が悪かっただけじゃねぇの?」
などと曖昧に慰めてみたが、弱々しく首を横に振った七見に
「こんな事は初めてだ…もう一生飛べないのかもしれない…」
と返されると、益々どうしていいか判らなくなり、さよりに視線で助けを求めた。

ため息をついて頭を抱えるばかりの七見に、さよりは、うーん、と唸ってから
「あまり気になさるのもお体に障りますからねぇ…いっそお医者様にでも診ていただいたらいかがですか」
と提案した。果たして超能力科などという医者があっただろうか、
清治はしばし考え込んでしまった。それは七見も同じだったようだ。
「西江…病院には千里眼科なんて無いんだぞ」
「じゃあ眼科、いや、脳…、あっ、精神科?ですかね?」
「僕に訊くなよ…だいいち病院なんかで治るものか、バカバカしい」
七見は暗い顔でため息をついたが、しばらくして、唐突に立ち上がった。
「散歩に行く」

「清治、君は護衛だ。たまには役にたちたまえ」
「は?」
七見は清治のパーカーの裾を掴んだ。
「気分を変えれば飛べるようになるかもしれない。留守を頼むぞ、西江」
「いってらっしゃいませ~」
ちりん、と鈴の音を鳴らして事務所の外に出た七見は、再び、ああ、と重い息を吐き出して、大通りを右に歩き出した。
「おい、なんで今、散歩なんだよ」
清治はパーカーの裾を掴んだままの七見を引き止める。
「お前が飛べねぇんなら、無駄かもしんねーけど俺が野上美雪の交友関係何とか調べてみるって手もある。散歩してる場合じゃあ、」
「散歩じゃない」
七見は清治の言葉を遮った

散歩じゃない、と言っておきながら七見はその先を続けず、無言でただ歩を進めた。踵の高い革靴がどこへ向かっているのか理解した時、清治は思わず
「マジかよ」
と声に出してしまった。目の前にそびえるベージュ色の建物は、F市総合病院。野上美雪が搬送された病院とは別の病院である。つまり、
「所長マジで、医者に?」
尋ねた清治を、七見は睨みつけた。何か言い返そうと口を開くが反論が無かったらしく、俯いて
「…悪いか」
とだけ呟いた。千里眼にとって、飛べなくなる事がどれだけ衝撃的なことなのか。簡単に"わかる"とは言えないだけに清治は言葉に詰まった。

清潔な病院は、清治にはどうも居心地が悪い。七見の後について待合室の隅に腰掛けた清治は、ソワソワとフードを被り直した。傷を見られていないか気になる。
「付き添いなら姐さんに頼みゃ良かったじゃねーか…なんで散歩だなんて嘘つくんだよ」
場違いな空気に堪えかねた清治が愚痴のように零した言葉に、七見は
「つ、付き添いじゃない、護衛だ」
覇気のない声でそう主張し、
「それに…」
と言いかけて口を噤んだ。
「それに、何だよ」
清治が促す。
「もし二度と飛べない、と医者に言われたらどうする…西江には聞かせられない」
言って七見は少し鼻をすすった。

"二度と飛べない"などと宣告できるほど超能力に詳しい医者が居るとも思えないが、それが不安ならば尚更、さよりに来てもらえば良かったのではないか。
清治は少し奇妙に感じた。
先ほどのなだめ方を見ても明らかなように、さよりには、七見の精神安定剤のような役割がある。それは七見本人が最もよく承知しているはずだ。それなのに、なぜ嘘を吐いてまで彼女に付き添いさせなかったのか?
七見とさよりの関係には、どこか不可思議な部分がある。しかし落ち込んでいる七見にそれを今、問う気にもなれず、清治は黙ってガン検診のポスターを眺める事しか出来なかった。

「む…僕より後に来た奴が先に呼ばれていないか?」
七見が苛々した声を上げた時、ちょうどスピーカーが彼の名を呼んだ。
「四ヶ伍さん、四ヶ伍七見さん。7番診察室にお入り下さい」
ビクリと立ち上がって、七見は清治を振り返った。
「……」
「いや、さすがに診察室までは行かねえぞ」
「医者が"奴ら"の手先だったらどうするんだ」
「叫べよ」
「口を塞がれたら?」
「暴れろ」
「僕に万が一の事があったら君は職を失うことになる。勿論それを承知の上で言っているんだろうな」
「くそ…」
清治は諦めて腰を上げ、スリッパをペタペタ鳴らして眼科の診察室に向かう七見を追いかけた。

やけに優雅に脚を組んで座った青年、その背後に立つ、フードで半分顔を隠した強面の男。二人を前にして医者は一瞬、凍りついた。
「俺のことは気にすんな。ただの護衛だ」
ドスの効いた声で清治がそう言うと、30代と思しき眼鏡の精神科医は、びくっと体を後ろに引いた。
「あの…今日は、どう、されましたか?」
恐る恐る告げた医者を、七見は見下すような視線で眺め回す。
「全て問診票に書いたはずだ。無駄な時間は省いてくれたまえ。ここで治せなければ次は眼科に行く」
医者は慌ててバインダーを開く。
飛べなくなった(千里眼)
問診票に書かれていたのはそれだけだった。

「ええと…」
困り果てた精神科医はしかし、プロフェッショナルらしく動揺を精いっぱい抑えた話し方で続けた。
「じゃああの、詳しく、状態を聞かせていただけますか。せ、千里眼、というのは具体的にはどういった…」
「千里眼が何だか知らないのですか?本やテレビで見たことぐらい…いたっ!」
あからさまに馬鹿にした声を上げた七見の後頭部を、清治が小突いた。
「ふつうほんとにあるとは思わねーんだよ、医者先生困ってんだろうが」
「叩かなくてもいいじゃないか!ちょっと無知な輩をいじってみたかっただけだ!」
涙目で暴言を吐く七見に、医者は引きつった笑顔を返した。

「説明が必要な時点で貴方に治せるとは思えないが…正直、今の僕は藁にでもすがらざるを得ない…仕方ありませんね」
わざわざそんな前置きをしてから、七見は真面目な顔で一気に解説をまくし立てた。
「基本的には透視。より高次元の透視と思っていただければいい。遮蔽物や距離に関係なくどんなものでもミクロ単位まで見て調べることが出来ます」
「超能力、です、か」
医者が頷く。
「ええまあ、常人を超えた能力、という意味では」
僅かに自慢げに胸を反らした七見に、医者は続けて質問をした。
「独りで居る時に、自分以外の声が聞こえたりする事はありますか?」

「ふふん…なるほど」
頷いた七見の笑顔には静かな怒りが滲んでいた。
「信じない、という訳ですか。この僕の千里眼を幻覚か何かだと思っている」
「そ、そういう訳では…今のは形式的な、」
「思ってるね。絶対思ってる!」
突きつけた人差し指で医者の弁解を遮って、七見は断定した。
「いいですか、僕は千里眼だ。それもトップクラスの。この前提を信じていただけないのなら僕は診察を拒否し、すぐに目医者に行く!」
七見の攻撃的な口調の裏には、"飛べない"事による不安、また"普段は本当に飛べる"事を証明する方法が無いという恐怖がある。清治は薄々それに気づいていた。

「分かりました」
精神科医はぐっと唾を飲み込んで、考えを述べた。
「正直、私個人は超能力の存在自体に疑問を持っています。しかし、診察はあなたにその千里眼があるという前提のもとに進めて私なりの治療法を提示させていただきたいと思います…それでよろしいですか」
個人的には信じない、が、治療は"千里眼がある"という仮定の下に行う。医者はそう告げていた。
「帰る」
「待てって」
あからさまな不満顔で立ち上がろうとした七見を、清治が諌める。
「マジで信じてねえクセに"信じてる"とかほざく奴よりは信用出来るぜ」
七見は
「むう」
と唸って考え込んだ。

いつまでも飛べない状態が続く方が精神的苦痛が大きい。不満はあっても治療に縋らざるを得なかった七見は、尖らせた口で
「いいでしょう…」
と傲慢な台詞を吐くと椅子に座り直した。
「では幾つか質問させて下さい。先ず、超能力が使えなくなったのはいつのことですか」
「今日です」
「突然、ですか?それまでは何の問題もなかった?」
「ありませんね」
「その超能力とやらが、」
「"とやら"はよしてくれ」
「すみません、その超能力がなくなる前に何か、」
「な、なくなるとか言わないでもらいたい」
落ち着きなくループタイを弄りつつも七見は医者の質問に答え始めた。

「最後に超能力を使ったのはいつですか?」
そう訊かれた時、七見は表情を固くした。
「き、昨日の夜…」
医者は七見の額に滲む脂汗を見逃さなかった。
「その時なにかありましたか?」
七見の目が一瞬、怯えたように見開かれる。
「な、何かって…」
「恐ろしい体験をした、とか」
七見の肩がギクリと揺れたのを見て清治は昨夜の事を思い出す。
倒れた野上美雪、
七見が見た"目"
間髪を入れず医者は続けた。
「あるんですね?」
七見が黙って頷くと、医者は小さく唸ってから
「それかも知れませんね」
と指摘した。
「…どういう事ですか」
七見が細い眉をひそめる。

「人間の脳には自己防衛機能がありますからね、意識していなくても、例えば恐ろしい記憶を思い出せないように封印したりもするわけです。あなたの場合は、超能力を使うとまたあの時のようなことが起こるかもしれない、という恐怖から自己防衛が働いて、脳が超能力を封印してしまった可能性が考えられます」
あくまでも、これは超能力が実在するという前提のもとにたてた仮説ですが、と付け加えて、医者は一旦言葉を切った。
「どうでしょうか?」
「で…でたらめだ!」
顔面蒼白の七見は丸椅子から立ち上がった。
「それじゃあ僕が怖じ気づいているみたいじゃないか!」

