彼の武器はただひとつ。すべてを見透かす、目。
flight-01
四ヶ伍七見の安楽椅子
勉強が、したい。
出所した南武清春(なんぶきよはる)は切にそう願っていた。自分の馬鹿さを心底呪っていた。
清治は小学校から非行少年のレッテルを貼られ、中学で当前のように不良グループの仲間になった。高校は落ちた。左官屋に就職したがすぐクビになった。暴力恐喝窃盗詐欺、そういう仲間たちと、そういう事をしてフラフラ過ごし、架空請求の手伝いをしていた時に逮捕され、21歳から3年間、刑務所で暮らした。
その3年の間に、唯一信頼していた祖母が癌で死んだ。
昔、国語教師をしていた祖母は清治によく言っていた。
「清治、お前は頭がいい。本をお読み、たーくさん、ね」
塀の中で祖母の死を知った清治は、ただただ、泣いた。家族で味方だったのは祖母だけだった。ずっと見放さず期待し続けていてくれたのに、それを裏切り続けた自分が、許せなかった。
勉強がしたい、
祖母の見ていたような知識の世界を知りたい。
清治は生まれて初めて真剣にそう思ったのだった。
だが、物事はそんなに簡単にはいかない。夜間高校にしても、通信制の大学にしても、金が要る。前科持ちの人間を雇ってくれる会社は少ない。加えて、清治には別のハンデもあった。
額から顔に走る大きな傷痕。
喧嘩でついたその傷痕が就職の大きな妨げになっていたのである。
今回も駄目かもしれない。でも今はきっと、昔のツケがまわってきてんだ。これに耐えなきゃ俺は結局、またダメになる。
諦めるな俺。食らいつけ!
清治は決意に満ちた足取りで、薄汚れた雑居ビルの一室、
七見探偵事務所
そう書かれた扉をくぐり抜けた。
「あ、お、俺、面接に来たんすが、あの、求人見て…っ」
敬語がうまく出てこない自分の舌を憎く思いつつ、顔を上げると、本棚だらけの部屋の中でまばたきする、眼鏡の女性と目があった。
「あ、助手の面接の方ですね。こちらへどうぞ」
女は柔和な笑顔でそう告げた。顔の傷など見えていないかのようだった。
「時間ピッタリだな。いい心がけだ」
宇宙船のコクピットのような珍しい形の椅子に座った青年が振り返った。
「面接を始めよう。履歴書を出したまえ」
清治と同い年、もしくはそれより若いかもしれない、小柄な青年であった。黒い細身のスーツに青いカメオで留めたループタイ。斜めに流した前髪を神経質に手で整えるその仕草は、荒れた家庭で育った清治には坊ちゃん然とした嫌みな印象を与えた。しかし清治は同時に何か、引っかかるものも感じていた。
「………」
青年も同じものを感じたのだろうか、目が合った。
つり目。長い睫毛。細い眉。
「あ…!」
清治は思わず声を上げた。
最悪だ、
絶対、受からない。
清治はそう確信した。嫌みなお坊ちゃんの代表格のようなこの青年の名を思い出したからである。
四ヶ伍七見(しかご しちみ)。清治の小学校時代の同級生である。独特の喋り方、人を見下した態度、嘘をつく癖が気に入らず、清治は当時、七見を"いじめ"ていたのだ。
「…お前、もしかして、"あの"キヨハルじゃあないのか?」
履歴書を指先で弄びながら七見は幼い頃から変わらぬガラス玉のようなつり目を細める。
七見探偵事務所
なぜ気づかなかったんだ、四ヶ伍七見、そうある名前じゃねぇのに!
