flight-02
四ヶ伍七見と大霊界
失せもの・人探し・その他調査承ります。
七見探偵事務所
チラシを眺めて七見は、不機嫌に眉根を寄せた。
「全体に左に寄っている」
安楽椅子から立ち上がりもせず原稿を投げて寄越した七見に、8回は我慢した清治もついにキレた。
「いいっ加減にしろテメェ!神経質過ぎんだ!もう寄ってる範疇に入らねぇよ!」
「文面については僕も否を認めた。口出しはしない。だがレイアウトは別だ、先日僕は正確に中央に文字が来るまで徹夜した!これは絶対に、左に、寄っているッ!」
人差し指を向けてそう言い放つ七見は犯人を名指しする推理ドラマの探偵にも似ていた。清治はこめかみを押さえる。
結局、更にもう一度作り直して漸く七見のOKをもらった清治は、直ぐに原稿をコンビニで大量に刷ってチラシ配りに出た。すると後ろを付いてくる者がいる。さよりであった。
「姐さん寒いすよ、外。待ってりゃいいのに」
「や、どうせお客さんも来ないだろうし。今日ちょっと所長、ナイーブだしねぇ」
「また何か落ち込んでんすか、あいつ」
「夜、お兄さんと喧嘩したみたい…まぁ、坊っちゃまには色々あるから」
七見探偵事務所で働き始めて5日。清治は、さよりが時々七見を"坊っちゃま"と呼ぶのが気になっていた。七見や清治より2つばかり年長とは言え、若干奇妙ではあった。
「気に障る質問だったら悪ィんだけどよ、姐さんって、あいつの何なんだ?」
駅前の噴水広場で電車の客が降りてくるのを待ちつつ、清治はさよりに尋ねてみた。さよりは少し考えて、
「ああ、そっか、ごめんごめん。気になっちゃうよねー明らかにメイドっぽいもんねぇ」
くふふ、笑うと、あっさり答えた。
「まあ、そうなんだ。私、親の代から四ヶ伍家本家付きの使用人なのね。で、坊っちゃまが家出て探偵始めちゃったんで、ついでにくっついて出て来たの」
「…え!?」
本家、だの、使用人、だの、馴染みのない単語が実に簡単にさよりの口から告げられ、清治は少なからず動転した。
七見の家が裕福な名家なのであろう事は清治にも判っていた。小学校当時から、七見は喋り方も奇妙だったし、服装やその他小物も高級品であり、それをネタにクラスメイト達にからかわれる姿もしばしば見受けられたからだ。だがこのご時世に、"親の代からの使用人"が居るような前時代的な家だとまでは思っていなかった。
「あいつそこまでセレブな家だったのかよ…」
「まぁ四ヶ伍家、特に本家は変わってるからねぇ…お、電車来た、201系だ!」
プシュー、ガトンと電車の扉が開き、階段から次々に乗客が降りて来る。清治は、あいつはあいつで色々あるのか…と思いながらチラシを配った。
「あれ」
しばらくしてさよりが声を上げた。指し示す方角に清治が目を遣ると、噴水広場の出口付近で同じように何かチラシを配っている人物が居る。それ自体は別に妙な事でも何でもない。だが問題はその人物の格好だった。黒い僧衣、頭にすっぽりカゴを被って。時代劇でよく見かける、あの、虚無僧姿なのであった。
「何だ、あれ…」
「ちょ…!私見てくる!」
「え!?おい、姐さん…、」
軽やかに走り去ったさよりが、チラシを配る虚無僧に嬉々として話しかける姿を、引き気味の清治は遠目に眺めるしかなかった。やがて、さよりはチラシを手にとろけそうな笑顔で駆け戻ってきた。
霊障・お悩み解決!