「有り得ませんね!だってあんなの、ただの目だ、目なんか畳にだってある。あんなのに怯えるだなんて…ククク…お笑い草だ!」
七見は、医者が昨晩の事について何も知らないという点を忘れて喋るほど、動揺していた。
「目…ですか?」
医者の呟きに清治が代わりに答える。
「昨日、千里眼中に女が1人倒れてな。こいつその時、妙なモン見たらしいんだ。あんたの言う通りかもしんねえ。こいつ口もきけなくなるくらいビビってたからな」
「ビビってなどない!話を誇張するな!君はワイドショーのディレクターにでも…」
「所長」
清治が拳をパキパキ鳴らすと、七見はしょっぱい顔で口を閉じた。

「くっ…か、仮にもし、それが原因だとしたら、どうしたら治りますか」
七見は喘ぐようにそう尋ねた。飛べない理由が自らの"恐怖心"であるのはほぼ確実だと自覚し始めていた。しかし、七見の、既にズタズタのプライドは、未だそれを認める言葉を吐くことを拒んでいた。医者は答える。
「無理に恐怖を克服しようとするのは良くありません。あなたの精神はおそらく相当のダメージを受けています。焦らず、まずはそれを癒やすのが先です」
「仮にそうなら、どれくらいかかりますか」
「それは判りません。数ヶ月から数年…」
「数年!?」
七見は思わず椅子から立ち上がってしまった。

問診、検査などの後に幾つか錠剤を処方され、帰る頃には七見の顔色はほとんど土気色になっていた。
「一生治らねぇって言われなかっただけでも良かったじゃねーか」
清治の慰めに、七見は冷たい視線を返す。
「何が良かった、だ…数ヶ月から数年?馬鹿な、そんなにかかってたまるものかっ…今飛べなきゃ駄目だろう、今、」
細い指を握り締め、更に反論を続けるかに思えた七見はしかし、力無く清治から目を逸らした。自分の台詞にしょげてしまったらしい。
「分かってるさ…僕があの"目"を何とかしなきゃ野上美雪は目覚めない、でも」
七見は震えた。
「僕には…無理だ」

事務所に戻ってきた二人をさよりが出迎えた。
「おかえりなさーい。お散歩いかがでしたか」
「…まあまあだ」
答えながら七見が、言うなよ、という視線を送ってきたので、清治も病院の事は黙っていた。散歩にしては長かったが、さよりは特に不審がる様子もなく、手早く珈琲を用意する。
「所長がお留守の間にお電話がございましたよ」
「依頼か?」
「いえ、お兄さまです。明日こちらにおいでになるとか」
「な、なっ、何…ギャァアアア!」
七見は熱い珈琲を手に思いきりこぼしてしまった。
「ど、どの?」
さよりは氷を取りに行きがてら答えた。
「五見(いつみ)お兄さまです」

「…五見兄さんが?」
その名を聞いて、七見は僅かながら安堵の表情を見せた。
えーと確か、
清治は必死で四ヶ伍家の面々を思い出してみる。
長男が眠ったままの一見で、あのイヤミな鷹野郎が二見、三見子姉さんってのが姉貴で、どっかの企業の幹部だかが六見…
「…俺、四と五には会ってねえよな?」
「この間は居なかったからな…というかお前、人の兄弟を通し番号で呼ぶんじゃない」
嫌な顔をしつつも七見には、以前父親から呼び出しをくらった時のような緊張感はない。
「五見兄さんは、ジャーナリストだ。あの家を出てずいぶん経つ。忙しいと聞いていたが…何の用だろう」

珈琲を飲み終えると、七見はカップを置きながら、フーッと息を吐いた。
「5年ぶりだ…。ああ、確か五見兄さんはロシアンティーが好きだったはずだ…悪いが買いに行ってくれないか」
「わかりました。ジャムもですね」
さよりがすぐさま出かける準備を始める。その後ろでボンヤリと珈琲の残りに口を付けていた清治に、七見はじろりと視線を向ける。
「何をしている、君も行くんだ」
「俺も?」
何でだよ、と舌打ちしてから清治は、病院の帰り道での七見のしょぼくれぶりを思い出した。独りになりたい気分はわからなくもない。清治はため息をついて再びフードを被り直し、さよりの後を追った。

さよりによればロシアンティーを置いている店は少し遠いらしい。てくてくと歩きながら、さよりと清治はとりとめもない会話を交わした。
「いい天気だね」
「そうすね…」
「あ、すずめが交尾してるよー」
「そうすね…」
「ごめん嘘だった」
「そ……嘘かよ」
「所長病院行ったでしょ」
清治は驚いてさよりを見つめた。
「い…いや…」
しどろもどろになってそう返してから清治は、くそこれじゃバレバレだろうが…と、自己嫌悪にこめかみを押さえた。
「所長更にヘコんでたみたいだけど、お医者に何て言われてた?」
病院の事は話すなと言われている以上、清治は返事に詰まった。

答えられない清治を見て、さよりは眉を八の字にして笑った。
「そっか所長に口止めされてるよねぇ、わかったいいよいいよ」
「悪ィな…」
「いやいいの。お医者が何て言ったって、所長が二度と飛べなくなるわけないからね。そのうち治るよ」
さよりがあまりにキッパリ断言したので、清治はフードの下の目を見開いて面食らった。
「そうなのか…?」
「うんだって所長は特別…あ!あっ!やっちゃった!スタンプカード忘れた!」
突然さよりが大声を出し、話は中断された。
「引き出しだーごめん取ってくる!」
「あァ、俺行く。姐さんは待ってていい」
清治はさよりの代わりに駆け出した。

カラン、
と事務所の扉をくぐった清治は、中の静けさにつられて思わず足音を止めた。アコーディオンカーテンが閉まっている。
何やってんだ所長の奴…また泣いてんのか?
清治は応接スペースの端にある小物机の引き出しから、"王室茶館"のスタンプカードを取り出し、ポケットにねじ込んだ。瞬間、アコーディオンカーテンの隙間からちょうど七見の姿が垣間見え、清治の動きは止まった。
「………」
七見は安楽椅子に座っていた。予想通り泣いてはいたが、それだけではなかった。指先まで緊張させた前傾姿勢、コクピットを操作するかのような──
清治にも一目でわかった。七見は、"飛ぼうと"していたのだ。

清治は黙って、音をたてないように慎重に事務所を後にした。"目"の恐怖に震えながらも、懸命に離陸しようと意識を集中させ続けている七見に、声をかけることは躊躇われたのだった。
「………」
階段を降りながら清治は子供の頃を思い出す。あれほど殴ってやっても、七見は"千里眼は嘘だった"とは絶対に言わなかった。また、家でずっと厄介者扱いされていたにもかかわらず、清治のように自暴自棄になって犯罪社会に身を落とすことも、七見は踏みとどまった。
あいつ、案外ちゃんと戦ってるよな…
清治は事務所のビルを見上げ、声には出さず呟いた。
所長、負けんな。

「わー早かったねぇ!」
「姐さん、」
さよりのもとに戻って来た清治はスタンプカードを手渡しながら告げた。
「悪ィけど買い物任せていいか?俺ちょっと、行ってきたい所があんだ」
眼鏡の下の目をパチクリと瞬かせた後、さよりはふわりと笑った。
「いいよ」
もしかすると、自分が今事務所で見てきたものが何なのか、さよりには想像がついているのかもしれない、と清治は思う。
「あー…さっきよ、野上美雪の家族が、もしかしたら何か知ってるかもしんねえって思って、」
「そうだね。行ってらっしゃい」
頷いてからさよりはポンポンと清治の肩を叩いた。
「ありがと南武くん」

例え無駄足だったとしても、何かせずにはいられない。清治の心は既に走り出していた。
所長は必ず、飛べるようになる。その間に俺ができることは、少しでも"目"についての情報を集めることだ。
先ず清治は、野上美雪の病院に向かった。見舞いに来た彼女の関係者に話を聞けるかも知れない。或いはうまくすれば、
"奴ら"の仲間が姿を現す可能性だってある。清治はそう考えたのだった。
場違いな病院の雰囲気に耐えつつ、野上美雪が眠る病室に近い長椅子に腰掛けて見張る。時折、看護士や患者が向ける不審げな視線は、"シャーロック・ホームズの思い出"を読むふりでごまかした。

張り込みを開始して1時間近くが過ぎた頃。野上美雪の病室に近付いてきた者があった。
青年である。
清治は文庫本で顔を隠しながら視界の隅で青年を観察する。
大柄な方ではあったが、清治ほどではない。服装は紺色のジャージ。ずいぶんラフな格好で来るところを見ると
親族、か?
それにしても独り、手土産やら何やらも無しに見舞いに来るというのは少し不自然に思われたが、青年は気にする風もなく無表情で野上美雪の病室に入っていく。
出てきたところで話を聞いてみるか…
清治はポケットから七見の名刺を準備して、青年が出てくるのを待った。
ところが、

ところが、40分待ち続けても、青年は病室から出て来ることは無かった。今、中に居るのは青年の他には眠る野上美雪だけである。寝顔を見つめたまま自分も眠ってしまった、などの呑気な事態であれば問題はないが、清治は少し嫌な予感がした。
まさか、野上美雪の身に何か起きたりしてねーだろうな…
万が一の事を考え、いつでも先制パンチをぶちかませるように清治は手首をほぐして長椅子から立ち上がった。扉の影から病室を覗いてみる。
「……!」
清治は息を呑んだ。
静かな白い部屋の中、昏々と眠り続ける野上美雪。その傍らに青年の姿は、
無かった。
「…嘘だろ?」

見間違い、ということは有り得ない。清治は確かに、青年が野上美雪の病室に入ってゆくのを見たのだ。
どういう事だよ…
窓の外までも確認してみたが、やはり青年の姿はどこにもなかった。
まさか、また超能力ってやつか?
ふと、背後で何かが光った気がして、清治は反射的に振り返る。病室の扉の外にサッと何かの影が翻るのが見えた。
「待て、」
急いで後を追ったが、廊下にそれらしい影は見当たらない。長椅子に座った患者と、ワゴンを押す看護士だけ。
「くそ…逃がしたか」
とにかく野上美雪の身辺には何かがある。その事を確信しつつ、清治は再び辛抱強く張り込んだ。