半ば放心状態の清治の脳裏に当時の記憶が蘇る。
清治の記憶の中の七見はとにかく嫌な奴だった。小学生の癖に、〜したまえ、など妙な喋り方をし、他人を馬鹿にした。清治はその度に腹を立て、七見を殴った。
七見は嘘吐きでもあった。それも随分荒唐無稽な嘘をついた。
「後悔するぞ。僕には"千里眼"の能力が有る。僕をいじめた奴は全員、知られたくない秘密を暴いて公表してやる!」
「じゃあやってみろよ今!その、せんりがん、てのをよ!」
「椅子がなきゃできない」
嘘を重ねる七見に、清治は虫酸が走った。
「あるだろ」
投げつけた教室の椅子を一瞥し、しかし七見はこう言った。
「こんなクズみたいな椅子で"飛べる"か」
「お前、"あの"キヨハルなのか」
「…そうだよ……」
がくりと頭を垂れ、諦めと共にそう返事をした清治を面白そうに眺め回し、七見はクックッ、と笑いを漏らした。
「僕にしたことを、忘れた訳じゃないよな」
「…忘れてねぇよ。ここの所長だって知らなかった。俺を恨むのは当然だ。マジに悪かったよ…。仕事、頑張ってくれ」
これは過去のツケだ。仕方がない。清治は暗澹として席を立った。だがその時、
「待ちたまえ」
七見の口から思いもよらぬ言葉が出てきた。
「採用してやろうじゃないか。助手と、復讐の快感、一石二鳥だ。僕に損は無い。違うか?」
嗜虐的な笑みを浮かべ、七見はそう言った。
清治は一瞬、返す言葉を失った。七見は心底愉快そうに続ける。
「お前を奴隷のように使役するのも楽しそうだと思ったんだがな。まあ、嫌なら仕方が…」
「俺を、」
遮るように清治が発した台詞。
「雇ってくれるのか!?」
「え、」
今度は七見が硬直した。
「…え?…お前、僕は"復讐"すると言っているんだが、え、本当に働く気なのか?ここで?」
「いい。復讐でも何でもしてくれ、雇ってくれるなら何でもする!」
「…な…っ…いや、いいんならいいんだが…」
圧倒されてモグモグと語尾を溶かす七見。清治はいつしか凶悪な面に満面の笑顔を浮かべ、言っていた。
「超、サンっキュ…!」
清治は、働けさえすれば何でもよかった。あの嫌みな四ヶ伍七見に復讐されようとも、それはじぶんが払わなければならない過去のツケである、と覚悟していた。それよりも、沢山の本が整然と並んだあの職場で、ついに新しい人生が始まるのだという喜びが勝っていた。
「よっしゃあァア!読みまくるぜ、本をよォオ!やってやるぜ、殺ってやるぜ畜生この野郎!」
翌日、再び七見探偵事務所の扉を開けた清治は、高揚感から思わずそう叫んでいた。
「今、漢字で"や"ってやるって言ったねぇ」
昨日、清治を案内した女性がニコニコと笑って待っていた。
「あ、悪ィ、いや、すみません姐さん」
「姐さん、と来た」
うふふ、と柔らかな笑いを挟んで、彼女は名乗った。
「私、秘書の西江さよりです。よろしくね南武くん」
「あ…、はい!」
さよりは秘書らしい有能な雰囲気を漂わせつつも、不思議な甘い匂いのする女であった。フレームの細い眼鏡に光を反射させながら、さよりは言った。
「今日はまだ七見所長は来ていないの。昨日、あの後ちょっと荒れちゃってね。神経質な人だから。…というか、そうだ、そう、訊こうと思ってたんだ。南武くんって所長の同級生だったんだって?」
「そうっす…つーか、まぁ、いじめてたっつうか…」
清治の返事に、さよりはまた微笑んだ。
清治は、小学校時代の事をさよりに話した。隠すつもりは無い。引かれたとしても、それもツケの1つだ、と思っていた。
「七見…所長は嫌な奴ではあったんすけど、悪かったと思ってます。俺が一方的にボコってたんスから」
「なるほどね〜」
うっふふふ、とさよりは笑う。若干、砕けた調子になりつつあるのは、信頼してくれた証だろうか、と清治は思った。彼女はこう続けた。
「で、南武くん、結局、暴露されちゃったの?秘密を」
「は?」
される訳がない。だって、アレはあいつの嘘だったんだから。
清治は呆気にとられて返答に困った。
「なるほどねぇ〜」
くふふ、と、さよりは笑った。
「"千里眼"をそんな低俗な事に使うのは僕のプライドが許さない」
さよりはそこだけ突然、芝居がかった風に声色を変えて喋った。どうやら所長の物真似のつもりらしい。
「ってねぇ。思い直したんだろうね。あの人、性格悪いけどその辺プライド高いから」
「あの…どういう、事、っすか?まさか、マジに、」
清治はなぜか、部屋の奥に鎮座した異様な形状の安楽椅子が気になり始めた。
こんなクズみたいな椅子で飛べるか
鼻血を拭いながら吐き捨てるようにそう言った、小学生の七見の顔が思い浮かぶ。
「南武くん。所長が、"千里眼"なのは本当だよ。だから"探偵"を選んだんだもの」
からん、
事務所の扉が鳴った。素早い身のこなしでさよりが立ち上がり、先程までの砕けた物言いが嘘のように一気に秘書然とした空気を纏った。
「お早う御座います、所長」
いや、これは秘書って言うよりメイドじゃねーか?