誰にも相談できない…そんなあなたにうってつけ!親切丁寧、秘密厳守がモットーです。
折原式姓名霊視研究所
「ね?ね?」
さよりはチラシの"折原式姓名霊視研究所"の部分を指差して再び素晴らしい笑顔を披露した。
「初回無料だって。探偵なんかより安心、だって。行ってみようよ南武くん」
「いや…姐さん、俺そういうのは…」
言いかけて清治はチラシの裏の地図に目を見張った。
2/11より移転しました→牧野ビル・2F
「げ…、何だよこれ、事務所の下じゃねえか」
「ついてるねぇ〜!行こう行こう!」
さよりは清治のコートを引っ張って、早足で先導し始めた。
一方その頃、牧野ビル3階・七見探偵事務所には、招かれざる客が訪れていた。
「だからね、その3度目の事故の時に気付いたんですよ、これは絶対に、あの時憑いてきた霊のしわざだっ。て、ね?」
「……はぁ、」
一方的に喋り倒す老婆の前で七見は、一体これは何の嫌がらせだ?と苦痛に眉間を歪ませながら相槌を打っていた。
「ね、これはもう先生にご相談するしかないと思って、ええ、こんなにお若いとは思っておりませんでしたけど、フホホ、ホホホ!」
「はは…」
乾いた笑いの後、七見は既に3回は告げている台詞をもう一度口にした。
「奥様、僕は霊媒師ではなく探偵なのですが……」
牧野ビル2階・折原式姓名霊視研究所。白、黒、金で統一した室内は何だか葬式を連想させる。どういう趣味してやがんだよ、と、後ろのソファで清治は内心舌打ちしていた。
「此処にいらしたという事は、しこりがおありなのでしょう…どうぞ安心してお話し下さい。私に出来る事ならば何でもいたします」
紫の僧衣を纏った虚無僧は温和なテノールでそう告げた。
「折原さんですか!」
興奮した様子で握手を求めるかのように手を差し出したさよりに、虚無僧は
「これは失礼、私、折原一鶴(おりはらいっかく)。折原姓名霊視研究所の所長を務めております」
非礼を詫び、カゴを脱いだ。
「うわぁ〜、まさかご本人にお会いできるなんて」
折原と握手を交わしたさよりは身を乗り出す。一見すると折原の大ファンであるかのようだが、来るまでの道程でさよりが漏らした一言を耳にしていた清治は、呆れた。
早く行こうよ南武くん、うわぁすばらしいよ、すばらしく胡散臭いよこれは!こんな胡散臭いもの私久しぶりだよ!
この人もどういう趣味してんだよ…とため息をついた清治は、
「あ、今日見ていただきたいのは私じゃなく彼なんです、南武くん、ほら、You言っちゃいなヨ。あるでしょ?悩みの1個や2個」
「はっ?…何、」
突然さよりに話を振られて、唖然となった。
「どうぞ何なりとお話ください、秘密は厳守いたしますよ」
折原は年齢不詳の笑顔でニッコリ微笑んだ。怪しい商売をしているにしては存外にスマートな容姿と物腰である。コロッと信じる奴もいるんだろうな、と清治は思った。
しかし、何なりと、などと言われても相談する事など何もない。清治は適当に嘘をでっち上げる、という事が得意ではなかった。架空請求の手伝いをした時も先輩の作った台本がちゃんと存在したのだ。仕方なく
「くそ…えーっと、3年ぐらい前、志摩…婆ちゃんが死んでよォ、先行きが不安、っつうかよ…」
何とも具体的でない、ぼんやりとした相談を口にする。
折原は難しい顔で半紙を取り出すと、筆ペンを清治に手渡した。
「ではここにお名前を」
字の汚い事を自覚している清治は嫌々ながら半紙に名を記す。
「これでいいか?」
折原はゆっくりと頷く。
「結構です…よく分かりました。あなたの名前、まず名字が18格ですね、これは先天的にたちの悪い動物霊を呼び込みやすい画数でして、そもそも、代々あなたの家はなかなか安定し辛い宿命を背負っています。つまり、あなたの感じている不安は、ご先祖の霊からの警告なのです」
「あァ?待て、17格じゃねーのかよ。名字だろ?」
清治に突っ込まれ、折原の口の動きが止まった。
「17格も同じです。17と18が、危ないのです。ここから重要な事ですから、少々ご静聴いただけますか」
折原はさらっとそう言ってのけ、清治は微かに拳を握りしめた。
「おばあ様は守護霊となって悪い動物霊からあなたを守っておられます。しかし、それにも限界があります。やはり、早いうちに手を打つべきかと」