しばらく経って次にやって来たのは、紙袋と花を抱えた少女だった。制服を着ている。おそらく高校生だろう。俯いたまま早足で病室に入って行くのを見て、清治は今度は出て来るのを待たずに追って中に踏み込んだ。
「ちょっと、いいか」
「わ、ど…どなたですか」
怯えた面持ちの少女に見つめられ、清治は言葉に詰まった。また消えられては困る、と、それしか考えず、自分の見た目の怪しさをすっかり失念していた事を清治は悔やんだ。
「あ、俺、七見探偵事務所の助手で…」
「お姉ちゃんが倒れた探偵事務所の人ですか」
少女は小さい、しかしはっきりした口調でそう言った。

「ああ、そうだ。あんたは野上美雪の血縁…、」
「お姉ちゃんは何でこんなことになったんですか。何で探偵事務所に居たんですか、何か依頼をしていたんですか、それが眠っちゃった事と何か関係あるんですかっ」
清治の言葉はまたしても途中で遮られた。矢継ぎ早な質問の後、少女は丸い大きな目で真っ直ぐに清治を見つめた。その顔にはどことなく野上美雪の面影がある。
「あんた妹か、野上、さん、の」
「そうです。春緒といいます」
真一文字に唇を結んで身を乗り出す春緒の視線から傷を隠すように、清治はフードを下げた。
「あんたの姉貴は確かにうちの依頼人だったぜ」

「お姉ちゃんは、何を依頼してたんですか?」
清治はどこまで答えるべきか迷った。まだ彼女が敵か味方かは判断できない。とりあえず
「身辺調査の類だ」
とだけ告げておく。
「わたるさんですか?やっぱり浮気してたんですか?あの男」
厳しい口調で突っ込んできた春緒に、清治は僅かにたじろいだ。
「む…えーと、しゅ、シュヒギムってのがあってよ、悪ィがあまり詳しくは、」
「あ、じゃああれですか。あのボランティアのこと。私、なんか怪しいからやめなよって言ったんですけど、」
今度は清治が話を遮る番だった。
「おい、待てちょっと待て」
「はい?」
春緒はぱちっと口を閉じた

"怪しいボランティア"と聞いて清治はピンときた。"奴ら"のことではないか?と。直ぐにでも詳しく聞きたかったが、先刻の消えた男、そしてフラッシュのような光が気にかかる。
監視されてるかもしれねえな…
そう考えた清治は、ポケットから七見の名刺を取り出し、そこにボールペンで
朝9:00 F駅西口前
と、殴り書いて春緒に握らせた。
「俺達も野上美雪が眠った理由を調べてる。明日そこに来れるか?話がしたい」
「わかりました」
声をひそめた清治につられて春緒も囁き声で答えた。
「何かあったら、表側にある事務所の番号に電話してくれ」
と、付け加え、清治は病院を後にした。

清治が事務所に戻る頃には既に辺りは薄暗くなっていた。もしかしたら、七見が飛べるようになっていやしないか、と少しだけ期待していた清治だったが、扉を開けてすぐにその思いを諦めた。安楽椅子の上で頭からすっぽりタオルケットを被る塊が見えたからである。
「話しかけるな」
清治が何か言うより先にタオルケットの塊が呻いた。
「これは僕ではない、ただの惨めなタオルケットだ。君たちの勇敢な四ヶ伍七見は死んだのだ…くっ…うう」
「お前なァ…俺、昼間はちょっと」
見直したのに、と言いかけて清治は口を噤んだ。頭の中で祖母が頷く。
男の孤独な戦いに水を差しちゃいけないよ

味見と称してさよりが淹れてきたジャム入りロシアンティーを飲みながら、清治は、七見改めタオルケットに告げた。
「野上美雪の病院に行ってきた」
「………」
ピクリとタオルケットが揺れる。だが、話しかけるなと言った手前からか、無言である。仕方なく代わりにさよりが尋ねた。
「どうだった?」
やれやれ、とこめかみを押さえ、清治は昼間の病院での顛末を語った。
消えた青年、カメラのフラッシュのような光、それから野上春緒と明日会う約束をとりつけた事。
「消えたって、ホントに消えたんだ!?パッて!?」
さよりが眼鏡を輝かせる。
「瞬間は見てねぇが、そうとしか思えなかった」
清治は腕を組んだ。

「やっぱり超能力の一種なのかなぁ」
そう言ってさよりはジャムのスプーンを口にくわえた。
念動力者の手島、テレパシストの野上美雪、どちらも超能力者であった。消えた青年も超能力者なのだろうか?
「超能力者だらけじゃねぇか…わざと集めてやがんのか?」
清治はこめかみを押さえ、タオルケットの塊に目を遣る。中でロシアンティーを飲んでいるのか、隙間から湯気が出ていた。
──"あの方"は四ヶ伍一族の末息子を欲しがっている──
清治は野上美雪の言葉を思い返した。今は飛べないとは言え七見も超能力者だ。"集めている"、その考えは全くの見当違いという訳でもなさそうだった。

「そういう事だからよ。俺、明日は直接駅に行くからな。聞いてるか、タオル」
清治にタオルケットを引っ張られ、危うく安楽椅子から落ちかけた七見は、いじけた声を出した。
「勝手にしたまえ。フン、君は有能だよ清治。飛べない千里眼なんかよりずっとな。独立でもしたらどうだ」
帰宅の準備をしていた清治の手が止まる。
「……」
今のはあまりにもひねくれすぎた物言いだ。腹が立つというより、清治は何か悔しかった。
昼間、懸命に飛ぼうとしていたアレは何だったんだよ
「あァそうかよ。テメェみてえな腰抜けは一生タオル被ってろクソ野郎」
そう言い捨てて清治は事務所の扉を蹴り開けた。

翌朝、清治はF駅西口で野上春緒を待っていた。郵便ポスト脇のガードレールに寄りかかり、行き交う人々にガンを飛ばしながら、清治はまだ昨夜の苛々が治まらなかった。
勿論、清治は過去を償わなくてはならない。償いに見返りを求めるのは間違っている。清治もそれは重々承知している。けれど、
あんまりガッカリさせんなよな…クソ…
感情は抑えられるものではない。当人があの調子では清治がいくら動いても、全部無駄かもしれない。そう思うと清治はやりきれなかった。
志摩ちゃん…アイツ実際どうなんだ…?
心の中で祖母に尋ねてみる。
お前はどう思うの?
祖母はそう返した。

「お待たせしてしまってすみません」
野上春緒は黒の上着に黒のパンツ、黒いサングラスという怪しげないでたちで登場した。
「………」
こめかみを押さえて絶句する清治。
「あんた…なんでそんな服装で来たんだ…?」
「えっ!?目立たないようにスパイらしい服装を選んだんですが、まずかったでしょうか」
「…とりあえずグラサンだけでも外してくれ」
電話ボックスに映る自分と野上春緒のツーショットを見て清治はため息をつく。
なんだこの物騒な二人組は…
尾行されていないか細心の注意を払いながら、二人はファミリーレストラン・セイゼリアに向かった。清治は視界の開けた壁際の席を選んだ。

一方その頃、七見探偵事務所には一人の客が訪れていた。
「よ、元気にしてたか」
古びたコートを纏った長身の男は、鳥打ち帽を脱いで、にい、と笑ってみせた。四ヶ伍五見(いつみ)、七見の兄である。
「五見兄さん!」
七見は玄関扉まで駆け寄って兄を出迎えた。
「五見お兄さま、お久しぶりです。ロシア紅茶をお煎れしますので、ソファーでおくつろぎくださいね」
「有難うさよりちゃん」
さよりに促されて来客用ソファーに腰をおろすと、五見はじっと七見を眺めた。
「しばらく見ない間に、大人になったなぁ」
「ま、まあ僕も独立しましたから」
七見は前髪を撫でつけながら咳払いをした。

「俺が家を出たのが15の時だから…だいたい13年間か、その間お前と直接会ったのは2回程だもんな。当然っちゃ当然か。最後に会ったのは5年前だっけか」
ロシアンティーを味わいながら五見はそう言って懐かしそうに微笑んだ。
「ええ。それにしても急にいらっしゃると聞いて驚きました。兄さんはその…忙しそうですね」
七見に見つめられ、五見はバツが悪そうに無精髭を撫ぜた。
「ある意味忙しいけどな、実質、仕事は無いんだ」
「え」
七見のスプーンからジャムの塊が滑り落ちる。
「どういう意味です?」
「それが今日ここに来た理由だ」
五見は一族に共通する切れ長の瞳を細めた。

「××新聞を辞めてフリーのライターになってから、俺はある件に深入りして調べ始めたんだが…それが運の尽きだったようだな」
五見は自嘲的な笑みと共にかぶりを振った。
「率直に言えば、まあ、攻撃されたんだ。"飛行中"に」
「…飛んでる最中、ですって!?」
ソファから飛び上がらんばかりに驚いた七見は、続く五見の言葉の先に更に絶句した。
「そう。それでこれだ。当分飛べそうにない」
五見は鳥打ち帽の下の伸びた前髪を掻き分け、左目を指で少し開いてみせた。
瞳の内部に走る傷。何かの爪痕のようでもあるそれは、光を受けて玉虫の翅に似た妖しい煌めきを放っていた。

四ヶ伍五見の"翼"はヨタカである。父の鳥雅や、兄の二見などとは違い、小型で攻撃性は高くない。ただし彼が他の兄弟たちと違うのは、大仰な動作や精神集中を全く行わないで秘密裏に"飛ぶ"ことが出来るという点だった。例えば電車の中、五見は他人と、ごく何でもないふうに会話を楽しみながらでさえ、千里眼を行使することが可能なのだ。
勿論、七見は五見の"翼"の特性はよく知っている。だから、この兄の"飛行中"を襲える人間はその飛ぶ姿を見る事のできる、同じ"千里眼"以外に有り得ないという事にも気がついた。
「…兄さん、あなたは一体、何を調べていたのです?」