清治の脳の隅をそんな考えが過ぎったが、それよりも今は所長、七見の事が気になった。
千里眼。
どんな遠くのものまでも見渡せる、能力。
本当なのか?
「西江、珈琲を頼む」
「かしこまりました」
振り返った七見と目があう。
「言っておくがお前の分の珈琲は無い。自分で買ってきたまえ」
七見の整った細い眉が片方だけ意地悪く吊り上がった。
探偵、
奇妙な安楽椅子、
千里眼、
清治は、恭しく珈琲を差し出すさよりと、嫌みなほど優雅な所作でそれを飲む七見を黙って眺めた。
あり得ねェ。七見の奴は、この女を使って俺に何か、罠を仕掛けようとしてんだ。絶対そうだ。
復讐
それが復讐なのか。
ガンを飛ばしたつもりは無かったが、地顔が凶悪な清治の視線に気づいた七見は、僅かに睨み返すように目を細めると、紙の束を寄越してきた。
「突っ立ってないで仕事をしたまえワトソン君」
「ああ。悪ィな、所長」
復讐が何であろうとも、清治は耐える決意をしていた。祖母を思えば、耐えられる、そう自分に言い聞かせた。
清治が命じられたのはチラシ配りだった。寒空の下、往来に立つのは楽な仕事では無かったが、ようやくまともな職につけたのだ、これぐらい何でもない。そう思って、清治は懸命にチラシを配った。途中、
「おい、この辺りで、挨拶もなしに勝手な事されちゃ困るんだけどねェ〜?もしもォ〜し」
などと口を挟んできた輩がいたが、黙らせた。これぐらい何でもない。しかし数時間経った頃、ついに清治にもどうにもならないアクシデントが起きた。
「あの…」
声をかけてきたのは、先刻チラシを渡した主婦。
「これ…何のチラシなんですか」
清治は、ここで初めて自らの配っていたチラシに目を遣った。
暴力はダメだ。腹が立っても、ぶっ飛ばしちまったら前と一緒だ、死んだ志摩ちゃんに会わせる顔がねぇ。
清治は必死に怒りを抑えながら雑居ビルの階段を駆け上がった。
「おい七見テメェっ!…くそ、いけね、"所長"、これは、何なんだ」
デスクにチラシを叩きつけた清治を、七見は心底嫌そうに睨みつけた。
「君は馬鹿か?探偵事務所のチラシに決まっているだろう」
「こんな復讐して楽しいのか?…損するのはテメェだろうよ!」
闇の中。
貴方は諦めているのかもしれない。
真実が、ここにある。貴方の人生に華の名推理を添えてみませんか。
七見探偵事務所
「何なんだよこの文面!」
「意味がわかんねぇって言われた」
清治は、七見が嫌がらせのためにこんな文面のチラシを配らせたのだと思っていた。だから七見が、
「…な、…ッ!?」
と、珈琲を取り落とすほど動揺したのを見て、逆に驚いた。
「は…?いや、待て、あれ嫌がらせじゃねぇのか?マジで書いたのかお前。全然意味がわからねぇぞ…マジにだ、マジで意味不明だ」
「お、お前に教養がないから分からないだけだろう」
「違ェ、マジでわからねえって言われた。これじゃ客は来ねぇ。マジだ…直した方がいいぜ」
「くっ……」
七見は頭を抱えた。
「なぜだ…くそ…徹夜で考えたのに…」
涙目になっていた。
さよりが手早く淹れなおした珈琲に手も着けず、七見は落ち込んで安楽椅子に沈み込んでいた。