「…何をしろって?」
声のトーンが下がった清治の方を、さよりがチラチラと期待するように見ている。
「浄化儀式を行ったほうがよろしいでしょう。別料金になってしまいますが…必要ですよ」
折原の言葉に清治は凶悪な目で答えた。
「わかった。てめえインチキ野郎だな」
「は、…?」
折原は目を大きく見開いた。何を言われたのか理解できない、という顔で、お話の通じない宇宙人を相手にしているとでも言うように、嘘臭い瞬きを、数回。
「インチキとは心外です。私はあなたのために、できる限りの事をさせていただいているだけで、」
清治は怒鳴る。
「うっせえ!志摩ちゃんは動物を善いとか悪いとか分けたりしねぇ!何が霊だよ、てめえに志摩ちゃんの何がわかんだよっ!」
清治の拳が打ちつけられた机が歪むのを目にして、僅かに驚いた様子の折原は、しかし、存外に落ち着いた声を出した。
「どうやら私の話を信じていただけないようですね」
ぱん、
と、折原は手を叩いた。隣の部屋から虚無僧姿の男が現れ、折原の前にかしこまる。
「わかりました。では、見ていただきましょう。守護霊である、あなたのおばあ様をこの場に、お呼びいたしますよ」
清治から少し距離をとって、折原は再びニコリと笑った。
「…何、」
祖母を"この場に呼ぶ"という折原の言葉に、清治の心は自分でも思いもよらぬほど、揺れ動いた。
来るわけねえ…志摩ちゃんは、死んだ、
しかし、或いは、と願う気持ちは抑えても抑えても溢れ出してくる。
こいつは、人のこういう部分につけ込んでる、
それが判っていても、清治は動けなかった。
折原に何事かを囁かれ、虚無僧の男は、もう一度隣の部屋に姿を消すと、段ボール箱を抱えて戻って来た。箱の中には赤い紐のついた鈴が幾つも入っていた。折原はそれを1つ1つ机の上に並べだした。
「おばあ様も、あなたとお話したがっておりますよ。愛してらしたのですね…」
「……」
葛藤する清治の代わりにさよりが口を挟んだ。
「わー。これ使って呼ぶんですか、鈴で、ダ●ソーの、」
100円ショップの店名が出てきて、折原の顔から一瞬だけ笑みが消える。だがすぐに顔を上げ、さよりに鈴を1つ手渡した。
「鈴に、文字が書いてあるのがわかりますか?これで会話をするのですよ」
鈴の紐には、小さな板がくくりつけられていた。筆文字で、片仮名が1字ずつ記されている。
「つまり、霊がこの鈴を鳴らしてお喋りする、という訳ですか…こっくりさんみたいですねぇ〜」
感心したように何度も頷きながら、さよりは、握っていた片手の手のひらを、清治だけに判る位置で密かに開いて見せた。いつの間に書いたのか、さよりの手のひらにはボールペンで折原の似顔絵が描かれており、その下に
神!まさに胡散臭さの神!
と書かれていた。
「…姐さん、」
完全に折原のペースに呑まれていた清治はほんの少し噴き出しかけ、僅かながら冷静さを取り戻すことができた。
「それでは始めます」
折原が厳かにそう告げると、虚無僧は恭しく蝋燭に明かりを灯し、黒子のように音もなく部屋を後にした。
「この者の気高き守護霊よ…御仏の名において、あなたを此処に迎え入れます…どうぞ我が呼び声にお応えください」
ゆらり、
蝋燭の炎が揺らめく。
「いらっしゃったようです…さあ、守護霊のメッセージを聞き逃さぬよう、鈴に注意してください…」
清治は固唾を飲み込む。
生前の祖母の姿が脳裏をかすめた。
清治、お前は頭がいい、
見て、考える事を大事にするんだよ。
ちりん、
鈴が鳴る。
眼鏡に炎を映し出したさよりの口角が上がった。
誰も手を触れていない。それなのに、
ちりん
鈴は、鳴った。
音の鳴った鈴に付けられた片仮名の板は、
「シ」
さよりが声に出して読み上げる。また別の鈴が鳴った。
「ン」
ちりん、
「ジ、」
ちりりん、
「テ」
呆然とする清治に、折原が笑顔を向けた。
「トリックは一切ありません。ご自分で触って確かめても構いませんよ」
その間にも鈴のメッセージは続いていく。
シ ン ジ テ ソ ノ ヒ ト ヲ
キ ケ ン ワ ホ ン ト ウ ニ
セ マ ツ テ イ ル 。
信じて、その人を。危険は本当に迫っている。
「…畜生ふざけんな、こんな、」
こんな事、志摩ちゃんが言うわけねえ!
