飛ぶ探偵 04

flight-04
四ヶ伍七見の家庭の事情

東京都と接した某県K市へと向かう列車の中、四ヶ伍七見は落ち着かなげに深呼吸を繰り返していた。
「何で俺まで行かなきゃなんねーんだよ…」
ボックス席の向かい側に座ったフォーマルスーツ姿の清治が愚痴をこぼす。きちんとネクタイを締めているにも関わらず、やはり"そっち系"に見える。それを自覚していた清治はあまり機嫌が良くなかった。
「う、うるさい。それより言葉遣いに気をつけろ。叱られるのは僕なんだぞっ」
七見はトランクから櫛を取り出すと車内のトイレへ席を立った。
「何度髪直したら気が済むんだあいつ」
「7回目だねぇ」
清治の呆れた声にさよりが笑顔で頷いた。

数日前のインコの件で"流視"を行った七見は、父親・四ヶ伍鳥雅からの電話で、実家に呼び出される事になった。どうやら"流視"は父親に禁止されていたようで、七見はそれについて叱責を受けるらしい。だが、それでなぜ自分まで同席しなければならないのか、納得いかない様子の清治にさよりが告げる。
「うーん…お兄さま達への牽制なんだと思うよ」
「牽制?」
「南武くん風に言うなら、ナメられないように、って感じかな」
どんなだよ…
清治はこめかみを押さえた。
「金持ちの旧家ってのはそういうもんすか」
「やー…四ヶ伍家は、特別だよ。なんせみんな"飛ぶ"からねぇ」

ボックス席に揺られること3時間。七見探偵事務所の面々は、ようやく小さな駅に降り立って、タクシーに乗り換えた。駅周辺は清治にとっても懐かしい風景が続いていたが、車はだんだんと山奥に入ってゆく。
「お前こんな山の方に住んでたのか」
清治は、小学校時代、七見が自家用車で登校していたのを思い出した。
「僕らは表舞台には出られない一族だからな」
先程よりやや落ち着きを取り戻してはいたが、七見は窓ガラスを利用していつまでも神経質にループタイをいじっていた。
四ヶ伍家は特別
さよりの言った言葉の意味を、この時の清治は、まだ本当には理解していなかった。

タクシーが停車した所で、冷たい緑の針葉樹の群れが唐突に途切れた。
黒い鉄の門。
その奥に、明治時代の文化財と言ってもおかしくない、和洋折衷の古い屋敷がそびえていた。七見が扉の前に立つと、門は重い音をたててひとりでに開いた。咳払いをして歩き出した七見の後に、トランクを抱えた清治とさよりが続く。日本庭園の真ん中を突っ切るようにして玄関まで伸びた石畳を踏みながら、清治は
「…すげえな」
と呟かずにはいられなかった。
「マジかよ。庭に川があるじゃねえか」
「忌々しいほど気楽だな、お前は」
七見が振り返って舌打ちしたのと同時に、玄関扉が開かれた。

「あらあら」
玄関扉を開けたのは白いワンピースの、背の高い女。色白の顔にあどけなさは残るが、年の頃は30歳前後ぐらい。女は七見を見るなり駆け寄って来ると、
「いやだ、しーちゃんじゃないの。元気だった?」
女性は神経質にセットした七見の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「やめてください三見子(みみこ)姉さん」
七見が諦観まじりにうんざりした声を出すが、三見子は構わずニッコリと微笑む。
「相変わらず小さいねしーちゃん」
「子供じゃないんだ、やめてもらえませんか、その呼び方」
冷たい目で姉を睨む七見を無視して、三見子はさよりと清治を振り返った。

「お久しぶりです三見子お嬢様」
さよりがペコリと会釈したので、清治も一応、真似て頭だけは下げてみた。
「さよちゃん久しぶり〜!…と、…誰?」
三見子はあからさまに不信感を露わにして清治を指差した。
「南武は僕の助手です」
髪を直しながら七見が答える。
「どーも」
腕を組んだまま再度会釈した清治を、三見子は品定めするようにしげしげと眺め回した。
「ふうん…あ、とにかく上がってて。今日は二見(ふたみ)兄さんもむっちゃんもいるから、顔見せてあげなよね」
言いたい事だけ言ってパタパタと庭に出て行った三見子の後ろ姿に七見は大きくため息をついた。

小綺麗なスーツを着た使用人らしき人々が、すれ違う度に
お帰りなさいませ七見坊ちゃま
お帰りなさいませ
と頭を下げてゆく。赤い絨毯の敷いてある木の廊下を早足で進みながら、七見は感情の無い声で告げた。
「三見子姉さんはフワフワした人だが、きょうだいの中では上から三番目に年長だ。姉さんとは会話してもいい。だが姉さんの夫とは口をきくな。わかったな」
「あァ…?何でだよ」
高価そうな白い壷に触れぬよう体を避けつつ清治は尋ねる。
「何でもだ。僕は政治家は嫌いなんだ」
刺々しい七見の物言いは、どう考えても久しぶりに帰省した息子の台詞ではなかった。