「おい、所長、何も泣くことねえだろ」
「うるさい泣いてない」
「書き直しゃいいじゃねえか。無理なら、俺が書くか?あんま漢字書けねぇけどよー」
「黙れ。貴様に何がわかる。僕は徹夜したんだぞ」
清治はため息をついた。いやな予感がした。
「あのよ…もしかして、この探偵事務所、全然客いねぇのか…?」
「くっ……」
七見はナイフでも飲まされたような顔で清治を振り返った。
「くそ……なんで……わかるんだ…」
おい…こいつ、ダメなんじゃねぇのか?
清治は言葉を失った。
清治は数秒間こめかみを押さえた後、額の傷を隠すフードを被って立ち上がった。
「よし…待ってろ、俺が客、拉致ってきてやる」
「…拉致…?いや、待てお前何するつもり…」
「任せとけ。キャッチはやったことある。悪いようにはしねぇ」
七見の制止を背中に聞きながら、清治は扉を鳴らして表へ飛び出した。
冗談じゃねぇ、やっと決まった職場が即倒産なんて、復讐されるよりよっぽど最悪だ!七見はいけ好かねぇが、奴には昔のツケも、採用してもらった恩もある。それを返すのがスジだ、志摩ちゃんなら絶対そう言うに決まってる!
祖母、志摩の面影を胸に、清治は走った。
3時間後。
七見探偵事務所、応接室と称した本棚の隙間のデスクに、キャミソールに毛皮のコートを着た女が座っていた。
粗末なアコーディオンカーテンを隔てた奥の部屋では、清治と七見が声をひそめて言い争っている。
「何で僕がハムスターなんか捜さなきゃならないんだよ!探偵だぞ僕はっ!ホームズがハムスター探した事あるか?無いだろ!」
「それしか見つかんなかったんだよ!ペット探偵ってのもいんだろうが!テメェ仕事選べる状況かよっ」
「…ううっ……、くそ…」
結局、七見が折れた。小柄な探偵は、咳払いをしてループタイを直すと、
「待たせてしまって済まない」
優雅な仕草で依頼人の向かいに腰掛けた。
「なるほど。これが貴女の捜しているハムスター、という訳か…」
指先でつまみ上げた写真を片目だけ細めて眺め、七見は不敵な笑みで依頼人・谷口恵美を見上げた。そういった一連の気取った動作が様になる男ではあったが、いかんせん彼女より背が低いのが悲しい所だった。加えて、写真の被写体はハムスターである。何がしたいのかよく判らねぇな、と思いながら清治はその光景を見守った。
「あのぉ…、たまきちは見つかるんですかぁ?」
恵美は僅かながら七見の長い睫毛と硝子玉のような瞳に見とれているふうでもある。
「当然です。探偵ですから」
七見は真顔でそう言い切った。
谷口恵美が帰った後、さよりが作成した詳細ファイルの表紙に
"消えたハムスター事件"
と、難しい顔で書き加え、七見は清治を見上げる。
「むう…どう思う?」
「どうって、」
「正直、チラシの一件で、今の僕は言葉の選び方に自信が持てない…ハムスター消失ミステリー、の方が相応しかったか?」
「どうでも…」
清治はこめかみを押さえながらファイルを手にとった。たまきちはトイレットペーパーの芯に入るのが好き、などと書いてある。
「こんなんで見つかんのかよ。どうやって捜すんだ」
「愚問だな、ワトソン君」
七見はニヤリと口角を上げ、さよりに命じた。