「これだ」
五見が取り出したのは、一枚のカードだった。ピアノを簡略化したような絵柄が描かれており、その下にロゴが入っている。
Organ
そう書かれていた。
「何ですか、これは」
「或る団体のシンボルマークみたいなもんだ」
「兄さんはこの団体を追っていた訳ですか」
「うん」
頷きながら五見は何故か、僅かに悲しげに七見の榛色の目を覗き込んだ。
「"オルガン"は、ボランティア活動を目的とした団体だ。表向きそういう事になっている」
「実際は違うと?」
「まあ、そういう事だ」
一呼吸挟んで片目を押さえ、
「単なるボランティア団体に千里眼は必要ないだろうな」
五見はそう言った。

そもそも五見が"オルガン"を追い始めたのは、或る一族の動きを掴んだ事がきっかけだった。その日、五見は行方をくらました会社社長を捜索するために"離陸"していた。そうして偶々、目にしてしまったのである。
同じ"千里眼"の家系であり、15年前四ヶ伍一族との抗争に敗れて以来、その活動範囲をヨーロッパの一部に限定していた、ウィンスレット家の"飛行"を。
「長男と長女が揃ってお出ましと来た。何かあると思ったよ。夜間飛行で人目を忍んだつもりか何か知らないが、あいつらのバカでかい"乗り物"は目立つからな」
鋭い目でクッと笑う兄の話を、七見は嫌な予感と共に聞いていた。

「兎に角、あいつらが"うちの敷地"で何をやってんのか気になった俺は、最近ウィンスレットとコンタクトを取った奴を洗ってみる事にした」
その結果、千里眼市場においては完全に四ヶ伍一族の独壇場となっているアジア圏で唯一、ウィンスレットの一族と関わりがあった団体の名が浮かび上がった、と五見は説明した。
「それが、"オルガン"だという訳ですか」
「そう。だが一体実質にどういう組織なのかはほとんど判らなかった」
五見はお手上げのジェスチャーをしてみせて、
「わかる前に、こうなった」
そのまま片目を指差す。
「じゃあ、その傷、ウィンスレットの奴らに…」
七見がガタ、と身を乗り出した。

くだけた物言いで弟にも対等の態度を取る五見は、幼い頃の七見にとって数少ない味方の1人だった。尤も、五見は早くからから四ヶ伍家を出る決心をしており、友達の家を泊まり歩いたりする事が多かったから、一緒にいる時間は決して長くはなかったのだが、それでも七見はこの兄を慕っていた。自立の気概を持つ五見に、ある種の憧れを抱いていたと言ってもいい。その五見がウィンスレットの一族に傷つけられたという事実は七見を憤慨させるに充分だった。
「何てことを…!」
歯噛みする七見を宥めるように、五見は続けた。
「ま、それは俺が油断したせいでもある。問題は…」

「問題は、"オルガン"が接触しているのはウィンスレットの奴らだけじゃあない、という点だ…あ、さよりちゃん、おかわり貰えるかな。美味しいよ」
「ありがとうございます」
さよりにカップを差し出しながら、五見は鞄からファイルを取り出した。
「翼をやられる前に数人だけ、"オルガン"の会員らしき人物について調べることができた。そしたら面白い事が判ったよ」
ペンペン、と、五見の指がファイルをはじく。七見は唾を呑み込んだ。
「調べた奴は全員、超能力者だった」
「………」
繋がった。
「やっぱり、心当たりがありそうだな」
五見の手元のファイルの、野上美雪の写真を眺め、七見は頷いた。

「先月、彼女はウィンスレットの長男とイギリスで直接会っている。残念ながら途中で気付かれてこんな事になってしまったから、何を話したのかは見られなかったが」
傷ついた目を指差して、五見は七見を振り返る。
「飛べないまでも、俺も一応もと新聞記者だ。人を追うノウハウは知っている。今月になって彼女が今度はある人物を探り始めた事だけは掴めた」
「それが…僕?」
「ああ」
言われて七見はゴクリと唾を飲み込んだ。
「直ぐにお前に警告をすべきだったんだが…すまない。ウィンスレットに警戒されていて連絡が遅れてしまった。結果、あんな事に」
五見は悔やんでいる様子だった。

「ここで何があった?」
五見は野上美雪が眠りに落ちた事を昨日知ったと言う。七見は野上美雪が事務所に来てからの一部始終を語って聞かせた。
「彼女は最初、依頼人を装っていたんです…」
新しく注いでもらったロシアンティーを傾けながら、五見は七見の話を黙って聞いていたが、話が野上美雪が倒れた瞬間の場面に差し掛かった辺りで顔色が変わった。
「その…"あの人"というのが四ヶ伍家の末息子を欲しがっている、そう、言ったのか?彼女は」
「え、ええ。なぜ僕が名指しで狙われるのかよく判らないんですが…」
しおれた態度の七見の前で、五見は腕を組んで考え込んだ。

「…兄さん?」
自分が狙われる理由について、兄は何か知っているのではないか?
心の内にそう感じた七見は、窺うように兄の顔を覗き見るが、
「ああ…」
何となく上の空な口調でそう答えた五見の瞳からは何も読み取れなかった。ぼんやりしたのも束の間のことで、五見は直ぐに我に返ると、
「そうだ、」
ファイルから別の写真を数枚引っ張り出した。
「"オルガン"と関係してそうな怪しい奴は出来る限り写真を撮ってある。これはお前にやろう」
礼を告げようとした直前に、七見は一番上に乗った写真に目を奪われ固まった。
「見覚えがあるのか?」
五見が身を乗り出した。

写真にはフードを目深に被ったいかつい男がいかにも怪しげに写っていた。
「あの…五見兄さん、これは、」
「それは昨日、野上美雪の入院先の病院で撮った。こいつは周囲を気にしながら、随分長時間病室の前をうろついていたからな、見張っていたのかも知れない」
七見は申し訳なさげに俯いた。
「確かに怪しい奴ですが、彼は清治といって僕の助手です…」
「何、そうだったのか」
五見は驚いて、まじまじと写真を眺めた。
「お前はこういうタイプとは相性が悪いと思っていたが…」
「良くはないですよ。ガサツな部下を持つと苦労します」
七見は、ふ、とため息をついてみせた。

ファミレスの空調がいかれているのか、妙に背中に寒気を感じて、清治は立て続けに数回、くしゃみをした。
「だ、大丈夫ですか?」
ドリンクバーから持ってきた乳酸飲料に口をつけていた野上春緒が心配げな声を上げる。
「すまん…気にすんな」
何なんだ、くそ。風邪でもひいたか?
珈琲を少し飲み込んで気を取り直して清治は、野上春緒への質問を続けた。
「ああ、それで、あんたの姉さんが関わってたボランティアってのは、どんなものだったんだ?」
「私も詳しく知っている訳ではないんですけど…とにかく、最初はたまたま駅で声をかけられたのがきっかけだった、と言っていました」

野上春緒は直線に近い緩いカーブの眉をしかめ、真剣な顔で語り始めた。
「お姉ちゃんは、わたるさんが浮気してるかもしれないって疑い始めてから、ちょっと変でした…お姉ちゃん、わたるさんのことほんとに好きだったから、すごくショックだったんだと思う」
野上美雪はそんな時、声をかけられたらしい。
「何だか、環境問題に関するアンケートみたいなのをやってたらしくて、お姉ちゃんはそれに答えたと言っていました。そしたら後で電話がかかってきて、」
取り次いだのは春緒だった。落ち着いた男性の声。津川渉以外の男性から姉に電話が来たのは初めてだった、と春緒は語る。

「相手は何て名乗った?」
清治の質問に、春緒は少し考え込み、
「ええと…ひえいりなんとかかんとかボランティア…ピアノだかオルガン、だか、団体の名前はちょっとうろ覚えなんですが」
完全に思い出せなかったことを詫びて、ストローをちゅる、と吸った。
「その人は、ヒダリメ、って名乗っていました」
「…変な名だな」
奇妙な響きに、清治の中で何かが、ぞくりと逆立つ。
「字は判りませんが、そう言っていました。お姉ちゃんはそれから、そのピアノだか何だかってボランティアのミーティングに行くようになりました」
春緒はそこで苦しげなため息を吐き出した。
「私…やな予感がしていたんです」

「嫌な予感?」
「はい…あの、」
春緒はそこで躊躇った。そうしてまた乳酸飲料を少し飲み下すと、意を決したように清治の顔を見つめた。
「あのっ…!探偵さんは、超能力って信じますか」
「ああ」
「え、」
一般的には荒唐無稽と取られて仕方ない質問に表情も変えず即答した清治の様子に、春緒の方が驚いた。
「変なこと訊いてびっくりしないんですか」
「…いるしな、身近に。超能力者が」
「ええ!?」
清治はタオルケットの塊を思い浮かべながら珈琲をすする。春緒は微かに震える握りこぶしをテーブルに突いて身を乗り出した。
「こ、怖いとか気持ち悪いとかは思わないですか」

「いや…そういう風には思ったことねえけど」
答えてから清治は気付いた。
超能力をそういうモンとして捉える奴もいるのか…
「みんなが清治さんみたいだったらよかった」
春緒がポツリと漏らす。七見の能力を、単純に凄いとしか感じていなかった清治は、別の見方をする人間もいる事をこの時初めて認識した。
「お姉ちゃんは、その…超能力みたいなのがあったんです。だから色々大変だった。気味悪がられるのが辛くて人と喋らなくなって、」
姉の能力の具体的な内容、を春緒は避けた。清治は野上美雪がテレパシストである事を知っていたが、指摘する気にはなれなかった。

