飛ぶ探偵 03

flight-03
四ヶ伍七見の追跡

小春日和。七見は爽やかな空模様とは対照的な顔で安楽椅子に座り、足をカタカタと神経質に揺すっている。
「うるせえな」
昼食のコンビニおにぎりを食べながら"火曜クラブ"を読んでいた清治は、ミス・マープルの名推理をカタカタ音に邪魔され、抗議の声を上げた。
「悪い評判じゃねえだろうが」
「そういう問題じゃない!」
今朝、七見探偵事務所に1本の電話があった。
もしもし。ペットお悩み相談室ですよね?最近うちの犬が…
先々週の谷口恵美のハムスターの件以来、ペット探しの仕事しか来ていないこの事務所。巷ではどうやらペットの専門家と認識されつつあり、七見はそれが不満なのだった。

「僕は探偵だ、ペット相談室じゃない!」
七見の悲痛な叫びに、清治はこめかみを押さえる。
「まっとーな仕事なら何でもいいじゃねえか。今マープルさんがタンカきるとこなんだから邪魔すんなよ」
「ミスマープルは啖呵なんか切らないぞ…というか、お前まだそれ読んでるのか。今どこだ?青いゼラニウム読んだか?あの話好きなんだが」
七見が腕組みをして偉そうに覗き込んできた。
「何だまだ動機対機会か。ふふん、鈍いぞ」
「うるせえな覗くな!」
「はーい珈琲ですよ所長」
不思議な甘い香りを漂わせつつ簡易キッチンからさよりが出てきた。途端、来客を告げるドアチャイムが、りん、と鳴らされた。

デスクに珈琲を置いてぱたぱたと玄関口に走ったさよりの声が、アコーディオンカーテンの向こう側から聞こえてきた。
「ご依頼ですね。どうぞこちらへ」
七見が慌てて安楽椅子に腰掛けて探偵ポーズ、としか言いようのない気障な姿勢をとった。清治も読みかけの"火曜クラブ"を鞄にしまい込む。
「珈琲はお飲みになりますか?」
言いながらさよりが連れてきたのは、
「ジュースがいい」
大きな風呂敷包みをかかえた、小学2年生ぐらいの少年だった。
「…こ、子供」
七見が安楽椅子の上でがっくりと頭を抱え込んだのを見て、少年は少しむっとした声を上げた。
「子供だと駄目なの?」

「駄目ではない。が、僕の目を借りるのならそれ相応の事件でなければ、お断りだ」
少年と目を合わせもせずに意地悪く言い、七見は安楽椅子に寄りかかった。
「なにそれ」
きれいなマッシュルーム型に切り揃った髪を揺らして、少年は七見を睨んだ。
「探偵ってうわきあいて調べたりするんでしょ。かっこつける仕事じゃないじゃん」
「僕は違う。そんなものは程度の低いB級探偵の仕事だ」
「そんな事言っててよくお金かせげるね。お客さん来てないんじゃないの」
KOだな。
硬直した七見を見て、清治はそう思った。会話が途切れた所でタイミング良くさよりがオレンジジュースを運んできた。

オレンジジュースと、それから
「お名前と、ご依頼内容をお聞かせくださいますか、お客様。ファイルを作成いたしますので」
というさよりの大人扱いに機嫌を直したのか、少年は名乗った。
「つなひこ。内海綱彦」
そして風呂敷包みをデスクの上にそうっと乗せて、
「これ、」
明らかに七見ではなく清治とさよりの方を見てぶっきらぼうに告げた。
「おれにこれくれた人、誰だか調べて」
風呂敷包みからは、微かにプチプチという奇妙な音がしている。
「開けていいのか」
清治が尋ねると、綱彦は
「いいよ」
と答えてから、安楽椅子に沈没して落ち込んでいる七見を嫌そうに一瞥した。

風呂敷包みが解かれた。直後、七見が大きくため息を吐く。
「ほら見ろ、そういう事だと思った」
包みの中から出て来たのは、鳥かご。一羽の小さなセキセイインコがプチプチと餌を食べていた。
「結局、ペット関連じゃないか。いい加減にしてくれ、僕は探偵なんだぞ」
「別にいいだろうが。だいたい、虚無僧野郎の話にあんだけビビってたテメェに、でかい事件扱う度胸があんのかよ」
ウンザリした清治の言葉に七見は胸を押さえる。
「な…っ…、それせっかく忘れて…いや、違う!びびってなどいない!」
それを無視する形で、
「インコが、」
綱彦が続けた。
「おととい、うちの前に置いてあったの」

「誰がくれたかわかんないんだもん。おれインコ好きだけどさ…おばあちゃんが鳥アレルギーで飼えないし。くれた人に返したいんだけど、」
誰だかわからないから返せない、困ってる。綱彦はインコを見つめながらオレンジジュースをすすった。
「そういうのは先ず親に相談したまえ」
腕組みをして眉間にしわを寄せた七見を、綱彦は睨みつけた。
「できないから来たんじゃん。おじさん探偵なのにそんなのもわかんないの」
そう言ってポケットから紙片取り出した。
「インコのかごについてた」
紙片は破れており、書かれた文は途中で切れていた。
貴女以外のひとを生涯愛する事はできな──

「おれ漢字よくわかんないけど、これがラブレターだって事ぐらいわかるよ。でも相手が誰だかわかんなきゃ返事もできないじゃん」
口をとがらせてそう言った綱彦を、七見はクックッと意地悪く笑った。
「なんで笑うの」
綱彦がムッとして言い返すと、七見は、ここぞとばかりに実に嫌みたっぷりに、
「これが笑わずにいられるか。ませた奴だ、テレビの見過ぎじゃないのか?確かにこれはラブレターかも知れないがな、お前宛てじゃないぞ」
綱彦の額を指で突っついた。
「"貴女"は女性宛ての二人称だ。馬鹿め」
「…うそだ」
綱彦は叫んだ。
「違うよ!絶対おれにくれたんだ!ほんとだもん」

「意地を張ったって、事実そうなんだから仕方がない。可愛い間違いじゃないか、そうだろう?」
最高に憎たらしい仕草で、綱彦の小さなおでこを指でコツンコツンとはじく七見の姿に、清治はひどく脱力した気分になった。
「でも、でもっ」
けれど綱彦は泣きそうになりながらも反論を止めなかった。
「これはおれにくれたんだもん!だって…」
「ふふん、往生際が悪いぞ」
その時だった。大人として最低な七見の発言にかぶさって、意外な声が
『…ツナヒコサン、』
響き渡った。
『ジャジャッ、ギャッ、ツナヒコサン』
かごの中の小さなインコがまあるい目で、囁くように、少年の名を口にしていた。