「西江、飛ぶぞ。準備を」
「かしこまりました」
飛ぶ、
「何だそれ…マジで言ってんのか?」
困惑する清治をよそに、さよりがテキパキとヘルメットを持ってきた。薄汚れた雑居ビルの屋上にはセスナもヘリも無かったはずだ。
「飛ぶ、って、何だよ…」
清治の脳裏に再び、小学校時代の七見の言葉が蘇る。
千里眼、
こんなクズみたいな椅子で飛べるか
七見はヘルメットを装着して安楽椅子に腰を降ろした。まるで宇宙船のコクピットのような、奇妙な形の安楽椅子に。
「10秒前、9、8、7、」
さよりがカウントを始める。微かに、くふふ、と笑いを漏らしたような気もした。
「6、5、4、3、2、1…ゼロ、」
ヘルメットの中、七見は目を閉じ、鋭い声を発した。
「離陸っ、」
部屋の空気が、ぱり、と振動した。七見は安楽椅子に座ったままだ。
「高度20…西江、写真を」
「かしこまりました」
さよりが七見にハムスターの写真を手渡す。
「高度40…目標物、探索開始…」
清治の目の前で"何か"が起こっているのは確かだった。だが一体何が起きているというのか。尋常でない空気が、清治の腕にざわざわと鳥肌を立てる。
「見つけたぞ、ネズミめ…」
七見は何もない空間に腕を伸ばし、レバーを引くような動作をして叫んだ。
「目標物捕捉!降下っ!」
清治の耳が聞こえる筈のない風の音を錯覚する。
乗り物、
何か、飛ぶ乗り物に乗ってこいつは、
"見て"いる?
「西江、記録の用意はいいか」
「はい、所長」
いつの間にかさよりはデスクに座り、ワープロを開いて待っていた。七見は大きく息を吸い込むと、一気にまくしたてた。
「屋根は赤、2階、内装はピンク、窓際にスカートが掛けてある…ふむ、これはあの依頼人の部屋だな、ドアにメグミ、と書いた板がある。くだらん、あの女、自分の部屋でハムスターを逃がしただけじゃないか。ぬ?何だ、これはタコの人形か?悪趣味だ。まあいい、目標物が潜伏するのは窓と対角のクローゼット下の引き出し…」
ふう、とそこで一息、
「もう判った。馬鹿馬鹿しい、帰るぞ。上昇、進路180度反転、加速」
見えないレバーが引かれた。
「着陸」
七見の声と共にフワリと、感じるはずのない風に皮膚を撫でられ、清治は放心状態で立ち尽くしていた。
マジかよ、マジなのか?くそ、志摩ちゃん教えてくれ、この世界には、千里眼、なんてモンが本当にあんのか…?それもこんな、"飛ぶ"千里眼なんてとんでもねぇモンが…、
「ふふん、どうしたワトソン君。言葉も出ないようだな」
七見はこれ以上ないくらい嫌みな笑みを浮かべて清治の顔を覗き込む。
「だが驚くのはまだ少し待っておきたまえ。明日、君は谷口恵美の家に行って、ハムスターを回収して渡して来い。彼女の部屋を見れば僕のフライトが本物だという事がよく実感できるはずだ」
正直、半信半疑というよりも、清治は七見の"能力"を信じかけていた。昨日目にした光景は、普通でない。本能的にそう感じたからだ。
だからこそ、
だからこそ実際に谷口恵美の家を見て、清治はとてつもない脱力感に襲われた。