清治は叫んだ。
「嘘だッ!!」
「絶対、嘘だ、」
牧野ビル3階・七見探偵事務所に戻ってきた清治は、デスクに頭を突っ伏して鬼哭を噛むような声を出した。
「あんな事言うわけねえ…志摩ちゃんは幽霊なんか信じてねーんだ…信じてねー奴が幽霊になるわけねぇだろ!くそ…」
けれど清治には、折原が一体どのような方法で、手を触れずに鈴を鳴らしていたのか全く判らなかった。
出来るだけ早く浄化儀式をするべきです、おばあ様の意志を無碍になさってはなりません、裏切ることになりますよ。
祖母を金儲けの道具にされておきながら、インチキを看破して折原を糾弾できなかった事が、清治は悔しかった。
「南武くんごめん。私、ああいうの好きすぎて歯止めきかなくなっちゃうんだよねぇ…本当にごめんね」
申し訳無さそうに手を合わせるさよりに、清治は頭を振った。
「別に姐さんのせいじゃねぇ。あいつに志摩ちゃんの話なんかしちまったのは、俺…」
言い終えるより前に、奥の安楽椅子に黙って座っていた七見が、ダン、と両拳でデスクを叩いた。清治はため息をつく。
「何だよ、所長!」
「君らこそ何なんだ…」
七見は椅子の肘掛けを握り、怒りに震えた。
「漸く一難去ったと思えば君たちまでまた幽霊の話か!?何なんだ!ここでこれ以上幽霊の話をするな!聞きたくない!」
「君らが居ない間に、僕を霊媒師と勘違いしたご婦人が3人も来た…幽霊のせいで事故が起きた、だの、親戚が破産した、だのを延々と聞かされる気分がわかるか!?しかも人違いだとわかった途端、偽物だとか紛らわしいだとか好き放題言われるし…くそ…僕を何だと思っているんだ…っ!」
清治とさよりは、七見の災難を聞いて顔を見合わせる。
「お前、下の奴らに間違われたな」
「所長、実は…」
涙目の七見に、さよりが折原式姓名霊視研究所のチラシを手渡し、事の顛末を解説した。
「馬鹿な…僕の事務所の下で霊感商法だと?嫌がらせにも程があるっ!」
七見は頭を抱えた。
「昨夜はフライト中に兄さんに会うし、今日は今日で幽霊騒動…、くそ、何なんだ本当に!心が折れそうだ」
イライラと呟きながら七見は鏡の前で手早くループタイを直し、髪を撫でつけ、清治とさよりを振り返った。
「支度をしたまえ。その霊視研究所とやらに行くぞ。幽霊など存在しない、という事を、この僕が証明してやろうじゃないか」
「え…マジかよ」
ほんの少しだけ、七見が頼もしく見えた清治だったが、次の瞬間、普段あれだけこまめに消せと七見自身が言っていた照明器具が全部屋つけっ放しになっている事に気づき、
こいつ、幽霊怖ェんじゃねえのか…?
と急速に不安になった。
牧野ビル2階。
「おや、あなた方は先程の。お忘れ物ですか?浄化儀式のお申し込みでいらっしゃいますか?」
ソファに座って何か書き物をしていた折原は、さよりと清治に例の笑顔を向け、七見に気付くとソファから立ち上がって丁寧に会釈した。
「お連れ様のご相談でいらっしゃいましたか」
七見は片眉を上げ、切れ長の目で折原を見上げる。
「どうも。上の階に探偵事務所を構えています。これも何かの縁ですから、折角なのでご挨拶に伺っておこうと思いまして」
「それはどうもわざわざ、申し訳ないことです」
慇懃だが高圧的な七見の口調にも折原のスマイルは崩れなかった。
「西江、あれを」
七見に促され、さよりが折原に箱を差し出す。
「ご笑納ください。お近づきのしるしです」
「これはこれは…」
七見の実家から送って来たという高級和菓子の箱を見て、折原の瞳に僅かに抜け目のない光が宿った。
「初回無料となっておりますので、いかがですか、探偵さんも守護霊のメッセージ、お聞きになって行かれては」
黒檀の机を挟んで向かい合った七見に折原はそう申し出たが、
「結構ですね。幽霊の類は信じませんので」
小柄な体をソファに沈ませ、七見は意地悪く笑った。
「探偵として、幽霊を"存在させる方法"には些か興味が無くもないですが」
折原は暫く黙っていたが、やがてゆっくりと身を乗り出し、悲しみの滲む絶妙な表情で、七見の目を覗き込んだ。
「探偵さん。悪霊というものは、自らの存在を疑う者に容赦がありません…貴方には守護霊のメッセージが必要だと思いますよ。身を守る、ためにも」