ぱちくり、と長い睫毛を瞬かせて七見は絶句した。
「おぉ〜。確かにお客様のお名前ですねえ」
さよりが感心したようにインコをまじまじと見つめる。
「手紙はどうだか知らねーが、インコはこいつ宛てだな。…つーか何でこの手紙は破れてんだ?」
紙切れを手に取って呟いた清治に、綱彦が答える。
「食べちゃったんだとおもう…。かごにくっついてたから」
プチ、プチッ、と粟粒を噛むセキセイインコのくちばしと、紙片の奇妙な、細かくむしったような破れ方は合致しているように思えた。
「あァ…」
喰われるとは思わなかったのだろう、贈り主は手紙に名を記していたに違いなかった。

綱彦は口を尖らせたまま俯いた。
「探偵さんにたのめばわかると思ったのにな…」
その言葉に七見が片眉を上げる。
「どういう意味だ」
「おじさんじゃだめそうだもの」
「僕はおじさんと呼ばれるべき年齢ではないし、駄目でもない…っ!」
七見は子供に向けたものとは思えない冷ややかな怒りを込めた視線で綱彦の顔を覗き込んだ。
「この僕の目を借りられる事を光栄に思え」
意外なほど透き通ったはしばみ色の双眸を間近に見て、僅かながら動揺した綱彦は、少し間の抜けた声を出した。
「…わかる、の?」
探偵の口元が、ニヤリと上がる。
「当たり前だ。探偵だからな」

ビルのどこかの階でラジオが午後2時の交通情報を告げた。
七見、清治、さよりは、綱彦が置いていったインコと手紙を囲んで珈琲を飲んでいる。
「まあ、ガキ相手だし金はとらねーとしてもだ、あそこまで言った手前、捜せなかったら相当かっこ悪ィぞ。顔も名前もわからなくても、"飛べば"捜せるんだろうな?」
カリカリとかごを噛むインコの姿を見つめながら清治が言う。
「無論だ」
同じくインコに釘付けのまま七見は答えた。
「ただし、普段とは飛び方が異なる」
「…異なる?」
「所長、」
さよりが初めて口を出した。
「よろしいのですか?」
その言葉に七見の顔色が変わった。
「あ…っ!」

「くっ…だ、駄目だ…」
七見はがくりと膝をついて頭を抱えた。
「あァ?」
突然の行動に清治は唖然となる。
「駄目だ、今の方法は無しだ、他に何かないか、」
「はっ?おま…っ、ざっけんな!何だよそれは!」
さよりが柔和な笑顔のまま、ほんの僅かに困ったように眉を下げる。
「私個人としては久しぶりに坊ちゃまの本領を拝見したいのですが…」
「仕方ないだろう!別にあの人が怖いわけじゃないが、今、本家に呼び出しをくらうのは御免だ。二見兄さんだって帰郷してるんだぞ、最悪のタイミングじゃないか」
ああもう、と呻いた七見は癒やしを求めるように再びインコに目を遣った。

七見はハッと息をのんだ。
途切れ途切れに人間語を呟く小さな愛らしいインコが
『ピッ、ツナヒコサン、ヨロシクネ、ジュクジュク』
鳥かごの出入り口をこじ開けて、
外に出ようとしていた。
「ちょ…!」
「おい出て来てんじゃねーか!所長っ、見てねえで掴まえろよっ」
「わ、わかっているッ!今……だっ…痛ァアア!!」
慌てて出した七見の手は鋭いくちばしに啄まれた。すかさず清治が横から掴もうとするが、間に合わない。インコは蝉のようにブウン、と羽ばたいて身を翻すと、
「わ〜待ってぇ〜」
こぼれる珈琲にも構わず窓辺に走ったさよりの健闘もむなしく、如月の青空に向けて飛び去って行った。

30秒近くの間、遠ざかっていくインコの黄色い背中を3人でぽかんと見送っていたが、
「くっそ…しょうがねぇなチクショー…おい、さっさと"飛べ"、所長」
そう言って清治がコートを着込み始めた。
「言われなくてもわかっている!お前、こないだから僕が所長だという事を忘れていやしないか?」
ブツクサ文句を述べながら安楽椅子に座った七見に、さよりがヘルメットと携帯電話を渡す。
10、9、8…
じゃりん、と乱暴に扉を鳴らして清治は外に飛び出した。
…3、2、1…ゼロ。
「離陸、」
七見が告げるのと、鳥かごを引っさげた清治がビル下の駐輪場から自転車を発進させるのは、ほぼ同時だった。

背の高いビルや旗、アーケード、電線などがごちゃごちゃと空を覆う東京郊外の街、清治は猛スピードでペダルを漕ぐ。
「そこを右に曲がれ。ターゲットは大通りを逸れて商店街の方に迂回…あ、違う、やめて屋根に着地した、いや…やはり、行くのか?行くようだ、そのまま、」
携帯電話から漏れる七見の要領の悪いナビゲーションに清治は急ブレーキをかけた。
「あァ!?どっちに行きゃいいんだよ!」
「雨樋だと…?ふふん、インコめ、どこに隠れようが無駄だ、この僕の目は、」
「黙って指示だけできねぇのかテメェは」
呆れながらも清治は、空からインコを追う七見の視線を想像して微かな高揚を感じていた。

大通りを右に逸れて商店街、雨樋に潜り込んでアーケードをすり抜ける、川沿いの公園に入って木々をとまり移り、冬の常緑樹が実らす赤い木の実を少しかじって吐き出し、再び線路に向かって上昇、
「くそっ…どこまで行くんだよっ」
地上の道しか走れない自転車ではなかなか追いつけない。息切れ混じりに清治は電話口に尋ねる。
「その道の角に写真館のような店がある、その裏庭の木に今、…急げ!あそこなら手で届くぞ」
「簡単に言ってんじゃねえぞ畜生っ!」
軽く坂になっている民家の隙間を、清治が立ち漕ぎで必死に上り詰めた先、
『ぴい』
鳥の声が聞こえた。

デジタル化の波に対応出来なかったのか、とっくに店じまいしたと思しき小さな写真屋、の、名残のような茶色い建物。こぢんまりと設えた裏庭の真ん中に、この季節にも葉を落とさない暗緑色の低木が根を張っている。セキセイインコはその枝先に留まっていた。
生え放題の雑草をそっと踏み分けて、
「よっ……しゃオラァ!」
清治は見事、インコにコンビニ袋をかぶせて捕獲することに成功した。
「捕ったぜコラ」
「ああ」
清治の報告に、七見は案外素っ気ない返事を返した。
「テメェ人の苦労わかってねぇな、くそ、帰るからな」
清治が電話を切ろうとすると、七見は
「待て」
とそれを制した。