恵美の家はマンションの1階。内装は白。ドアに名前プレートなど無い。クローゼットの位置は窓際だった。さよりがワープロで打った七見の"フライト記録"とはまったくもって似ても似つかない状況だったのである。
「…一応訊くがよ、アンタ、趣味の悪ぃタコの人形なんてモンは持って…ねぇよな」
清治の問いに谷口恵美は答えた。
「え〜?ないですよぉ〜、何ですかそれ〜?」
「あんの野郎…ッ」
清治は怒りに拳を握りしめた。
「あのぉ、それよりたまきちは〜」
「悪ィ、ちょっと待て」
恵美の言葉を遮り、清治はこめかみを押さえながら携帯電話を開いた。叩きつけるように事務所の番号を打つ。
「おいおい、いくら僕に感服したからって、電話をかけてくるのは行き過ぎ…」
呑気な七見の台詞が終わらないうちに、清治は怒鳴りつけた。
「ざっけんな!大掛かりな嘘吐きやがって!あァ、信じたぜ!テメェのくだらねぇ復讐は成功だ!満足か?学がねぇバカはこんな事に引っかかる、って笑ってんだろ畜生…いっそ気の済むまで殴れよ!その方が何百倍もマシだっ!」
電話の向こうで七見は一瞬、沈黙し、絞り出すように言った。
「嘘じゃない…」
その呼吸は震えていて、清治の気勢は僅かに削がれる。
「まだ言うかよ…テメェの嘘は聞き飽きたぜ」
「昔、お前に、」
震えていた七見の声が途中から泣き叫ぶかのように変化した。
「殴られた事はもういい、時効だ、だが僕を嘘吐き呼ばわりした事だけは許さない!僕は嘘なんかついていない!絶対だ!」
「じゃあどういう事だこれは!テメェの言ったモンは何一つ無ぇんだぞ!名前プレートも、タコもだ!」
「…何?」
清治が言い返すと七見は再び絶句した。
「そんなはず無い…清治、お前一体"どこ"に居るんだ?」
「あァ!?依頼人の家に行けっつったのはテメエじゃねえかよ!だいたい家からしてマンションだったぞ、ここは…」
「ま…待て、何かおかしい」
七見のその言葉に清治は反射的に口をつぐんだ。
「今そこへ、飛ぶ!電話は切るな!このままだ!」
携帯電話からばたばたと慌ただしい音が漏れ、
「どうかしたんですかぁ?」
谷口恵実が覗き込んで来た。それに答える余裕の無い清治は、電話を持ったまま片手で頭をかきむしる。
「くっそ、何なんだあの野郎、一体何が…」
その時、電話から清治以上に狼狽した七見が叫んだ。
「にゃああああーっ!!なぜだ!違うッ!違うじゃないかぁああっ!」
「は!?おい、何だ、違うってどういう事だよ、」
七見のあまりの動転ぶりに、清治は急に焦燥感に駆られだした。
「こここじゃない、僕が見たのは違う部屋なんだ、おかしい、一体何が起きているんだ!?…いや、そんな事より何だあれは!?ええぇええーっ!?」
「落ち着け馬鹿!何言ってんのかわかんねーって!」
再び清治が怒鳴りつけると、七見は半泣きで
「い、今すぐ谷口恵実を連れてそこから逃げろっ!窓だ、ベランダに"いる"んだ!ナイフを持って、」
警告、した。
「あァ!?」
清治が背後を振り返ると同時に、窓ガラスが引き開けられ、大ぶりのナイフを手にした何者かが、
飛び込んで来た。
逃げろ、
七見はそう警告した。だが清治はその場を、動かなかった。