"悪霊"という部分で七見の肩がビクリと揺れた。折原が悲しい顔で頷く。
あ…あの馬鹿いきなり向こうのペースに呑まれてんじゃねえか…
清治が思わずついたため息が聞こえたのか、七見は膝の震えを押さえつけ、何とか顔を上げた。
「くっ…それほど言うならば聴きましょう、そのメッセージとやらを。ただし条件がある」
「彼、南武君にもう一度、先ほどと同じ儀式を施してやっていただきたい。僕はそれを見て判断します。その上で、あなたの言うように、これは絶対に"守護霊のメッセージとしか考えられない"ならば、儀式でも何でもちゃんと料金を払ってお受けします」
七見は一息にそう言うと、榛色の双眸で折原を見上げた。
「貴方は私が何らかのトリックを使っているとお疑いなのですね。いいですよ。何度でも、どうぞご覧になって下さい。そうすれば感じるはず…大気に満ちた霊たちの存在を…」
"大気に満ちた霊"を想像したのか、七見はヒクッ、と息を呑んで鳥肌を立てながらも折原を睨みつけた。
「勝算あんのかよ」
折原が鈴の準備をしている間に、清治は声をひそめて七見に尋ねた。
「だ、大丈夫だ。幽霊なんかいるわけない。絶対にトリックがある」
「だから、それ、見抜けんのかよお前に」
「当たり前だ。探偵だぞ僕は」
先週のストーカー事件で恐ろしく的外れな推理しか出て来なかった同じ口で、なぜそのような発言が出来るのか、清治は呆れるしかなかった。
「所長、」
こめかみを押さえ、清治は命じた。
「てめえ、"飛べ"。それしかねえ」
七見はパチ、と長い睫毛を瞬かせる。
「クローゼットの中のハムスターが見えるんなら、野郎の服とか壁とか、机ん中に仕掛けがねーか見れるだろ?」
「現場そのものは見ない、ですって?」
折原は初めて本当に驚いた顔を見せた。
「俺が電話で所長に実況する。駄目か?」
自分で言っておきながら清治は、何て意味不明な要求だろうとため息をつく。だが仕方がなかった。七見が"あの椅子じゃなきゃ飛べない"と主張したからである。宇宙船じみた巨大な安楽椅子が、この部屋の狭い扉を通れるとは思えない。
「実物を見なければ"探偵さん"には不利では?私を"インチキ"だと仰りたいのなら根拠を示していただかないとなりませんよ」
「折原さんは、安楽椅子探偵、という言葉をご存知ですか」
七見が口を挟んだ。
「何です?それは」
「椅子から腰を上げることなく、話を聞いただけで全てを解決する。それが安楽椅子探偵です。有名な所では、ミス・マープル…アガサ・クリスティはお読みでない?」
「小説はあまり読みませんので」
「探偵にはよくある事なのですよ。僕はその典型的な例と思っていただきたい」
七見の台詞は胡散臭いことこの上なかったが、折原は条件を承諾した。
「あなたがそれでいいのなら、構いません」
その微笑みは、どんな怪しげな作戦で来ようとも見破られるはずがない、とでも言うような何か絶対の自信を感じさせた。
「それでは、」
照明が消され、蝋燭に火が入れられる。
「始めますよ」
「気高き守護霊よ…御仏の名において、あなたを此処に迎え入れます…」
朗々と響く折原の声にかぶさって、天井からガチャガチャと何か崩れる音がした。上階の探偵事務所に戻った七見が、慌てて照明でもひっくり返したのだろう、と判った清治は、さよりに囁いた。
「姐さん、所長についてなくて良かったのか?」
「ん〜大丈夫じゃない?今日は。私もこっち見たいんだよねぇ〜」
さよりは眼鏡を押し上げて、蝋燭を凝視した。彼女は彼女で"インチキ"を見破ろうとしているようだった。既に通話にしてあった清治の携帯から七見が息切れまじりに告げる。
「離陸した、今そっちへ飛ぶ」
鈴が鳴り始める前に、電話口の七見が緊張した声で報告する。
「天井…壁の中は特に細工されていない」
清治は蝋燭から目を離さないまま
「そろそろ蝋燭が揺れるはずだ。あいつが手元で何かやってねーか、見逃すな」
と指示した。
「今回り込んでいる。お前、所長は僕だって事、忘れてないか…?」
…どうぞ我が呼び声にお応えください…
折原の言葉が終わる。そして蝋燭の炎が不自然に揺らめいた。
「揺れたぞ、何か見たか」
「…え、」
清治の質問に、七見は間抜けな声を上げた。