「偶然か?これは」
七見の言葉の意味が清治にはわからない。
「何がだよ」
「看板だ。…ああ、そこからでは見えない。表に回りたまえ」
成人式や七五三の写真が飾られているのが辛うじて見える、灰色の埃に曇ったショーウィンドーの脇を抜け、清治は店の表口に出た。閉じられて久しい扉の上に、やはり埃まみれの看板が乗っている。もとは井上写真館とでも書かれていたのだろうか、立体で貼り付けた文字は剥がれ落ち、
『 上写真館』
と、なっていた。これが何だ、と言いかけて、清治は固まった。店のマークと思しき絵が目に入ったからだ。
どう見てもそれは、
セキセイインコ、だった。

セキセイインコの帰巣本能がどの程度のものなのか清治は知らない。しかし、偶然にしては奇妙だった。綱彦のインコが、この写真館で飼われていたものであるという可能性は、少しは、ある、確かにそう思えなくもない。しかし、だからと言って
「この写真館のインコ好きの娘が、少年にインコを贈ったんだ、間違いない」
と言い切る七見の意見に、はとても賛成できたものではなかった。
「お前…よくそんな自信満々に言えるな。インコ好きの娘って何だよ!何だその今考えたキャラクターは。なんか雑だ、テメェの推理は。マープルさんが聞いたらキレるぞ」
「ぐっ…雑とは何だ!それにミス・マープルはキレたりしないっ」

「…手紙の方はガキの母親宛てって可能性も有るんじゃねーのか…、女宛てだったんだろ」
微かに暗い清治の呟きに七見は
「あ…」
と間抜けな声を上げた。
「つまり、不倫相手…?」
「断定すんな、不倫とは限らねえ。ただの1つの可能性だ。とにかく、ガキ一家とあの写真館に繋がりがねえか調べんのが先だろうが」
「くっ…ワトソン君のくせに…くそ…」
反論もできずに落ち込んだ七見の声にこめかみを押さえ、清治はため息をつく。
「お前ってマジで探偵向いてね…」
「ううっ…だ、黙れ!向いてないかどうかは僕が決める事だっ!」
七見の叫びに、清治は携帯から顔を遠ざけた。

事務所に戻る前に清治は写真館の住人に接触できないか、と考えたが七見によれば
「中はもう全部見た。人の気配は無い。懐古趣味の写真館の残骸だ」
という事らしい。
「じゃあ、」
この辺りで聞き込みでもしとくか?と言いかけた言葉を、清治は呑み込んだ。カーブミラーに映る自分の姿を見て、舌打ちする。
くそ、どこのヤクザだ。駅前キャッチじゃねぇんだ、こんな住宅地ド真ん中で聞き込みできるツラかよ。
「何だ?」
奇妙な沈黙を訝しんだ七見だったが、
「別に…。帰るぜ」
清治はそう告げるに留めて電話を切ると、フードを深く被って自転車に跨り、もう一度舌打ちを繰り返した。

前カゴに乗せたインコに時折目を遣りつつ、清治は乱暴にペダルを踏んだ。何に苛ついているのか、自分でよく判らないのも不快だった。
聞き込みすらできねえ事か?その原因の傷の事か?それとも、そういう人生歩んだ俺自身に苛ついているのか?それとも…、
何も知らず、インコはカリカリと、鳥かごをかじっていた。清治は自分自身の両親の事を思い出す。どうしようもない親だった。お互いにお互いを嫌い抜いていた。父にも母にも、別に愛人が居た事ぐらい、子供の頃から清治にも判っていた。
綱彦の母親の不倫、でなければいい、と、清治は願い、一生消えない額の傷を指で少し、撫でた。

「山上写真館、だったよ」
翌朝、出勤した清治にさよりが報告を持ってきた。図書館で数年前の地域地図を探して写真館の名前を突き止めたという。
「今日、綱彦くんの家の人に探りを入れてみるつもり。綱彦くんは探偵に頼んだこと内緒にしたいみたいだから、ちょっと、手間がかかるけどねぇ」
鳥かごを指でつつき、ゼリー食うかな?などと呟くさよりに、清治は尋ねた。
「姐さん、所長は?また遅刻か?」
「うーん、多分…」
「失敬な事を言うな」
りりん、と扉を鳴らして七見が顔を出した。
「お早う御座います所長」
自動的な反射反応、といった素早さでさよりが襟を正した。

一酸化炭素中毒になる、などと呟きながら七見は苛々と窓を開け、今度はしっかりと網戸を閉めたあと、腕組みしながらツカツカとインコのかごの前までやって来ると、深々とため息をついた。目の下に若干くまができている。
「また何か落ち込んでたのかよてめーは…」
清治の呟きに、七見はバンとデスクを叩いて抗議する。
「僕はな、帰宅後、くだらないテレビなんか見てさっさと寝てしまえるような雑な神経はしていない。一度事件に携われば、一日中思索に耽る。それが探偵というものじゃないのか」
そして再び大きくため息を吐いた。
「清治、君の推理はどうやら正しいようだぞ…」

「…どういう事だ?」
清治は胸の奥がモヤモヤするような、嫌な予感にとらわれた。
「この手紙、」
七見はインコに付いてきた紙切れを指に挟んで取り上げる。
貴女以外のひとを生涯愛する事はできな──
「これが少年の母親に宛てたものだとしたら、インコが少年の名を呼ぶ理由が解決する。いずれ自分の息子になるかもしれない子供を手懐ける、うってつけの贈り物だ。90%そうに違いない。だが…」
言ってから七見は涙ぐんだ。
「そんな事、子供に告げられるか?見つからなかったと言うしかないじゃないか!僕の面目は丸潰れだ、絶対馬鹿にされる!今から心が折れそうだ…くそ…」

最悪だ、と呻きながら安楽椅子に沈み込もうとした七見の手を、清治は掴んで引いた。
「待てよ、おい…まだ、"そう"って決まったわけじゃねえだろ、証拠だよ、テメェ証拠もねえのに適当な事言ってんじゃねえよ!」
「僕だって他の可能性があるならそれを信じたい!面目が潰れるのは僕なんだぞ?なぜお前が怒るんだ。そもそも自分で言い出した事だろう」
七見が怪訝な顔で清治を睨み上げる。
「それは、そうだけどよ…」
別に綱彦の母親が、自分の親と同じとは限らない、関係無い、なのに。
「ならば、母親が一人になるのを見計らって、直接訊いてみるか?」
七見はそう言った。