右手にナイフを振りかざした人影、恐らくは男、どこでもいいから突き立てるつもりだろう、
そこまで認識するのに必要な時間は充分にあった。
「ちょ、お前、」
まだ何か言っている携帯をかなぐり捨て、清治は膝を曲げて体を低く斜めに沈み込ませた。
一瞬の出来事。ほとんど全く間髪を入れずに、
「おっるァア!」
清治は恐ろしいスピードで男の右頬に拳を打ち込んでいた。瞬間、男の体は吹っ飛んで浮き、凄まじい音をたてて1メートル離れたタンスを破壊する。
「きゃああ〜!」
谷口恵実が漸く悲鳴を上げた。
完全に意識を失った男の胸ぐらを掴んで無理やり持ち上げた清治は、
「おら立てやてめェこら!どこのモン…」
そこまで凄んだところで、はた、と動きを止めた。
「うお、やっべェ…やっちまうとこだった、これ以上はセイトーボウエーじゃねぇよな。危ねぇ…くそー…」
携帯電話をひっ掴む。
「どういう事だ!何なんだよこいつはよォオ!」
ところが電話からは七見の放心したような呻き声が聞こえてくるばかり。
「あァ?どうした」
「南武くん、所長死んでるけど何したの?」
代わりに若干笑いをこらえたさよりの声がした。
「なんか、目の前1センチをグーがかすってったとか言ってるけど」
ややあってようやく正気を取り戻した七見が言う。
「そこは僕が昨日飛んだ場所じゃない、だがあそこには谷口恵美のものとしか思えない私物が大量にあった…そしてナイフを持った男…これらが何を意味するか…」
緊迫した様子の七見につられ、自然に清治も唾を呑み込んでいた。
「これは陰謀だ、僕らは、はめられているッ!」
「…は?」
「何か、巨大な陰謀が動いているに違いない!その男も谷口恵美も単なる駒に過ぎ…」
清治はこめかみを押さえる。
「ちょっと待て…てめー馬鹿か?お前の話からしたら普通に考えて、」
そこで背後の谷口恵美が呟いた。
「慎ちゃん…?」
「あのぅ、この人〜、わたしの大学の頃の同級生で〜、前ちょっとつき合ってた事があってぇ…」
谷口恵美は、依然気絶したままのナイフ男の腫れた顔を心配げに見つめる。
「あァ、ほら見ろ。やっぱそういう事じゃねえか」
「つまりその大学に、陰謀の首謀者の息のかかった者がいる、という事か…!」
七見の口調が真剣そのものである事に、清治は驚きを禁じ得なかった。
「は…?おま…っ……それマジで言ってんのか?どう考えてもストーカーだろ、ストーカー。このナイフ野郎が別れた女の家に侵入って私物パクッてやがったって考えんのがスジじゃねえのかよ…」
七見の応答がしばらく途切れた。
目を覚ました田宮慎一は、どういう訳か自分の家の前に戻っていた。一瞬、谷口恵美の家で起きた出来事は全て夢だったのではないか、と思った彼だったが、周囲を見渡してその望みは完全に砕け散った。
谷口恵美本人と、額に大きな傷のある男がこちらを睨んでいる。その後ろには眼鏡の女と、何故か落ち込んだようにしゃがみ込んでいる小柄な男の姿があったが、田宮慎一には後ろの2人が誰なのかはわからなかった。ただ、額に傷のある男に殴られたのだけはしっかり覚えている。
田宮慎一の体は震えた。
ああ、逆上したとは言え、ヤクザに喧嘩を売るなんて、俺は何て事を…!