「だからお姉ちゃんは、弱いんです…自分を必要としてくれる人に」
津川渉の件のダメージもあり、野上美雪は自分を必要としてくれるものが欲しかった。それが活動内容の不明瞭な怪しげな団体だったとしても。その悲しい習性に、清治は共感を覚えずにはいられなかった。
清治にも、ある。不良のレッテルを貼られ誰からも疎まれた時代が。当時の清治を必要としていたのは、キナ臭いアンダーグラウンドな世界だけだった。
お前は有望株だ。家出費用は出す。ウチに来い。
そう言った男のズボンのポケットの不穏な膨らみ、それが拳銃だと清治は知っていた。知っていながら、飛び込んだのだ。

沈鬱な目でこめかみを押さえる清治を、野上春緒が覗き込む。
「大丈夫ですか」
「ああ別に…何でもねえ。それで、姉さんは最近もそのピアノだか何だかと連絡を取っていたのか?」
「3ヶ月くらい前からお姉ちゃんはアパートで一人暮らしを始めちゃったから、良くは知らないんですけど…でも、」
少なくとも眠ってしまった日の前日は、"ミーティング"に出ていたはずだ、と春緒は証言した。
「私、お姉ちゃんの様子見に行こうと思って、遊びに行っていい?って訊いたらお姉ちゃん、ミーティングがあるから明日がいいって…」
だが約束は果たされず、野上美雪は未だ夢の中をさ迷っている。

「探偵さん、」
春緒は、激しい感情を抑えつけるような詰まった声を出した。
「そろそろ教えてもらえませんか。探偵さんの所で何があったのか、私、知りたいんです。お姉ちゃんが眠っちゃった理由が」
「…だろうな」
事の次第を話してやりたい感情は清治にも強くあった。だが春緒が"奴ら"の側の人間でないと言える確証は未だ無く、手の内を明かすべきかは判断できない。また、そうでなかったとしても、詳細を知る事で春緒がこの事件に巻き込まれる事になるのではないかという懸念もあった。残った珈琲を飲み干しながら、清治は気取られぬよう周囲を鋭く警戒した。

客はまばらだった。真ん中辺りの席に大学生らしき3人組が。その近くには中年女性のグループ。出口付近に何か深刻な顔をした若い男女。そして窓際に男が1人。最奥の壁を背にして座る癖は、服役前のキナ臭い過去に染み付いた忌まわしいものであったが、清治はその癖を忘れていなかった自分の体に僅かに感謝した。
「悪ィが、一度ここを出る」
「え、」
突然の事に戸惑う春緒の腕を掴んで、清治は素早く会計を済ますと、店脇の路地に走った。
「どうしたんですか?」
「ちょっとな…」
角に立つカーブミラーに、ファミレスの出口が映り込んでいる。ミラーを注視しながら清治は舌打ちをした。

カーブミラーの風景の中、清治たちの後を追うように、1人の男がファミレスから出てきた。窓際に座っていた紺色のジャージの男である。何故か清治は男が店に入ってきた瞬間を見ていない気がした。だが最初から居たのでないのは確かだ。そうならもっと早くに気付いていた筈だった。清治は男に見覚えがあったのである。
野上美雪の病室で消えた青年。
偶然にしてはあまりに不自然すぎた。
「あいつは昨日、アンタの姉さんの病室に来ていた。親戚か何かか?」
ミラーから視線を外さぬまま小声で尋ね、
「ち、違います」
強張った顔で春緒が答えたのと同時に、清治は路地から腕を伸ばした。

ジャージの男はそれなりに上背はあった。けれど突然襟首を掴まれて宙吊りにされては為すすべも無い。自分を片腕で路地に引っ張り込んだ男の、傷の走った額を、ただ見つめるしかない様子だった。
「病院にもいたなテメェ」
押し殺した声で、清治は尋ねる。
「誰に頼まれた。目的は何だ」
青年は答えない。清治は青年の体をブロック塀に押し付けた。
「頼む、おとなしく答えてくれ。顔面潰すとか指折るとか、もうやりたくねぇんだよ」
清治の言葉を聞いた青年の顔に浮かんだのは、2つの感情だった。
怯えと、嘲笑。
そして漸く口を開いた。
「アンタ、脅される側になった事、ある?」

青年の台詞の意味を清治が理解したのはそれから数秒後のことだった。
「逆転、する前に心構えしときたいかな、と思って」
言いながら青年が指を持ち上げる。指し示す方向、背後を振り返ったその瞬間、清治の視界には確かに野上春緒の姿が映っていた。だがそれは
0.5秒で掻き消えた。
清治の目の前で春緒は文字通り、"消えた"のだ。
うそだろ?
人間が消えるなんて。そんなことがあってたまるか、と、否定する理性と、現実にそれを目にした事で動揺する感情とがぶつかり合い、清治は動く事ができなかった。
「とりあえず、離せよ」
青年が襟首を掴む清治の手を睨んだ。

「…頭蓋骨ブチ割られる前に野上春緒を戻せ」
かすれた声を出しながらも襟首を離さない清治に、青年は再び微かに怯えた表情を見せたが、口元はつり上がっていた。
「アンタまだ分かってないだろ。オレの頭蓋骨ブチ割ったら野上春緒は二度と戻んないんだぜ」
くそ…つまり人質、って訳かよ。
これまでの経験からして青年が"超能力者"である可能性は高い。トリックすら無いかもしれない人体消失マジックに、内心はお手上げ状態の清治だったが、物騒な駆け引きに必要な台詞は心得ていた。
「もとに戻らねーのはテメェのブチ割られた頭蓋骨も同じだがな」
青年の眼輪筋が引きつった。

「しかし、この彼が"奴ら"の仲間でなくお前の助手だったとなると…気になることがある」
平面画像になってもなお殺気の滲む清治の写真を手に、五見が不意に額に深刻な縦皺を刻んだ。
「何です?」
細い眉を神経質に歪める七見に、兄は言った。
「俺はてっきり仲間同士と思っていたが、今思えば清治君はマークされていたのかも知れない」
五見は清治の写真の下に重なっていた別の写真を取り出して見せた。17、8歳ぐらいだろうか、紺色のジャージを着た若者の姿が写っていた。
「清治君は今、どこだ?知らせた方がいい。こいつは、」
五見は一旦、言葉を区切った。
「テレポーターだ」

テレポーター。物体を瞬間移動させる能力の持ち主。意味は七見も知っている。しかし、
「待ってください五見兄さん。テレポーテーションは目撃例の無い、一般には実在しない力と言われています。彼がそうだって言うんですか」
それは同じ超能力者であっても、俄かに信じ難い能力であった。超能力は決して魔法ではない。科学的な解明がまだ為されていないだけで、そこには未知の物理法則が存在する筈である。そしてその法則は既知の物理法則とも折り合いのつくものでなければならない。テレポーテーションはそれが成り立たない"あってはならない能力"。有識者の間ではそう言われていたのだ。

「信じがたい事だが、その可能性は高いと思う」
五見はゆっくりと頷いた。
「この若者、足立浩市(あだちこういち)のすぐ近くでテレポーテーションとしか判断しようのない現象が起きたのを、俺は2度見ている」
ひとつは自転車。何もない空間から自転車を取り出し、彼はそれに乗った。もうひとつは足立本人。彼は人気のない路地に入り、そこで文字通り消えた。
「その時はまだ"飛べた"からな、捜索はした。見つけるのは容易かった。彼は3km先のマンションに居た。だが俺が捜索にかけた時間は2分程度。これはつまり」
「テレポーテーションしかない…」
兄の言葉の続きを七見が呆けた声で呟いた。

ある場所に瞬間的に物質が出現した場合、そこに既に存在していた物質と融合し、大爆発を起こすと考えられている。つまりテレポーテーションによって移動する物体は、移動した先が"何も無い空間"でなければならない。それが、地球上で自在にテレポーテーションを行うのは不可能であるという説の根拠となっている。一見何もない空間であっても、空気中には酸素や窒素といった分子が存在しているのだから。
だが現実に、足立浩市の周囲で爆発などなかった。それでも瞬間移動としか思えない現象はあったのだ。馬鹿な、と思いつつも七見には兄が嘘など吐いていない事がよく分かっていた。

「清治君は何処だ」
もう一度そう尋ねられ、七見は我に返った。
「野上美雪の妹に話を聞きに行っています。携帯電話を持っているはずなので、今連絡を入れてみます」
「尾行されていたとしても気付かない振りをしろと伝えるんだ。間違っても接触はするな、テレポーターは危険だ」
五見にそう言われた瞬間、七見の脳裏に、ある光景が浮かんだ。
テメェ、この俺を尾けるとはいい度胸してんじゃねえかコラ!ぶっ殺すぞ!
「ま、まずい、」
さよりから携帯電話を受け取ると、動揺に震える指で七見は清治の番号を素早く叩いた。
無機質な呼び出し音。
「くそ…何してるんだ早く出ろ!」

ポケットから電子音が鳴っている。ジャージの若者の首を掴んだまま、清治は電話に出るべきか迷ったが、結局片手で携帯を取り出し、妙な動きをしたらぶっ殺す、と、牽制しながら通話ボタンを押した。
「何だ」
「何故すぐ出ないんだ。一体どこに携帯をしまっているんだ君は」
七見の文句が耳に飛び込んで来る。
「くだらねー用事なら切るぜ。取り込み中だ」
「忠告してやろうとわざわざ電話してやったのに、随分な態度…」
「切るぞ」
「ま、待て!いいか!お前を尾行している奴がいても手を出すな、そいつは、」
言うのが遅ェ。
清治がそう言いかけた瞬間、若者の指が微かに動いた。

若者の視線は上空に向いていた。指先がゆるりと、四角形をなぞるように動く。
「てめェ!動くなって…」
言い終わる前に背筋がゾクリと粟立ち、嫌な予感がした。清治は反射的に恐ろしいスピードで若者を殴り飛ばし、後ろに飛び退く。そこに、
冷蔵庫が降ってきた。
「な、今の音はなんだ!何が起きた!?状況を説明しろ清治っ」
携帯電話から七見ががなり立てていたが、返事をする余裕は清治には無かった。足元数センチの距離に突然落ちてきてコンクリートにめり込んだ冷蔵庫を前にしてさすがに凍りついた清治に、若者は鼻血を拭いながら
「…惜しかった」
と不気味な笑顔を向けた。