内海綱彦の自宅は、市内の栄えた地域から一本裏道に逸れた辺りにあった。山上写真館の付近より、やや高級感のある住宅街である。清治はさよりと共に、そこから50m先のコンビニに待機する事になった。綱彦の家を"上空から"見張っているはずの七見に、携帯電話を通して確認する。
「あのガキ、嘘の住所教えたって事はねえよな?」
「いや。確かにあの家だ。子供は居間でテレビゲームをしている。母親はどこかに電話をしているようだ。2階に祖母が寝ている。父親は勤務先だろう。家族構成にも嘘は無い」
母親か子供、どちらかが外出したら連絡する。と言って七見は一旦、通話を切った。

あんまんと肉まんを抱えてコンビニ内から出てきたさよりは、肉まんの方を清治に差し出しながら、
「そんなに深く被んなくて平気だよ」
と微笑んだ。
「あァ、どうも。…深く、って何を?」
尋ねるとさよりは清治のフードの下の傷を指差した。
「ハーロックみたいでいいじゃない。お母さんにカマかけるのは私が適当にやるから、まあそう緊張せず」
「…緊張してる訳じゃねえんすけどね」
清治は、自分が果たして冷静で居られるかどうか不安だった。他人の事情に関わるのが"探偵"だ、不倫ごときにいちいち動揺してどうする、と頭ではわかっていても、感情がうまく制御出来なかった。

携帯が鳴る。
「動いたのか」
「くっ…お前たち…人が独りで働いている間によくも中華まんを…覚えていろ…」
恨みがましい口調で告げてから、七見は続けた。
「今、母親が買い物に出た。徒歩でこっちに向かっている。前を通るはずだ。灰色のセーター、下は黒のパンツ、髪はアップにまとめて…」
そこで何故か七見の台詞は一度途切れた。
「どうした」
「いや…今、正面から見て気付いたんだが…彼女、どこかで見たことある気がするぞ…」
「何?」
黒いヒールを鳴らして歩いてくる女の姿が、清治の位置からでも確認できるまで近づいてきた。
「あの人?」
さよりが囁き声で訊いた。

事務所から持ってきた無意味なファイルを開きながら、何気ない仕草でコンビニを出たさよりは、害のない笑顔で
「すいませェん」
と、女、内海綱彦の母親、内海晶子に声をかけた。
「見たことがある、と言ったな、おい、」
清治は自販機に隠れるようにしてその様子を窺いつつ、電話の七見に小声で尋ねる。
「ああ…それもつい最近のような気がするんだが、」
考え込む七見。
「待てよ…清治、君も居た気がする」
「あァ?俺は知らねぇぞ、あの女に会った事はねえ」
言ってから清治は思い付いた。
「…お前それ、"飛んだ"状態で見たんじゃねえか?」
「あ、」
七見が小さく息を呑んだ。

「そうだあれだ、いや待て、今から確認しにあっちに飛ぶ」
清治の返事を待たずに七見は、加速、と叫んで通話を切った。自販機横の"あったか中華まん"と書かれた旗が不自然な風に揺られた気がして、清治は一瞬空を仰ぐ。
「説明しろよクソ…」
切れた電話に呟きを漏らしたところで、さよりが深々とお辞儀をするのが見えた。
「お忙しい中お時間いただいちゃってすみません。ご協力ありがとうございました、あ、これチラシです、何かご相談の際にはぜひご利用くださいね」
チラシを受け取った内海晶子が会釈をして去っていく。さよりは清治を振り返り、眉を下げた。
「何だかな〜」

「とりあえず、探偵って事は明かして、別件調査の聞き込みって事で山上写真館についてそれとなく訊いてみたんだけど、」
さよりは透明なマニュキュアを塗った短い爪で、コツコツと顎を触る。
「シロだと思うんだよねぇ」
「マジすか、」
さよりの判定に清治は僅かに身を乗り出した。
「息子の七五三で、1度写真撮ったって。だから山上写真館の主人と面識はあるみたい。千歳飴サービスしてくれたのにお店潰れちゃってショック、って」
仮に"不倫"だとして、そんなエピソードまで喋るだろうか、と、確かに清治も思った。
「演技の可能性もあるけど…」
「演技…」
その時、清治の携帯が再び鳴った。

電話の向こうの七見は妙に沈んでいた。
「…僕だ。清治、今から山上写真館に来い、見せたいものがある」
「見せたいもの?」
「決定的な証拠だ」
清治はそれを聞いてさよりと顔を見合わせる。やはり内海晶子の態度は演技だったのだろうか?
「本当なのかよ。姐さんが見た感じでは母親は、シロ、みたいだったぜ。言わなくていいことまで喋ったしな」
「それも演技、だろうな。この証拠は決定的過ぎる。くそっ…、それから西江に僕の分の中華まんを買って一端事務所に戻ってきたまえと伝えてくれ。あんまんがいい」
七見はそこまで告げると沈鬱なため息をひとつ吐いた。

清治は牧野ビルの駐輪場に寄って自転車を取ってから山上写真館へと向かった。急ぐ必要は無い。だが清治は、早く真実を知りたかった。そして出来ることならば、ミス・マープルのように七見の"決定的な証拠"を覆してやりたいと思っている自分に気づき、舌打ちした。
何ムキになってんだ
七五三の写真を撮ってやるぐらいだ、綱彦の母親は自分の親とは違う。たとえ不倫をしていたとしても、息子の誕生日を忘れて深夜に帰宅したりはしないだろう。
混同してんじゃねえよ
真夜中にバラバラに帰宅し、顔を合わせるなり口論を始めた両親の顔がちらつき、ペダルを漕ぐ足に力が入った。

「サッシ窓?」
現場に着いた清治は、七見の指示通り、昨日インコを捕まえた写真館の裏庭に回った。
「埃を拭って中を覗いてみたまえ」
電話の向こうであんまんを頬張りながら七見はそう告げる。建物の奥半分は普通の住宅として使っていたらしく、裏庭側の窓に顔をつけた清治の視界に映ったのは、プライベートな空間と思われる小さな部屋。レトロ趣味なのか、古い雑誌が整然と積まれ、レコードや振り子時計が目につく。妙な機械も置いてあった。
「何だ、アレ」
清治の質問に、七見は答えた。
「知らないのか?オープンリールのテープデッキだ、昔はアレでテープを聴いていた。かなりの年代物だぞアレは」