「起きたかコラ」
清治は、自らの推理が見事に的外れであった事に激しく衝撃を受けている七見に代わって、萎縮しきった田宮慎一に尋ねた。
「この家はテメェの家で間違いねぇな?」
「は、はいっ…」
「部屋見せろ、今すぐだ!」
「はいスイマセン、スイマセン…っ」
何度も頭を下げながら田宮慎一は清治達を直ぐに部屋に案内した。逆らう素振りは全く見せなかった。
だが階段を上がりながら田宮慎一がモゴモゴと言った言葉に清治は若干傷ついていた。
「お、俺…恵美に新しい男ができた事に驚いただけで…その、ヤクザに喧嘩売るつもりなんて全然…」
くそ…やっぱ俺ヤクザに見えんのか…。
窓の対角にクローゼット。掛かっているスカート、タコではなかった、火星人の人形、ドアプレート。
「あ…あたしの…」
谷口恵美が青ざめた顔で呟いた。
「無くしただけだと思ってたのに〜…」
七見が"見た"のが田宮慎一の部屋である事はもはや疑いようが無かった。ただし、
「あのよ、所長よォ…ドアプレートが部屋の内側にあんのって明らかにおかしいだろうよ…写真立てに自分の写真入れてんのも変だしよォ…何で気づかねぇんだ?言いたかねーが、テメェ探偵の仕事…」
「ぐっ……だ、黙れっ!それ以上言う事は許さないッ!」
どうも七見には"見える"以前の部分で問題があるようだった。
クローゼットの引き出しの中、ハムスターはゴソゴソと餌を食べていた。谷口恵美は小さな鼠を抱き寄せて、安堵の涙を流した。清治を振り返ると、深々と頭を下げる。
「あ…ありがとうございます〜!たまきちが無事で本当によかったですう、まさかこんな事だと思ってなかったから〜…」
そこでチラリと田宮慎一に悲しげな視線を送る。
「あのぅ…警察に言ったほうがいいんでしょうか〜…」
田宮慎一はビクリと肩を震わせた。同時に清治の表情も強張った。
「所長、俺帰っちゃダメか?…サツは…ちょっと…」
ソワソワし出した清治に、七見が囁く。
「君は馬鹿か…?先の事を考えて発言したまえ」
「サツは嫌なんだよ、何もしてねーのに大概疑ってくるしよォオ…」
「君が居ない状況下で万が一彼に暴れられでもしてみろ、わからないのか…?僕が彼を本気で取り押さえたらどうなるかが…」
「どうなるんだ」
「間違いなく、血を見る事になるぞ…僕のな…」
デコピン1発で吹っ飛んでしまいそうなほど細身で小さな探偵の姿から、その光景は容易に想像出来る。清治は反論出来なかった。苦渋に満ちた表情で、
「くそ…サツうぜえ……」
と漏らしながら携帯を取り出す。しかし、そこで黙り込んでいた田宮慎一が口を開いた。
「あ、あの…いいんです俺、自首します、自分で行きます」
「恵美の気持ちがもう俺に少しも残っていないのがよく判りました…」
ハムスターは、付き合っていた頃、2人でペットショップに行って購入したものだ、と、田宮慎一は話した。
「無くなれば俺との時間を思い出してくれると思ったんです。でも恵美は新しい彼氏に相談した。俺とは正反対の、あなたに…」
部屋の内装を恵美の好きなピンク色に塗って待っていても、恵美はもう戻っては来ない。田宮慎一はここにきて漸くそれを理解したのだった。
いや、彼氏じゃねぇ!
口を挟もうとした清治だっだが、このまま田宮慎一が自首してくれれば自分は警察に会わずに済む、と思い、止めた。
宣言した通り、田宮慎一はその場で警察に電話をかけて自首した。パトカーのサイレンを背中に聞きながら、清治は複雑な思いを抱いていた。
別れた女の物を盗む心理はわからなかったが、新しい男ができたと思って逆上してナイフを振り回した田宮慎一の、"逆上"の部分だけは清治にもよく理解できた。勢いで危うく一線を越える所だった自分の拳を見つめて暗いため息をついた。
志摩ちゃん…人ってそう簡単には変われねえのか?
清算するんだよ、清治、少しずつ清算してゆくしかない。
祖母の声が聞こえたような気がして、清治は頭を上げた。怪訝な顔の七見と目が合った。
「何だ」
眉をひそめて、ガラス玉のような目をジロリと向けてきた七見に、清治は尖らせた口で告げる。
「今日わかった…お前は嘘吐きじゃねぇ、完全に"見え"てた」
冷ややかな細い双眸。七見の表情は変わらない。清治は地面に膝を付いた。そして、
「悪かった…。二度とお前を嘘吐き呼ばわりしねえって、誓う」
頭を下げた。後ろで、さよりが少し目を見開いた。
「君は君の罪について恐らく本質を理解していないのだろうが、」
七見は薄茶色のガラス玉の中に僅かに苦痛に似た色を過ぎらせる。けれど、結局こう言った。
「いいだろう。復讐は保留にしておいてやる」