「いや、何かもなにも、今、明らかに手で揺らしていたじゃないか。僕が見るまでも無い」
「…何?」
清治は混乱した。どう見ても折原は蝋燭を手で揺らしてなどいなかった。そもそも、燭台の置いてある机の上に手を出してすらいない。
「どうやって揺らしてたんだよ!」
「普通に手でパタパタやっていただろう!?こ、怖い事を言……」
七見が途中で台詞を中断した。
ちりん、
鈴が鳴る。「ウ」の字の札の付いた鈴が、ひとりでに揺れたのを、清治ははっきりと目にした。
「くそ…見たモンをちゃんと言えって!磁石とか、何かそういう仕掛けねえのかよ!」
「…き…清治…」
七見が泣きそうな呼吸を吐き出した。
「何を言っているんだ…?僕を怖がらせようとしてるのか…?」
「てめえビビらして何の得があんだよ!答えろ、どうやって鳴らしてるんだ」
小声ながら焦燥の滲む清治の問いかけに、七見はほとんど悲鳴に近い答えを吐いた。
「だからっ…普通に手で持って揺すっているじゃないかっ!」
「折原の手は机の下だろうが!」
ちりん、
七見が絶句した瞬間にまた鈴が揺らされる。見えない手で。清治もさすがに背筋が寒くなった。
「ち、違う。折原じゃない…鈴を鳴らしてるのは折原じゃない!」
「何?」
まさか…
ちりん、
「俺と姐さんと折原以外に誰か、居る、のか?」
「こ、」
七見は遂に叫んだ。
「怖いぃい!何で見えてないんだアレがぁああ!」
まさか、本当に、
「み、見えてるだろう!?見えてるって言いたまえ!怖いから!そうゆうの怖いからっ!」
喚く七見に返事を返すのも忘れて、清治は鈴を見つめた。
「志摩ちゃん…」
ちりん、
答えるように鈴が鳴る。
ウ タ ガ ツ テ ワ ダ メ
疑っては、駄目。
ワ タ シ ワ
私は…
「志摩ちゃんなのか?」
目の奥が熱くなり、清治は呟くような声しか出せなかった。折原が微かに口の端を吊り上げたのにも気付かない。
「七見、志摩ちゃんが、居るのか、そこに、」
七見は清治より更に弱々しい声で答えた。
「い、いる…不気味な虚無僧だろ、志摩ちゃんって…いる、いる、コワイ、コワイコワイ」
清治の動きが止まる。
「あァ…?」
急速に、揺らいでいた心が冷めてゆくのを感じつつ、言った。
「殺すぞテメェ…志摩ちゃんは虚無僧なんかじゃねえ。何だそれ、何、見てんだバカかテメェ」
「え、…え?」
ただただ狼狽える七見の代わりに、清治の言葉を漏れ聞いたさよりが
「おっやぁ〜?」
と口角を上げた。
「ちょと、ごめんね」
清治から携帯電話をツルリと奪い、
「もしもし、七見坊ちゃ…いえ、所長。もしかして、鈴を鳴らしてるのは虚無僧ですか?」
さよりは、くふふ、と笑った。
「それ、多分幽霊じゃありません。お兄さま達と同じですよ」
清治にはその意味が理解出来なかった。
再び電話を渡された清治は、落ち着きを取り戻した七見から、奇妙な指示を出された。
「くそ…意味がわからねーが、とりあえずやるしかねえ。後で説明しろよテメー」
こめかみを押さえながら清治は、立ち上がった。
「おっさん、ちょっと便所行って来るからよ。続けててくれ」
「…しかし、メッセージを聞き逃す事に…」
怪訝な顔をした折原を、さよりが、
「いいからいいから、続きお願いしますよ〜」
と笑顔で急かす。
「すぐ戻る」
清治は物騒な目つきで折原を睨んで部屋を出て行った。
「さあさあ」
さよりはソファの上で嬉しげに身を乗り出す。折原は微かに冷や汗を滲ませた。
疑っては、駄目。私は、
「幽霊さん、その続きは何ですか?」
蝋燭の灯りを反射させた眼鏡を押し上げ、さよりは折原を見つめる。
「…守護霊を冒涜するような行為は慎むべきですよ、お嬢さん」
折原は口元こそ厳かな聖職者然とした微笑をたたえていたものの、目は笑っていなかった。
ちりん、
鈴が鳴る。
「ウ、」
ちりん、
「ソ、」
ちりん、ちりん、
「待て、馬鹿な、こんな、」
息を呑む折原を、さよりは可笑しそうに眺めている。
ウ ソ ツ キ
私は、嘘吐き。
「あら〜」
さよりが笑う。更に鈴は鳴る。折原は、扉に向かって叫んだ。
「て、手島さんっ!!何やってんですかぁあっ!」
折原が叫ぶと同時に扉が開いた。
「こいつか?」