「そのオープンリールの上の、写真をよく見たまえ」
と言われ、清治は顔を斜めに傾けた。
「よく見えねぇ」
「む…不便だな、お前の目は。ならば、中に入れないか?誰もいないぞ、今」
七見は無責任な台詞を吐いた。
「馬鹿言うんじゃねぇ、勝手に家に入ったら、け、警察来るだろうが!」
「言っておくがお前、裏庭に入った時点で既に住居不法侵入にはなってるんだぞ…」
「…マジにか!?」
清治は狼狽えた。しかしそこで、七見に代わってさよりが電話口からのんびりした声を出す。
「ねー、じゃあ助っ人送ろうか南武くん」
「助っ人?」
「助っ人だと?」
清治と七見の声が重なった。

数分後、地図を片手にキョロキョロと辺りを見回しながら、奇妙な格好をした男がひとり、山上写真館へとやって来た。清治を見つけて、
「よう」
と、片手を上げたその人物は、虚無僧。事務所の下の階で"折原式姓名霊視研究所"を営む念動力者、手島に間違いなかった。清治は一瞬固まる。電話の向こうで七見が、
「西江!いつの間に彼と親しくなったんだ!?ぼ、僕は聞いていないぞっ」
と喚いているのが耳に入った。
「てめぇ…"奴ら"に千里眼の情報を売るつもりで姐さんに近づいたな?」
清治は鋭い目つきで手島を睨みつける。
「おいおい、勘違いするなよ」
手島は肩をすくめた。

「俺はあんたらに警告しちまった時点で"奴ら"を裏切っている。今更情報を流したりしないさ。さよりんに悪いしな」
そう言ってククク、と手島は含み笑った。
さよりん、て、
「姐さんかよ…」
清治はまたしても固まった。
「彼女、世代違いにも関わらず"念力てっちゃん"のファンらしくてな。まァ、消したい過去とは言え、俺も好意的な女性ファンを蔑ろにできるほど薄情じゃないんだ」
手島がそう告げるのと同時に、電話の向こうの事務所ではさよりが七見に説明をしていた。
「所長、申し遅れましたが幽霊騒動の後より、私、てっしーとはメル友としてやり取りしておりまして…」

手島はサッシ窓に近付いて虚無僧カゴをちらっと傾け、
「あそこに掛かってる写真だな?」
と、オープンリールの上を指差した。
「完全無欠のピッキングも出来るがどうする、侵入って直接見るか?」
ククッと笑いの混じった手島の問いに清治は真顔で答える。
「勝手に中、入んのは嫌だ。取り立てじゃねぇんだ、そういう事はもうやんねえんだよ俺は」
「…あんたってさ…絶対、もと…」
そう呟きかけて、ま、いいや…と、途中でやめると、虚無僧は精神集中するように深呼吸して窓の内側を見つめ始めた。
カタカタと写真が震え出す。
「おお何だ、結構、重い」
僅かながら手島は愉しげにも見えた。

窓に向かって写真が壁からフワリと浮き上がる。清治はようやくそこで、目の前で起こっている現象の不思議さを実感し、息をのんだ。
「よく考えたらこれ、すげえ事だよな…」
思った事をそのまま口に出した清治に、手島は自嘲的な調子で返す。
「いや。射程距離も重さもこんなもんで限界だ、はっきり言って普通に手ェ使った方が早い」
とは言え手島はまんざらでもなさそうにクッと笑みを漏らした。
「これでいいか?」
写真は空中でゆっくり向きを変え、窓を挟んだ清治の前でピタリと静止する。
「ああ、サンキュ…」
礼を告げようとしたところで清治は片目を刃物のように細めた。

写真の中には、1人の男と1人の女。ぴったりと、体を寄せ合うようにして。男の肩には黄色いインコがとまっていた。そして、女は、化粧の仕方こそ違うものの、清治の目から見ても紛れもなく、
内海晶子、
綱彦の母親その人であった。
「………」
やり場のない、何か酷く刺々しい感情を含んで握り締められた清治の拳に、不安を感じた手島が
「兄ちゃんどうした」
と声をかけるが、清治は殺意すら過ぎる凶暴な視線で写真を睨んだまま。手島は仕方なくそのまま写真を宙に浮かし続けたが、20秒を越えた辺りから肩で息をし始めた。
「おい、もう無理だ、額が、重い、」

コトン、と床に額が落ちたその音で、清治は隣を振り返った。
「…何してんだ、おっさん」
虚無僧が地面にへたり込んでいる。
「何じゃない、限界だ、殺す気か?俺さっきこの重さで限界って言ったよな?聞いてなかったか…?同じ場所に浮かしとくのが一番疲れ…」
「悪ィ、」
清治はしかし、心ここにあらず、といった鋭い目でそう言うと、両手を組み合わせてポキポキと骨を鳴らし、ふう、と息を吐き出した。手島の目には暴力沙汰10秒前、といった恐ろしい予兆に映ったが、
清治はこの時、暴力の衝動を"知力"に変えようと、戦っていた。"別の可能性"は無いか、懸命にそれを考えていた。

ハムスターの谷口恵美の時のように、一方的なストーカーの可能性は無いか?
清治は感情に押し流されそうな思考を振り絞り、窓を隔てた床に落ちた写真に目を遣る。
仲むつまじげな内海晶子と、男。
谷口恵美にストーカー行為をしていたのは、別れた男。同じケースとするならば、写真は結婚前、少なくとも綱彦が生まれた年より前に撮られたものでなくてはならない。だが写真の内海晶子と現在の彼女に歳月の隔たりは殆ど感じられない、写真自体も新しい。また、結婚前交際していた男の店で七五三の写真を撮るというのは、あり得なくはないが、不自然だ。
清治はこめかみを押さえた。

何か、ないのか、他に、
ヒントを探して記憶の扉を開けまくる一方で、清治の脳裏に、依頼時の綱彦の態度が再生される。
親に相談するものだ、
と言われた時、綱彦は答えた。
「できるわけないじゃん」
手紙が女性宛であったことに対して、
「うそだ!」
あれほど動揺したのはなぜか?
「探偵さんならわかると思ったのに…」
綱彦は、何を頼みたかったのか。母親の不倫の可能性に、彼は気付いていたのではないか。そして、見つけて欲しかった、
"そうではない"証拠を。
綱彦の映像と自らの幼い頃の感情とがリンクする。
誰か、おねがい、
僕の家族はまだ大丈夫だって、言って、