再び頭上で空気を切る気配がし、間一髪で避けた足元に今度はステンレスの椅子が落下してきた。
まずいぜ、これは…
人間が目の前で消失し、更には冷蔵庫や椅子が落ちて来る。いかに物騒な世界に居た経験のある清治と言えども、こんなに不可思議な状況では、形勢を逆転し返すのは難しかった。
何でモノが降って来るんだよ畜生!
これでは近づく事すらできない。
くそ…所長が"飛べれば"何か判るんだろうがよ…
若者の"能力"がどういうものなのか、攻略するにはどうしたらいいのか、野上春緒は今どうなっているのか、清治は何も見えないまま考えなくてはならなかった。

「…………」
硬直してしまった七見が手に握る電話の向こうから聞こえてきた2度目の衝撃音は、兄、五見の耳にも入っていた。
「七見、すぐに"飛ぶ"んだ、彼は危険な状況にある」
「わわ…わかっています…わかっているんですが…」
振り返った七見は今にも倒れそうな青い顔をしていて。
「どうしたんだ、急がないと、」
掴んだ弟の細い肩が小刻みに震えている事に、五見は気がついた。
「に…兄さん、僕、」
飛べないんだ、
そう言おうとした七見だったが、どうしてか言葉が喉で詰まって出てこない。
「…七見?」
五見の心配げな瞳に見つめられ、七見は唾を飲み込んだ。

「どうかしたのか」
「い…いいえ…」
ほとんど会話を交わしたことのない、眠れる長男・一見を除き、兄弟たちの中で唯一対等に接してくれた5番目の兄は七見にとって憧れの存在である。恐怖心が原因で飛べなくなり、精神科医の世話になったなどと言えば、せっかく自分を対等に扱ってくれていた兄を失望させてしまうのではないか。そのような、プライドにすら成りきれない思いが、七見にどうしても正直な告白をさせなかった。
「西江…、準備を」
「かしこまりました」
震えた声の指示を受けたさよりはそう答えて、まるで七見が飛べない事など知らないかのように微笑んだ。

極度の緊張による吐き気を抑えながら安楽椅子に搭乗した七見の傍ら、五見は心配顔で腕を組む。
「顔色が悪いみたいだが、本当に大丈夫か。ウィンスレットのポンコツにやられたりしてなけりゃ俺も一緒に飛べるんだが…すまない」
「だっ、だだ大丈夫です、ほんと、あの、すごい平気…絶好調……」
言ってしまってから七見は、自ら思いきり退路を破壊した事に気付き、愕然となる。もはや体調が優れない事を言い訳にはできない。
お、落ち着け、僕…
兄に聞き取れない程度の微かなボリュウムで七見が呟く言葉と追い詰められた息遣いは、安楽椅子の真後ろで見守るさよりには聞こえていた。

野上美雪が眠ってしまった時、七見は"目"を目撃している。七見のフライトを阻害しているのは、その"目"に対する恐怖であるという事をさよりは承知しているはずだった。だから、今さよりの口から告げられるとしたら自分の恐怖を和らげてくれる言葉以外にはない、と思っていた七見は、ヘルメットを手渡しつつ彼女が小さく耳打ちした内容に動揺した。
「所長、もし所長がフライトに失敗なさったら、南武くんは眠らされるよりもひどい事になってしまうかもしれません…」
栗色の髪が恐怖に逆立つ。
待っ、何でそんな怖い事言うの!?
七見は目で訴えたが、さよりは視線を逸らした。

見えない操縦桿を握る七見の白い腕に、青く血管が浮き出る。呼吸はひどく乱れている。七見は最悪の事態を想像した。
お前には失望した、兄にそう言われ、さよりにも見離され、
そして清治はテレポーターの手にかかり、戻らない…、
飛ばなければ全てを失う。
「…い、嫌だ、そんな事…そんなの、」
カラカラに渇いた喉、スピードを増す脈拍。コンディションは最悪である。しかしこの時七見の中で膨れ上がった"最悪の事態"への恐怖は、"目"への恐怖を完全に上回った。
「やだあああ!」
落ち着きも何もない、真夜中に殺人鬼から逃げ惑う悲鳴にも似た切迫感が、七見の腕を動かす。
操縦桿は、

「う…動いた、」
動かなかった見えない操縦桿を引くことができて僅かに安堵したのも束の間、直後、狭い事務所の空気がバチンとはぜ、色素の薄い七見の髪の毛は突風に煽られたかのように巻き上がった。
離陸は一応、成功した。
ただし、尋常ならざる勢いで。
「なっ…何だこれはぎゃああああっ!」
七見の両手は必死に機器を操作するが、彼の"乗り物"は何故か言うことをきかない。1500m上空まで急上昇した後、2代目シャーロック号は突然回転した。
「みっ!」
持ち上がったループタイの青いカメオに額を打たれ、悲鳴を上げる七見。五見は飛んで見ずとも弟の状況を理解した。
「暴走か!」

「いかん七見、降りろっ!」
どういう訳か、七見の"乗り物"は暴走している。それに気付いた五見はそう叫んだ。千里眼のエリートである四ヶ伍家において"鳥"の暴走は極めて珍しい。だが五見は、七見がまだとても小さい頃、初めてのフライトでこうして鳥──そのフライトで七見の"鳥"が鳥ではなく、奇怪な乗り物である事が判明したのだが──を暴走させた事を覚えていた。
「飛ぶのをやめるんだ!お前、下手をすれば一見兄さんみたいに…」
安楽椅子から引き下ろそうと、五見は七見の手を取る。しかし、
「だ、だめです」
末っ子はそれを振りほどいた。
「今だめギャアアアこわいぃ!」

「…七見、」
驚いた五見は払いのけられた己の手と、弟の顔に視線をさまよわせ、次にさよりを振り返った。
「さよりちゃん、七見を止めてくれ」
「五見さまご心配は、」
言いながらさよりは滑るように七見の足元に回り込み、跪いた。
「無用です。坊ちゃまは、お出来になりますよ」
そうして、目を回し悲鳴を上げている七見のループタイをクリップで胸元に留めてやると、携帯電話を恭しく手渡した。瞬間のさよりのレンズ越しの瞳に、五見は反論するのも忘れて息をのむ。それは窮地の主人を心配する従者のものではなく。例えるなら映画館の上演開始のブザーを聴く観客の目、だった。

「……?」
"本・DVD専門・まにあっくるーむ"と書かれた看板が地面に突き刺さるのを目にして、清治はふと疑問を抱いた。
依然としてテレポーター、足立──無論、その名も能力も清治は知る由もなかったが──を攻略する術は見つからず、ただ現れる家具や何やらを避ける事が精一杯の状況であるのは変わらない。しかし、
どういう事だよ、おい…
清治はその看板を知っていた。"まにあっくるーむ"は駅からそう遠くない交差点の脇に位置する本屋である。店に入った事こそ無かったが、一昔前のアニメタッチの少女の絵の描かれた目立つ看板は、清治の記憶にも鮮明に残っていた。

何故、"まにあっくるーむ"なのか。
それが問題だった。清治は七見から借りた本の中のシャーロック・ホームズが事件を整理する時のように、頭の中で気づいた事を箇条書きにしてみる。
ひとつ。看板はマジに実在する看板だ。色あせ具合もこんな感じだった。
ひとつ。てことは、今現在あの交差点脇から看板は消えているのか?
消えたと言えば野上春緒も消えた。いや違う、奴は確か…
何かが繋がりかけていた清治の思考は、若者、足立の言葉に中断された。
「考えたって、わかんないと思うよ」
足立の口元はつり上がっていたが、目は笑っていなかった。
「あんたみたいな人間にはね」

「オレはね、あんたみたいな奴が嫌いなんだ」
言いながら足立は未だ止まらない鼻血を拭った。もう片手は空中に向いている。その指が動く時、椅子や看板が落ちてくる事を知っている清治は、先手に動く事もできず、足立の指先を黙って見張るしかなく、
「脅される側になった事のない奴は、考えを巡らせない。考えなくたって暴力でなんとかなっちゃうんだからな。ただし、今回は違う」
妙に恨みのこもる口調を訝しむ暇も無い。
「怖いだろ?次に何をされるか、怖いだろ?今、脅されてんのはな、あんたなんだよ!」
足立の指先が円を描いたのを確認した清治は、横っ飛びに跳んだ。

落下するコンクリートの塊。飛び散った破片が清治の耳を掠める。鋭い痛みと同時に何の加減か、清治はある可能性に思い当たった。
野上美雪は本当に消えたのか?
若者、足立が"人質"という言葉を使った事、"実在する"看板が降ってきた事、
コイツの超能力は人や物を移動させる力なんじゃないのか?
"テレポーテーション"を知らない清治の脳はそこまで到達した所で、芋づる式にもう一つ、問題に気付いた。もしも、
それがコイツの力なんだとしたら、コイツ自身はどうなんだ?
野上春緒を取り返す前に、目の前の男に"消えられてしまう"事。清治が現時点で最も避けたいのは、それだった。

七見の事務所で働き始めてこの方、僅かな期間に清治は次々に"知らなかった世界"を見ている。
一瞬で人や物を移動させる超能力
清治の中に、そんなものを本気で考えている自分自身を馬鹿馬鹿しいと嗤う気はもはや微塵も湧かなかった。有り得ないような事象を仮定した行動であっても、自らがするべき仕事を清治は即座に決定した。目の前の男を逃がさないこと。少なくとも野上春緒を奪還する方法を見つけるまでは。
「おまえよ、」
清治は血の滲む耳を軽く押さえ、足立に凶悪な笑みを向けた。
「不良のパシリやってた事あるだろ?」
足立の目の辺りが微かに痙攣する。