子猫でも持つように虚無僧の首根っこを掴んだ清治が、凶暴な視線で立っていた。
「て、手島さん、」
折原は縋るように虚無僧、手島を見つめるが、手島は無理無理、とうなだれて手を振るばかり。
「姐さん、こいつが、その…何だって?」
清治は不可解そうに虚無僧を睨め上げる。手島は、ひい、と小さな悲鳴を上げた。
「PK、だ…」
さよりが答える前に、息を切らした七見がふらふらと部屋に入ってきた。
「折原さん…いや、むしろ貴方に訊こう。虚無僧の貴方、」
七見は一端唾を呑んでから、言った。
「サイコキネシス…念動力者ですね」
手島を掴んだまま上から下まで眺め回した清治が、
「…全然わかんねえ…」
とため息をつく。
「物体を、手を触れずに動かす超能力だよ」
3階から駆け降りてただけでゼイゼイとしゃがみ込む七見に代わって、さよりが若干興奮した様子で説明した。
「念力、とか。ほら、スプーン曲げとかもサイコキネシスの一種かな。あれはあやしいけどもねぇ」
机に両腕を付き、折原が嘆いた。
「どうして、わかったんだ」
つい先程幽霊に怯えていたくせに、不適な笑みを浮かべる七見。
「僕に見えないものなど、無い」
「あんた…」
手島が苦しげに呟いた。
「あんた、俺の力が"見え"てたのか…?」
念力。
手を触れずに、物を、
「アニメとかでよくある、あれのことか…?」
あまりの現実味の無さに呆けた声を上げた清治に、手島が
「そうだよ、あれだよ、俺にはアニメみたいな凄い力はないけどな、…いい加減離してくれ、苦しい」
と訴える。清治は手島を床に降ろし、七見に向けた目を細めた。
「超能力ってのは"見える"もんなのか…?」
一見すると凄んでいるようだが、清治は純粋に知りたかった。この世の、知らなかった様々な事を、知識を。
「フライト中に、兄さん達以外の"能力"を見ることは極めて稀だが、」
七見は服の乱れを直し、断言した。
「能力が"本物"なら、見える」
飛ばない者には理解できないかもしれないが、と、嫌みな前置きを挟んでから、七見は言った。
「僕は時折、フライト中に、巨大な鷹に乗った男を目にする。二番目の兄だ。僕と同じく千里眼である兄は"鷹に乗って"飛ぶ。四番目の兄は、カラス…」
つまり千里眼には、他の千里眼のフライト、"能力"を行使する様子が、見える。そして、
「手島さん。貴方は物体を動かす"能力"を使うとき、実際に自分の手で動かすところをイメージしている。そうですね?」
手島は無言で頷いた。
千里眼には、千里眼以外の"能力"が行使される様子も、見える、
「…というわけだ」
七見はニヤリと清治を見上げた。
清治は想像した。
飛翔する、鷹に乗った男、カラスに乗った男を、そしてもう1人の自分を使って鈴を鳴らす手島の姿を。
目が眩むような心地がして、こめかみを押さえる。一体、七見にはこの世界がどう見えているのか、
清治は、まったく知らない世界に強烈に吸い寄せられるような感覚を抱いていた。知らない知識を渇望する心が、清治の中に激しく噴き出す。それは祖母への償いとも別の、純粋な、知、そのものへの欲望だった。食い潰すかのようにあらゆる本を読んでいた祖母の気持ちが、ようやく。
「理解、できた…」
確かに感動する自分に、清治自身が一番驚いていた。
床の上に這いつくばった手島が、虚無僧の籠を脱いだ。
「千里眼か…まったく、俺達も運が悪い」
40歳ぐらいと思しき短髪の男であった。手島は顔を上げて七見を見た。
「どうする…俺達を訴えるか?詐欺師だって」
折原が不安げにまばたきを繰り返している。
「僕は君らの嘘を暴く事に興味があっただけだ。だいいちこの国はPSI(超能力)の存在を認めていない、訴えても徒労に終わる。まあネタを売るならばマスコミ方面が妥当だろう」
そう言って七見は片眉を歪めて腕を組んだ。
「マスコミに目をつけられたPKの末路は悲惨だからな」
それを聞いた手島はピクリと肩を震わせた。
「待ってくれ、」
そこで折原が悲痛な声を上げた。
「手島さんをマスコミに売るのはやめてくれ、頼む。代わりに、あんたには有益な情報をやるから」
「鶴っ!」
手島が一喝した。
「ば、馬鹿、それは、」
手島の様子は妙だった。そういう者の態度を飽きるほど見てきた清治には判った。手島は、何かに怯えている。