清治は理解した。なぜ内海綱彦にここまで自分を重ねてしまうのかを。
内海綱彦が発していた"願い"を知らず知らずのうちに清治は嗅ぎ取っていた。それは幼い頃、清治自身が願ったのと同種のものだったからだ。
きっと二人でケーキを選んでいるんだ、
という微かな望みに縋って両親の帰宅を待った、誕生日の夜。小さな清治が抱いていた感情、
深夜バラバラに帰宅して、顔を合わせるなり口論を始めた両親を見てしまうまで続けた、賭け。
綱彦の依頼はそれに似ている。
結局、清治にはケーキは無かった。けれど、"もしかしたら"と待つ気持ちは痛いほど分かるのだった。

清治は胸ポケットで震えだした携帯を開き、
「写真、見たか」
と尋ねてきた七見に、
「ああ…」
かすれた声を返した。
「ほぼ確定だろう」
七見がため息をつく。
「…俺の個人的な感傷かもしれねえけどよ、」
零れ落ちそうな感情を抑制する努力をしながら清治は言った。
「あのガキはきっと、俺達に"他の可能性"を見つけて欲しくて依頼したんだ、そう、思う。まだ終われねぇ。所長、写真の男を探してくれ、諦めきれねえんだよ!」
「お前…」
気圧された七見が呆けた声を出す。
「悪ィ…とにかく頼んだ。俺はここをもう少し調べる」
携帯を閉じて清治は大きく息を吐き出した。

「…おい」
清治は振り返って手島を見た。
「悪ィけどもうちょっと手伝ってくんねーか」
「わ…わかった…」
ついこの間、清治に猫でも扱うように首根っこを掴まれた恐怖体験のある手島に、断るという選択肢はもちろん無い。
引き出し、レコード、クローゼット、ごみ箱、
じっ、と窓に頭をくっつけて写真館の中を凝視する清治の隣で、手島は言われるがまま、部屋のものを念力で動かし続けることになった。
アルバム、段ボール箱、次々に中身をあけてゆく、
まるで規模の小さなポルターガイスト、といった様相を呈してきた室内を、清治は必死に観察する。
何か、手がかり、別の可能性が…

手島はゼイゼイと浅い息を吐いていた。もはやメモ帳一枚めくるのもやっと、という有り様である。浮き上がったレトロ仕様のメモ帳が小刻みに震えている。その端は細かくむしられ、かじられた手紙と同じ様相を呈していた。この部屋でインコが飼われていたのは間違いない。だが、他には何も、
「見つからねぇ…」
清治が手負いの獣のような眼でこめかみを押さえ、呻く。
「か…」
同時に手島も声をあげた。
「架空の腕が折れるうう!」
瞬間、まるで思い切り投げ捨てたかのように、メモ帳がオープンリールデッキの上に落下した。
衝撃でボタンが押されたのか、剥き出しのテープがスルスルと回転を始める。

スイッチの入ったオープンリールデッキ、
そこから流れてくるものはきっと古い音楽なのだろう。清治はそう思っていた。だが、
…さん……このテープを…
「声…!」
反射的に清治は窓に耳を付けた。
『つなひこさん、チーコをよろしく、どうか、』
女の、声だった。泣いているようにも聞こえる。
『しあわせに、なって』
ぱちん、
そこで音が入ってそれっきり、後は無音が続いていた。
「…何だ…今の、…」
清治は手島を振り返った。
「おっさん、今の、」
だが虚無僧はフルフルと首を横に振って両手を拝むように合わせ、座り込んでいた。
「ほんとにむり、俺もうじき40なんだぞ、死ぬから」

オープンリールに入っていた女の声が内海晶子のものかどうか、清治には判別できなかった。だが、
つなひこさん
声がそう呼びかけていたのは確かだ。
チーコをよろしく
とも言っていた。
チーコ、はインコの名前か?あれはあのガキに向けられたメッセージ、という事なのか?
清治はパキパキと指を鳴らし、考える。
もし声が内海晶子のものならば、なぜわざわざオープンリールテープなどというややこしい物にそんな事を吹き込んだのか。何の意味があったのか。
「どういう事なんだよ…」
清治が頭を抱えた所で、再び携帯が鳴りだした。通話ボタンを押した途端に七見が呻いた。
「どういう事なんだ」

七見は、毎度のことだが酷く取り乱していた。
「こんな…!馬鹿な事があるかっ!」
清治はガリガリと頭を掻き回しながら怒鳴り返す。
「何がだ、くそ、ちゃんと喋れよ!何を見たんだ、写真の男は見つけたのか!?」
「写真で姿を確認しさえすれば、僕は標的がどこに居ようと絶対に探知できる。これは絶対だ、たとえ容貌を変えていたとしても、ミクロ単位の視覚情報まで探知できる千里眼をごまかすことは出来ない!…だが、」
七見は早口でまくし立てた。
「居ないんだ、地球上のどこにも、あの男は存在しない!もしくは既に、」
清治の目が、驚愕に見開かれた。
「既に、死んでいる…」

「さ、殺人か?例の、僕を狙う連中の仕業か…?」
七見の妄言はとりあえず無視して、清治は必死に考えた。
待て、これは…別の"可能性"じゃねぇか?
写真の男は、死んでいる、
内海晶子がこの事を知らないはずがない。だが知っていたなら、山上写真館の名を出された時、全く動揺しなかったのは何故か。
演技なのか?
オープンリールに吹き込まれた声といい、
何かが不自然に、
「噛み合わねえ…」
パーツが足りない。清治は気づいた。自分が"見ていない"部分をまだ探していない事に。
「所長、」
清治の唐突な質問に、七見は一瞬絶句した。
「お前、どうやって"飛んでる"んだ?」

清治の記憶が正しければ、以前七見は話していた。兄たちは千里眼の能力を行う際、鷹やカラスに乗って"飛ぶ"と。
「お前自身は何に乗ってんだ?鳥か?」
七見は少し言いよどんでから、小さく呻いた。
「…ゆ…っ…」
「ゆ?」
「UFOだよ!僕のシャーロック号はUFOだ!ああ、兄たちとは違うさ、どうせ幼稚だ、悪かったな!」
やはり七見が何らかの"機械"に乗って飛んでいたと思ったのは間違いではなかった。微かに頷いて、清治は続ける。
「それ、レバーとかボタンついてんのか?俺にはジェスチャーにしか見えねぇが、」
「付いている!それが今関係あるのか?」
何故か逆ギレ気味に七見は答えた。