「違う」
足立は低い声でそう吐き出すと、怒りのこもった目で清治を睨んだ。
「じゃあカツアゲでもされたか?」
相手の指先を注意深く観察しながら清治は更に足立を挑発する。
「今頃、それも張本人じゃねェ奴相手に復讐ごっこか。まだビビってんじゃねえの?お前」
「違うっつってんだろ!黙ってろよ!」
激情と共に足立の指が空をなぞり、"止まれ"と"スクールゾーン"の交通標識が立て続けに2枚、刃物のように落下してきた。距離を開けすぎないよう紙一重で回避する清治。そのポケットで携帯が鳴る。
「……」
所長か、
だが電話を取ろうとした瞬間、錆びたトタン板が頭上に現れた。

ポケットに手を突っ込みかけていた清治は体勢を崩してアスファルトにもう片手を着く形になった。真横をトタン板が通り過ぎる。転がりながら通話ボタンを押した清治は、かすめたトタン板に切り裂かれた肩の痛みよりも、携帯を耳にあてる前から聞こえてきた電話の向こうの悲鳴に、ギョッとなった。
「ウギャァアアア!!まっ…うは!あもっ…ちょ、」
「お、おい…所長か?」
立ち上がって一旦、自転車置き場の陰に入る。
「何だよ!どうしたんだ?こっちも今とりこんで…」
「きよはる…」
息切れ混じりに七見は返す。
「と…とんだぞ、なんとか…おちそうだが…」
思わず、清治は上空をふり仰いだ。

「マジかよ…」
言いようのない感情が清治の胸に溢れた。口角が自然と吊り上がる。
「はッ!やったなオイっ」
気の弱い者が見たら卒倒しそうな凶悪な笑顔であったが、それは嘲笑でも脅迫でもない、心底からの喜びだった。
「全然やってない!落ちそうだと言っただろう!お前ちゃんと聞いてたの、か…ああっぶな!あぶなッ!」
「今、ここに居んのか?」
七見の必死な声を聞いて真顔に戻ったものの、清治は、何とかなるような気がし始めていた。状況を打開できる可能性、希望、
「ああ、お前の、真、上、いや下…だはっ」
「よし、」
頷いて、清治は自転車置き場から飛び出した。

姿を現した清治を、コンクリートの塊が襲う。紙一重で避けながら、清治は若者の様子を窺った。怒りのたぎるギラついた視線からして、未だ逃げる様子は無い。先刻の挑発はとりあえず効いているようだった。
「おい、見たか。あいつ今、何やってた?」
見えないと判っていながらもつい上空に視線を遣りつつ清治が尋ねる。
「うう…待、あいつって、あのジャージ男の事か?」
七見は妙な答え方をした。
「あァ?当たり前だろ、テメェ知ってんじゃねーのかよ、あいつのこと…でッ…いってェだろクソ野郎!」
言葉の持つ意味を考えようとした所で、降ってきた車の輪留めに腕を打たれ、清治は呻いた。

お前を尾行している奴が居ても手を出すな。
1度目の電話で七見はそう言った。
「あいつを知ってるから電話してきたんじゃねえのかよ」
「い、いや…そっう!なはずだったんだが、」
"乗り物"を制御するのに手一杯なのか、清治の追求に対する七見の答えはどうも要領を得ない。
「違う奴だったのか?」
「似ているが、足立浩市とは違う気も…しかしッ…彼は今確かにテレポーテーションとしか思えない能力を使った、これは一体…」
「テレポ…なんだ?」
疑問符を浮かべる清治に、七見はヤケクソ気味に叫んだ。
「テレポーテーションっ!瞬間的に物体を移動させる力だ!そんな事も知らないのか!」

物体を"移動"か。
なるほど。と、納得する間もなく、コンビニの電気看板が清治の目の前を掠める。
「でっ!どうやってやってんだよそれは!」
駆けながら清治は尋ねる。念動力者の手島が自分自身のビジョンを使って物を動かしていたのを、野上美雪が見えないヘッドホンで他人の心を聴いていたのを見たように、七見にはそれがどうやって行われているのかが見えるはずだった。
「ま…いっ今さかさま…ぎゃーまわるーまわるー!」
「くっ、テメェ飛べたんならもう一歩気張れよ!」
舌打ちして跳んだ清治は塀沿いに停められた自転車をとっさにひっ掴み、ジャージの男に向けてぶん投げた。

清治の投げた自転車は、若者に当たる寸前で忽然と消失した。音もない。TVアニメの超能力者のように派手な光を発する訳でも無い。ただ、消えた。清治にはそうとしか見えない。
野上春緒もああやって消したのか…
目を鋭く細めた清治の耳に、七見のやや裏返った声が届く。
「は、わ…今の…」
「何か見たか?どうやって消してた?」
「う、わからない、揺れてよく見えないし…自転車そのものに大きな変化は無さそうだったが、ただ…」
「ただ?」
次々に落ちてくるパイプ椅子を避け、清治は電話の声に集中する。
「た、うっわ!大した事じゃないん、だ、関係あるかは判らな、いはっ」

「いいから言えって」
「言っておくが、僕は本調子じゃないんだぞ…ま、間違ってたとしても、」
「早く言わねーと1秒ごとに後でブチ折る」
「ぶ、ぶち…何を!?」
「指だ。いーち、」
「何ィイイイーーッ!?」
七見は自分の見たものにあまり自信が無いようだったが、清治に急かされ、慌ててこう答えた。
「い、糸っ!糸だ!あいつの頭の上から、なんか半透明な糸みたいのが伸びてて…一瞬だが光ったから見えた気がしたんだ、逆さまだったから微妙だが、」
糸だと…?
こめかみを押さえて考える。清治にはそんなものは見えなかった。つまり糸は何らかの"能力"である事は確かなのだ。

糸でものを浮かす事はできるかも知れない。だが、消すことなどできるだろうか?
何か納得のいかない部分がある。だが今のところ清治が頼れる情報はこれしか無いのだ。
「糸…って、もっと詳しく言えよ、どんな糸だ?髪の毛みたいなのか?」
「全然違う!頭の上からピンと張って出てる、と思う、多分」
ピンと張って出ている糸
清治は若者の姿に、見えない"それ"を重ねて想像してみる。そして。
「…おい、」
「う、な、なんだよ!」
「お前、糸は張ってるって言ったな?それってよォ…もしかして、」
"どっかに繋がってる"ってことか?
「あ、」
清治の言葉に七見は息を呑んだ。

「そ、そうかも…」
「よし、たどれ。繋がった先に何があるか見ろ!急げ」
「たど…っ、む、無茶を言うな!ここに来るのだってやっとだったんだぞ、安定しないんだ、制御が」
不安な声を上げる七見がどこに居るかは見えなかったが、清治は言い聞かせるように上空を仰いだ。
「所長」
返事の代わりに悲鳴がしたが、構わず続ける。
「飛べなくなってクサって毛布被ってる方か、それとも地味に戦ってる方か、どっちがお前なんだか正直わかんねえけどよ、」
「………」
「俺はお前が"できる"方に賭けとく。いいか、コイツはギャンブルだ。後の事は考えねえでやれるだけやりゃあいい、…飛べ」

七見が生唾を呑む。
「…でも…もしアレが、」
清治は七見の言う"アレ"が何だかすぐに察した。野上美雪が眠った時に見えた、例の"目"。七見は飛んだ先で"目"に鉢合わせる事を怖れているのだ。そして恐らく、翼の制御がきかないのもその恐怖からきている。だが、清治は敢えてそこには触れなかった。克服できるかどうかは七見自身の問題である。
何も言う必要は無い。俺はコイツに賭けた。飛べるはずだ、志摩ちゃん、志摩ちゃんもそう思うだろ?
レンタルコンテナの陰に隠れながら、清治が神様の代わりに祖母に祈った時、
「…わかった、」
深呼吸を挟んで、七見は宣言した。
「飛ぶ」

ぴゅう、と、つむじ風が舞ったような錯覚に、清治は一瞬目を閉じる。既に幾度も七見が"飛ぶ"のを間近で感じているにもかかわらず、清治は未だに、この感覚に体の底の何かを揺さぶられるのだった。
「にぎゃぁああ違っ、そっちじゃないぃいい!」
僅かに遅れて電話口から割れた悲鳴がほとばしる。
「くそ、言うことを聞いてくれ…頼むからっ!じゃないと、き、やぎゃーッ!無理無理無理」
「しっかりしろ所長、無理じゃねえ、いけると思い込め!」
「う、うるさい!飛べない奴に言われずともわかっ…君こそ奴を見ろ!来るぞ!」
清治が振り返ると若者の指は空中に円を描いていた。

円、少なくとも輪郭はなぞった形そのままに円いものが降ってくるだろう事を清治は学習していた。空中に現れたその円形が古タイヤであることを瞬時に見切った清治は、敢えて飛び退く距離を調節し、肩でそれを受ける。
「いっ…てェ!」
アスファルトに膝を付くと案の定、若者は勝ち誇ったように短い笑い声を上げて近づいてきた。時間を稼ぐという目論見は成功したが、古タイヤは思ったより重さがあり、清治は痺れたようになった右肩を押さえて舌打ちした。
クッソ…とっととぶっ飛ばしてェエ…
どちらかと言えば痛みそのものより、清治は自分自身を抑え込む事に限界を感じていた。

「追い詰められる側の気分はどうだ」
という若者の言葉を清治はほとんど聞いていなかった。
ヤベェ、まだ野上春緒の行方がわかってねーってのに、理性がブッ飛びそうだ…
拳を硬く握り締めてしまおうとする衝動に耐える清治をよそに、若者は興奮した様子で喋っている。
「あんたみたいな奴にこうしてやんのが俺達の望みだった、わかるかよオイ」
こ、これ以上コイツが近づいてきたら殴れる距離じゃねーか!来るんじゃねェ!
呼吸の荒くなった清治を見下ろし、若者は一歩、踏み出した。
──あ、
だがその時、耳から離していた携帯が叫んだ。
「見えた…清治走れぇえ!」