「所長、こいつ怪しいぜ。どうする」
「…そうだな」
七見はわざと考える素振りを見せてから、
「別に本当にマスコミに売る気は無い。ちょっと言ってみただけだ。僕はマスコミなんか嫌いだからな。聞かせてもらおうじゃないか、有益な情報、とやらを」
意地の悪い台詞を吐いた。
「手島さん、"奴ら"に義理なんか無いんだ、言いましょう、マスコミは駄目です、だってあなた子供の頃あれだけ…」
「…わかった…」
手島は折原を制して、真っ直ぐに七見を見据えた。
「俺と鶴はもともとA市の方で霊感商法をやっていたんだが、」
手島はふうっと息を吐き出し、額の汗を拭った。
「こっちに引っ越して来たのには理由がある。"妙な奴ら"に付きまとわれて鬱陶しかったからだ」
「妙な奴ら?」
七見はパチパチと長い睫毛を落ち着かなげに瞬かせている。手島は続けた。
「"奴ら"は始めから、俺がPKだって事を知っていた。同志、なんて呼ぶんだ。正直、気味が悪かった」
「ここで商売してるのが気に入らなくて嫌がらせをしてんだろうと思った。面倒ごとは御免だからな、俺は言った。わかった出て行くから付きまとうなって。そしたら」
手島は自嘲的にクッと笑って、吐き捨てるように唐突な単語を口に出した。
「奴らは言った。念力てっちゃん、の過去を消し去りたくはないか?と」
七見は手島の話の不気味な内容に捕らわれたように無言で固まっていた。
「念力てっちゃん。あんたらの世代じゃ知らないか?昔、一時テレビにもてはやされた超能力少年だ。イカサマ発覚して叩かれまくって消えた子供、」
あれは俺だ、と告げて手島は1秒ほど目を閉じた。
「あの日は調子が悪かったんだ、イカサマをやったのはその1度だけだ、でも、それが今でも俺の人生の足かせになってる」
レッテルを貼られ、人生を転落した手島の心情は清治にも理解できた。既に怒りは無い。こうして話す事で手島は清治と同じような、何か"償い"をしようとしているのではないか、そんな風にすら感じた。
こんなカゴで顔まで隠して裏方に徹してんのもそのせいだ、と喋りながら手島は声を震わせる。
「鶴は関係ない、奴らの話に乗ったのは俺だ。過去を消せるもんなら消したい、そう思った。だから、俺達は、奴らの言う通り、」
引っ越し先をこの"F市界隈に"決めた。
いやな予感がして、清治は七見に視線を移す。予想通りというべきか、さっきまでの余裕はあっと言う間に消し飛んでおり、七見は不安げに爪を噛んでいた。先ほどの仕返しなのか、手島は殊更ゆっくりと喋った。
「まったく運が悪い。別にこの辺りならどこでも良かったんだ。俺達はただ、奴らに言われた通り、この街で探れば良かったんだからな…いきなり当たりを引く必要は無かった」
手島に人差し指を向けられ、七見は、ヒクッと息を呑み込む。
「探偵さん、俺は"奴ら"に言われた。"千里眼"を探して接触しろ、ってな」
手島は声をひそめた。
「あんた、狙われてるぜ」
あんた、狙われてるぜ
探偵事務所に戻ってからの七見は、電灯を点け回ってこそいないものの、ソワソワと歩き回り、落ち着かない事この上なかった。
「…何だ、何故だ?僕が、誰に狙われてるって言うんだ?」
「ビビり過ぎだ所長、まだマジかもわかんねーだろ」
「びびってなどいない!」
しかし清治は、手島の話が嘘とは思っていなかった。千里眼や念力が在るのなら、利用しようとする輩だって居るだろう。手島が清治と同じく、ある種の"償い"として喋ったのなら尚更、危険性は高い、と感じていた。
清治は物騒な世界とは縁を切りたかった。暴力沙汰はごめんだ。しかし──
毛布を被って安楽椅子に丸まる七見に、さよりがカップを手渡した。
「所長ほら、ココアにしてみましたよ。怖くないですよ」
「怖くないと言っているだろう!気を遣うなっ…き、傷つく!」
──しかし清治は、恐ろしく駄目な、この空飛ぶ探偵の世界に既に、
魅入られていた。
「所長、」
ふうふうとココアを冷ます七見に清治は言った。
「アガサ…何だ、ミスターメープルとかいう本、持ってんなら貸せよ」
七見が僅かに笑う。
「違う。ミスターじゃない、ミスマープルだ、馬鹿め。右の棚にある」
清治はここを出る気はさらさら無かった。