「探知ボタンは、」
清治は覚えていた。
「探知ボタンはあるのか」
谷口恵美のハムスターを探知した時、七見がボタンを押す仕草をしていた事を。
「有るに決まって…」
七見はそこまで訊かれて遂に、清治が何を確かめようとしているのかを理解し、言葉を飲み込んだ。
「お前、それ押さないと"探知"できねえんだな?」
「…できない」
「この写真見に飛んだ時、押したか、それ」
「…ううっ」
「写真の女は、本当に内海晶子か」
「で、でも、どう見ても本人だ、お前だって…」
「押してねえんだな?」
再度繰り返された質問に七見は渋々、
「…押してない」
拗ねた子供のように返事をした。

清治は、千里眼、が、本質的にはどんな能力なのか完全に理解していた訳ではない。ただ、七見の飛び方を見て、複数の機能を備えた乗り物のような能力、という捉え方はしていた。
手島が"架空の自分"をイメージして物を動かすのと同様に、七見もまた乗り物のイメージを操縦する事で"能力"を使っている。つまり七見が、ある"機能"を執行する為には、それをイメージする動作、が必要となる。
「ボタンは、押してない」
七見は、写真の女が内海晶子と同一人物かどうかを探知の"機能"で詳細に確認した訳ではなかった。
「写真の女が内海晶子でない可能性はある」
ションボリと、それを認めた。

携帯は通話のまま、しばらく清治は待っていた。七見が、今度は100%の精度で写真の女を探知し終えるのを。それが内海晶子であるのか、或いは…、
「…どうだった?」
清治の中には、ある想像が構築されかけていた。裏付けには情報が足りないが、七見が持ってきた結果次第では、可能性のある、推論たり得る想像、だった。
「そうか、じゃあ今からガキの家に確認取り行くぞ。てめえも来い、七見」
清治はそう告げて携帯を畳むと、まだへたり込んでいる手島の方を振り返った。
「おっさん、あんたマジに最高だ、ありがとうな」
手島はカゴの下で微かに笑うようなため息を吐いた。

疲弊しきっていた虚無僧を自転車の後ろに乗せて牧野ビルまで送り返してから、清治は内海綱彦の家の前までやって来た。電柱の傍に座り込んでいたさよりが、ニコニコしながら片手をあげる。その横で七見は難しい顔をしてあんまんを食べていたが、清治の姿を見るなり
「貴様一人だけ全貌を把握してさぞ愉快だろう」
と恨みがましい口調で呟いた。
「いや、してねえって。いくつか確認とらねぇ事にはまだ想像だっつうの」
言いながらインターホンを押した清治は、応答を待つ間も七見が放出し続けているどす黒い念は無視することにした。
「…助手のくせに…助手のくせに…っ」

「…わかったの?」
洋風の玄関扉を少し開けて顔を出した内海綱彦は、不安と期待の入り混じった表情で順繰りに3人を見上げ、そう尋ねた。
「まだだ。お前に訊きたい事があって来た」
「…なにを?」
清治の言葉に綱彦は身を固くする。だが、質問の内容を聞いて綱彦はぽかんと口を開けることになった。
「お前に名前を付けたのは誰だか、知ってるか?」
予想と違った、とでもいうような、まん丸い目で清治を見つめ、綱彦は答えた。
「…うん。おばあちゃんが…綱みたいに人とつながっていけるようにって…」
人相の悪い清治の口元が、ニヤリと上がる。
「噛み合ったぞ、所長」

「そういう事か…」
七見が悔しげにため息を漏らした。
「ど…どういう事?今の、インコくれた人と関係あるの?」
居てもたってもいられなくなったのか、綱彦が薄着のまま玄関扉から出て来て、清治と七見を交互に振り返る。
「手紙もインコも、」
清治はゆっくりと、二階の窓に視線を移し、
「お前の婆ちゃん宛てだ」
2月の太陽の眩しさに目を細めながら、告げた。その窓の内側で眠っているはずの綱彦の祖母、つまり内海晶子の母親こそが、写真の女。七見の千里眼はそう答えを出した。
写真の2人の幸せそうな佇まいを思い出し、清治は、ある意味やるせない結末に目を伏せる。

写真は、綱彦の祖母と山上写真館の主人が恋仲であった事を物語っている。2人はインコを飼っていた。同棲していたのかも知れない。けれど何らかの事情で別れざるを得なくなった。そこで綱彦の祖母は、当時はまだ骨董品とは呼ばれていなかったであろう、オープンリールテープに、インコを頼む、と残し、姿を消した。
どのような理由があったのか清治にはわからない。ただ、やむにやまれぬ事情だったのは確かだ。そうでなければ彼は、写真を修復したりするだろうか。インコを飼い、店のマークにするだろうか。インコが覚える程繰り返しテープを聴くだろうか。彼女は、彼と同じ名を、孫に付けるだろうか。

どう説明して良いかわからない七見の"能力"についてはぼかして、清治は一連の経緯を語った。思いもよらない話を告げられ、綱彦はしばらく言葉を失っていたが、やがて目に涙を溜めて、言った。
「じゃあ…七五三のときの写真屋さんは、おれのおじいちゃんかも知れないってこと…?」
「確認はとってねえけどよ…」
その可能性は、ある。と清治も考える。かつての彼女そっくりの内海晶子と、自分と同じ名の少年を見て"山上綱彦"もそれに気付いたのかも知れない。
「千歳飴もらったんだ…写真屋さんに。あの時…おばあちゃんは足が悪くて行けなかった、一緒に、来てたら、」

一緒に来てたら、会えたかもしれなかったのに、
綱彦は鼻水をすすった。
死因は判らない。だが山上綱彦は死んでいる。もういないのだ。
「おばあちゃんが…かわいそうだ…」
鳥アレルギーなど、嘘。鳥を見れば"山上綱彦"を思い出す。思い出せば辛くなるから、
「帰るぞ」
唐突に七見が声を出した。
「真相はわかっただろう。要件は済んだ。明日、手紙とインコを引き取りにもう一度事務所に来たまえ」
七見はくるりと背を向けて歩き出した。随分と冷ややかな態度に、清治は少し文句を言ってやりたくなったが、さよりがつんつんと服を引っ張るので仕方なくその場を後にした。

事務所に戻ると、七見は安楽椅子に腰を降ろして、ふう、と大きく息を吐き出した。
「…探偵はお前じゃない、この僕なんだぞ…いい気になるんじゃない」
「てめえまだそここだわってんのかよ!別にいい気になってねえだろ、」
呆れる清治をよそに七見はデスクの上のインコに目を遣り、その隣の、かじられた手紙に手を伸ばした。
「僕はな、悔しくなんかないぞ」
七見は何故か緊張を抑えるように深呼吸をした。
「いくら君に推理力があろうとも、インコに喰われた山上綱彦の"遺言"に、何が書かれていたか、までは判るまい」
さよりがククッと笑いを漏らす。
「やっぱり。そうきますか」