「後ろだ、その道を逆向きに真っ直ぐ走れっ!」
言われて清治の体は反射的にきびすを返した。暴力行為に向かおうとしていた全エネルギーを、ダッシュに傾ける。
「えっ、」
走り去る清治の背中を見て、若者は呆気にとられた顔で硬直した。
「…ちょ……」
しかし何が起きたのか判らないままなのは清治も同じだった。風を切りながら電話に怒鳴る。
「おい、とりあえず言うとおりにしたがよ、走れってどういう事だよ!」
答える前に七見は早口で質問を飛ばしてきた。
「黒ずくめの格好した、目の大きい少女が野上春緒だなッ?」
「当たりだ、やるじゃねーか」
清治はニタリと笑った。

「待っ…逃げんのか!女はいいのかよ女はっ!」
清治は背後から追いかけてくる若者の怒号と足音を聞き、少し振り返る。コンクリート片や古い製氷器などが落下して来たが、不思議なことに清治の真上や前方に出現することはなく、それらは全て背後の地面を傷つけるばかりであった。
アイツの周り、せいぜい7~8mぐらいの距離にしか落ちてこねーみたいだな…
若者との距離が10mちょっと離れているのを確認し、清治は電話の向こうで続けられていた七見の解説に再び耳をかたむける。
「で、何だって?」
「なっ…聞いてなかったのか?だから、糸の先に居たのは野上春緒と──」

「足立浩市だ」
七見はそう告げた。
「…ちょっと待て」
清治は走りながら片手でこめかみを押さえる。
「足立ってのは、今、俺の後ろを追っかけてきてるジャージ野郎のことなんじゃねぇのか?」
「だからっ…似てるけど違うかもって言っただろう!こっちが本物だ」
「じゃあこいつは誰なんだよ」
「わ、わからない…足立以外にもテレポーターが居るという事なのか…?いや、しかしこんな反則超能力者が2人も3人も居るなんてそんな馬鹿な…」
ぶつぶつと漏れる七見の呟きから、清治は先ほど考えかけていた事を思い出した。
まにあっくるーむ
「おい…所長お前、今、もしかして」

「お前さ、今もしかして和菓子屋とかある交差点の近くにいるか?」
「和菓子…あっ、みめ屋がある、」
七見の返答を聞いて、清治は小さく、良し、と拳を握った。和菓子の"みめ屋"がある交差点、すなわちそれは、"まにあっくるーむ"の看板のあった辺りである。
「お前の情報によると、足立ってのもテレポンタンなんだよなァ?」
「テレポーターだ。お前今何て言っ……」
まだ"乗り物"が安定していないのか、七見の文句は途中で震えた。
「何でもいいからよ、そっちで、その足立って奴が何か"消したら"俺に言え、いいな」
「うわりょ、了解、」
言い終わると清治はもう一度後ろを振り返った。

"足立浩市ではない方の"テレポーターとの距離を確認して、清治は走る速度を僅かに緩めた。ものが落ちてくる射程圏内ぎりぎりの距離を保つ。案の定、マラソンに疲れてフラフラになりながらも若者は腕を空中に掲げた。
その指が細長い形を描く。
清治が歩幅を大きく取るのと、コンクリートの土台の付いたパチンコ屋の旗が落下してくるのは同時、そしてそこにもう1つの要素が割り込んできた。
「パチンコの旗っ」
携帯電話からの七見の声であった。
「消した!今消したぞ、なぞって!」
数センチ差でパチンコ屋の端をかわした清治は、軽くこめかみに片手を当てて考え込んでから、呟いた。
「ファックスだ」

「は、何だって?」
困惑気味に聞き返す七見に、清治は半ば怒鳴るように説明した。
「だからよォ!こいつと、そっちの奴はファックスになってんだって!」
「お前なに言ってるんだ?」
清治は説明下手の自分の頭を呪い、掻きむしる。
物体を送信し、受信する。若者と足立浩市の超能力は、そういう力なのだ。看板や旗は足立が送信し、若者が受信した物体。野上春緒は若者が送信し、足立が受信したのだろう。少ない語彙で何とか清治がそれを説明すると、七見は電話越しに息を呑んだ。
「…それだ、」
不可能であるはずのテレポーテーションを可能にする方法。それは、
「テレポーターは二人で一組」

携帯からまくしたてる七見の早口。
「そういう事だったんだ、テレポーテーションを成立させる為には、物体を移動させるだけでなく、それと全く同時に、移動先の空間に、受け入れる隙間を開けなきゃならない。つまり僕が見た糸は、送受信のための通信線で…」
だが清治はろくに聞いていなかった。再び全力疾走を開始した彼の口元は凶悪につり上がっている。するべきことが、攻略法が、清治にはもう判っていた。
T字路を曲がった先、大通りにある"まにあっくるーむ"のはす向かい、タイヤやコンクリートなど廃棄物が大量に打ち捨てられた敷地の奥に聳える、ベージュ色の廃ビルが見えてきた。

「あの廃ビルか?ベージュの」
尋ねながらも清治はほぼそうに違いないと確信していた。落下してきたものたちのほとんどは、積み重なる廃棄物の山の一部分だったのだろう。
「ああ。足立浩市はそこに…」
七見の返事が終わる前に、清治は突然、Uターンした。
「なら先にこっちだな」
スピードは落とさないまま跳躍し、角を曲がって追ってきた若者に跳び蹴りをくらわせた。
「なぶっ」
吹っ飛びかけた若者の身体が地面に落ちる前に、清治はその首根っこをひっ掴む。
「テ、テメェ!女がどうなってもい、」
「騒ぐんじゃねェ」
黙らせた若者を抱え直すと、今度は廃ビルの方へと駆け出した。

廃ビルの2階の窓から身を乗り出し、視界に入る範囲から"送信"できそうな物を物色していた足立浩市は、階下より聞こえたガツンという音に驚いて外へ落ちかけた。
「…な、何だ、」
猿ぐつわを噛まされた野上春緒は、後ろの椅子に縛り付けられている。
「誰か、入って来たのか」
階段を覗いてみようとしたところで、今度は悲痛な叫び声がした。
「逃げろ浩にいちゃあああん!」
「え、」
足立浩市の目に、数段飛ばしに階段を駆け上がって来る影が映った、瞬間
「逃がすかっ」
影、清治が振り回した"何か"に打たれ、足立の体は吹っ飛んだ。
"何か"は足立浩市の弟であった。

20分程遅れて廃ビルにやって来た七見と五見、さよりに、清治は現場の惨状を弁解した。
「いや…違ェんだ、2人くっつけて縛んねえとって思ってよ、その…縛り易いから…ちょっと殴ったら、」
割れた窓、壊れた椅子、机、そして背中合わせに縛り上げられた足立浩市ともう一人の男は、双方共に額に大きな瘤を作って完全に気絶していた。
「人間で人間を殴るのを、ちょっと、と表現する…実に独特だな君の感性は」
七見のイヤミに、清治はうなだれる。
「い、いえ、清治さんは私を助けるために、」
フォローを入れた野上春緒も震えていて。
くそ…やりすぎた
清治は深く反省した。

落ち込む清治をよそに、七見は野上春緒の方へ向き直る。
「貴女が妹さんか…お怪我はありませんか」
「はい、あの…皆さんは?」
「四ヶ伍七見、探偵です。助手の清治がお騒がせいたしました。こちらは秘書の西江君、それから僕の兄です」
拘束を解かれて立ち上がった春緒を見上げる形にならぬよう、かかとを浮かせながら七見はそう紹介した。ニコニコとお辞儀をするさよりの隣で、縛られた足立浩市の頬をヒタヒタ叩いて起こそうとしていた五見も鳥打ち帽を持ち上げる。
「うう…」
そこで丁度、声が漏れた。先に目を覚ましたのは足立浩一ではなく、もう1人のテレポーターの方だった。

「あ…、あっ!」
テレポーターの若者は、先ず七見の顔を見て声を上げ、次に自らと背中合わせに縛られた足立浩市を見て吃驚した。
「兄ちゃん大丈夫か!うう…アンタ兄ちゃんに何をしたんだ!」
他の誰をも差し置いて真っ先に清治を睨みつける。
「お、お前で殴った以外何もしてねーよ…」
「拷問か?まさか拷問で兄ちゃんを…」
「なっ…やってねぇ…」
あらぬ疑惑をかけられ更に落ち込んだ清治をフォローするように、五見が口をきく。
「心配ない。気絶しているだけだ。君は、足立の弟か?聞きたい事は色々あるが、先ずは名前から答えてもらおう」
若者は悔しげな視線を返した。

若者は答えない。黙って清治を睨みつけるばかり。その敵意に罪悪感を掻き立てられた清治は、"口を割らせてやろうか"とは言い出せなくなり、ただこめかみを押さえる事しかできないでいる。その時、
「黙ってないで答えてください…」
か細いが、くっきりした声が沈黙を破った。
「お姉ちゃんを眠らせたのはあなた達なんですか。あなた達は何なんですか、なんで私のお姉ちゃんを、」
野上春緒だった。
静かな怒りを湛えた彼女の視線に、若者は僅かにたじろいだ。だが、答えはない。その代わり、
「宗市…もうやめよう。この子が可哀想だ、」
足立浩市の方が目を開けた。

「だって、喋ったらこいつらはあの人を探そうとするぜ、そうなったら、」
宗市(そういち)と呼ばれた若者は背中越しの兄、浩市に抗議した。しかし浩市は首を横に振る。
「でもあの人が美雪さんを眠らせたのは事実だ。もし眠らされたのがお前で、俺がこの子の立場だったら、俺だってきっと真実が知りたい、何とかしたいって思う」
「それは俺だってそうするだろうけど…」
「知っている事を話すなら君達に危害は加えない。約束させよう」
七見がそう言って清治をチラと見る。
「ぐっ…言われなくてもしねえよ…」
頷いた清治を確認して、浩市は応えた。
「お話しします」
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