「よろしいのですか?お父さまに知れたら叱られるかと思いますが」
言いながらもさよりはウキウキした笑顔になっている。
「か、構うものか。僕はもう本家から独立した身だ、あの人にどうこう言われる筋合いは無い」
と、口を尖らせた七見が何をしようとしているのか、清治にはいまいちわからない。
「再現って…どうするつもりだ?」
「もちろん、"飛ぶ"」
だが手紙は既にかじられている。飛ぶ事でなぜそれが読めるのか、やはり清治にはわからない。
「インコの腹ん中でも見るのか?」
七見は目頭を揉むように押さえながら答えた。
「馬鹿か君は。僕が見るのは"過去の手紙"だ」

「僕が君の前でやってみせたのは、千里眼としてはごく基本的な"透視"を応用した能力ばかりだ」
だが千里眼には"透視"より更に高度な"流視"というものが存在する、と、七見は解説した。
「平たく言えば、"流視"は空間だけでなく時間的な隔たりすら飛び越える技術だ。つまり、」
過去や未来を、見る。
「…は?」
もう何を聞いても驚かないつもりだった清治も、さすがに開いた口が塞がらなかった。
「おま…そんな事できんなら最初から、」
怒りを爆発させかけた清治だったが、
「黙っててくれ。集中できない」
と言った七見は意外なほど真剣で、毒気を抜かれてしまった。

さよりのカウントダウンが終わり、七見は安楽椅子に座って"離陸"した。ここまでは普段と変わらない。
「…父さまに叱られるのも嫌だがな、」
七見は深呼吸しながらゆっくりと右腕を上げ、
「"流視"は、」
頭より高い位置にあると思われる、見えない何かを
「痛いんだよっ!」
グッと引っ張った。
「流動方向確認、進路逆方向に、突入っ」
途端に、まるで正面から風でも受けたように七見の色素の薄い赤茶色の髪がふわりと逆立った。
風。
無いはずの。
ぞわり、と清治の腕に鳥肌がたつ。ビリビリと空気が電気でも帯びて震えている心地がして。いつしか清治は息を止めていた。

七見のガラス玉のような眼の中に一体何が映っているのか、清治はそのはしばみ色の眼球に釘付けになる。
「加速」
七見がそう告げた瞬間、異変は起きた。
「お、おい…、」
清治は思わず声を出す。
「お前、それ、」
七見の目から、大粒の涙がこぼれていた。気づいた七見は顔をしかめて左腕でそれを拭い、
「くっ」
呻いた。直後、堰を切ったように次々に涙が溢れ出す。
「いっ…たい、痛い痛いいたいいたい!みっ…西江、タオル!はやくタオルっ」
さよりが素早く椅子の横に跪き、七見の涙を拭い始めた。
「平気かおい…」
驚く清治の前で、七見は泣きながら更に
「加速、」
と叫んだ。

「紙とペンを用意しろ」
七見は一度もまばたきをしないでそう指示した。その間も涙は流れ続けている。清治がメモ用紙とペンを手渡したのと時を同じくして、
「…近い、」
七見は前方に腕を伸ばし、架空のレバーを引いた。
「そこだ、ブレーキっ!」
清治は、ガクン、と部屋そのものが揺れたような錯覚に陥るが、実際に揺れたのは七見の体だけだった。ふうっと息を吐き出した一瞬の間を置いて、七見は受け取ったメモ用紙にゆっくりとペンを走らせ始める。ゆっくりと。誰かの書いた文字をなぞるかのように。
「ズレるから…今、話しかけるな…」
メモ用紙の上に塩辛い染みがパタ、と落ちる。

およそ5分かけて七見がメモを取り終えるまでの間、事務所は静寂に包まれた。聞こえるのはさよりが七見の涙を拭うタオルの衣擦れ、七見の微かに乱れた調子の息づかい、そしてボールペンが紙の上をなぞる音。それだけ。
やがて七見が顔を上げる。
「終わった…。全速上昇、流域離脱…」
「お疲れ様です所長」
七見の頬をタオルでそっと撫でながら、さよりがそう労う。清治は、かじられた手紙と、たった今七見の書いたメモの字とを見比べて驚嘆せざるを得なかった。
筆跡は、
「同じだ…」
「当然だ。見ながらなぞったんだからな、過去の、手紙を」
"着陸"した七見は漸くまばたきをした。

内海千鶴子さま
貴女以外のひとを生涯愛する事はできなかった。結局私は、去った貴女の面影を追い続ける運命だったようです。チーコのあと何代も小鳥を飼い続け、貴女と撮った写真も捨てられなかった。山上家は私のせいで没落したのです。すべては私が悪かったのです。
私は今、小さな写真館を営んでいます。昨年、貴女によく似た女性が男の子を連れて店を訪れました。私と同じ名の男の子です。
千鶴子さん、私はじきに病でこの世を去りますが、その子を見て思いました。貴女に出会えて幸せだった。貴女を愛することができて幸せだったと。
どうか、幸せに。
山上綱彦

「手紙をマークして、過去に向かって追跡したんだ」
七見は珈琲をすすりながら解説を加えた。
逆再生された世界を見ながら飛んで、ちょうど山上綱彦が手紙を書いた"時間の地点"でブレーキをかけてそこに留まり続ける。そしてその間に手紙を正確になぞり写す。
「勿論誰にでも出来る芸当じゃない。僕がいかに優れた千里眼か、という事を少しは理解したか?清治」
「ああ、」
清治は素直に頷いてみせた。
「したよ…マジに」
手紙は、山上綱彦と内海千鶴子にとっての、最期に残った少しの、何か大切な部分。
七見は目の痛みと引き換えに時間を飛び、それを持ち帰って来たのだ。

清治の視線に気付くと、七見は眉をひそめた。
「何だ」
「いや…お前って、案外、」
いい奴かも。
清治がそう言う前に、事務所備え付けの電話がけたたましい音で鳴りだした。ビクリと七見が身を縮める。電話を取ったさよりは、気の毒そうな笑顔で七見を振り返った。
「所長、旦那様です」
「きたか…」
七見は咳払いをして、嫌そうに受話器を受け取る。
「僕です、父さま。ええ。しかし、…ですが、そんな、」
七見の声は段々としおれていき、最後は、わかりました申し訳ありません…で終わった。
「最悪だ…」
電話を切ってデスクにうなだれた七見の顔面は蒼白だった。
「最悪だ!」
←02 04→