階段を上がった先の洋間が七見の部屋だった。
「僕の荷物はここに置いてくれたまえ」
シャンデリアや天蓋付きベッドよりも異様だったのは、部屋の真ん中に置かれたボロボロの椅子。もとは高級な安楽椅子だったのだろうが、所々破け、更には半透明のプラスチック玉やビニールチューブ、アンテナなどがゴテゴテと汚く装着されて見る影もない。清治にはその椅子を七見が何に使っていたのか、容易に想像できた。
「初代シャーロック号だ。絶対触るなよ」
「触んねーよ」
ふと清治は、気になって尋ねてみる。
「お前の家族もみんな椅子で飛ぶのか?」
すると七見は何故か眉をしかめた。
「いや…僕だけだ」

扉がノックされた。
「坊ちゃま。西江です」
「入りたまえ」
七見が答えると、珈琲を盆に乗せた細身の女が恭しく入ってきた。
「あ、お母さん」
さよりが立ち上がって珈琲を受け取る。
「さよりがお世話になっております」
西江母は深々と七見、そして清治にも礼をするとさよりに向き直って、ニコリと笑った。
姐さんとそっくりだ。
清治は不思議な甘い香りの漂う西江母子を交互に眺めてそう思った。
「坊ちゃま、二見お兄様が部屋に来るようにと仰せです」
西江母がそう告げると七見は
「わかった」
と嫌そうに言った。
「西江は自由に過ごして構わない。清治は僕と来い」

階下の兄の部屋へと向かう途中、七見は清治に言い含めた。
「いいか。訊かれても余計な事は喋るな。くれぐれもうちの事務所がペット相談所と間違われているなどと言うんじゃないぞ」
「わかったけどよ…兄貴だろ?何でそんな緊張してんだお前」
「き…緊張している訳じゃないっ」
清治の問いに七見は口を尖らせた。
「僕は一番末だから、色々言われるんだ…」
意外なほど覇気のない七見の言い方に、清治は少なからず驚く。
「お前にはわからないだろうが、はっきり言ってこの家でプレッシャーを感じるなという方が無理だ」
七見は苦々しげに四ヶ伍家について話し始めた。

四ヶ伍家は代々続く千里眼の家系であり、その能力ゆえ表舞台に立つ事こそ無いが、織田、豊臣、徳川の重臣としても活躍したと言われ、各界から歴史の裏に四ヶ伍家ありと謳われる由緒正しき名家であると、七見はいう。分野に差はあれど、一族は皆、世の裏で千里眼を駆使して動いている。本家の当主ともなれば、各界の名士や諸外国の富豪などからの依頼により、一度飛ぶだけで億単位の金が動く。
「二見兄さんはCIAの特別調査官、五見(いつみ)兄さんは大学病院の外科部長。六見(むつみ)兄さんは菱丘グループの幹部だ」
エリートなんだよ、うちは。七見はそう言ってのけた。

「四ヶ伍家の人間の力を知っている組織や企業なら、労せずしていいポストに就ける。だがどんなに地位を上り詰めたところで、所詮は裏方だ。千里眼としての最高の地位は本家の当主の座以外ない。僕が幼い頃から既に、次期当主争いは始まっていた」
いかに、自分が有能であるか。あらゆる面で誇示し合うきょうだい同士の骨肉の争い。
「僕は当主なんかに興味は無いが、末っ子だからといって何かと無能扱いされるのは我慢がならない!」
と、七見が声を荒げたところで、横槍が入った。
「"当主に興味がない"ではなく"当主の器が無い"の間違いだろう。訂正するんだな、七見」

「…二見兄さん」
すらりと背の高い、七見によく似たガラス玉のような目を持つ男が立っていた。四ヶ伍二見。後ろにはSPなのか体格の良い男が控えている。
「探偵稼業などと比べたら四見(よみ)のように裏社会にでも手を染めた方がましに思えるがな…まあいい、今日はそれが言いたかった訳ではない」
意地の悪い物言いまで七見そっくりだ、と思ってから、むしろ七見が兄・二見の劣化版のようだと気づき、清治は少なからず七見に同情したくなった。
背も負けてるしな…。
顎で、来い、と合図して二見は自室に戻ってゆく。その後を追う七見は最大限背筋を伸ばしていた。

二見の部屋は、英国調の七見の部屋とはまた違って、こちらはモダンな和室だった。しかしそんな内装などよりも清治が気になったのは、先程から自分に穏やかでない視線を送って来る二見の護衛のような男だった。
ざけんな、俺はヤクザじゃねぇっての。警戒すんなぶっ殺すぞてめえこの野郎。
という意味を込めて清治も睨み返す。部屋の空気が一気に緊迫する中、椅子に腰をおろした二見が口を開いた。
「"流視"をやったそうだなお前」
「あれは僕が父さまから個人的に禁止されていただけです。兄さんには関係ない」
向かいのソファに座った七見が噛みつくようにそう返す。

「何も分かってないな、お子様は」
嘲笑混じりのため息をついて、二見は細い指で七見の額をピンと弾いた。
「いったっ!」
若干涙目で額を押さえながら舌打ちした七見に、二見は告げる。
「いいか、我が一族が千里眼業界においてウィンスレットの一族を完全に制圧したのはもう15年も昔の話だ、今は状況が違う。いつ寝首をかかれるかわからない。真っ先にあら探しをされるのが誰なのか、わかるか」
当然のように七見の答えを待たずに続けた。
「お前だよ、末っ子。お前の失敗が一族の失墜を招くかもしれない事を、よく覚えておくんだな。お子様のくせに"流視"など100年早い」

「ぼ、僕は流視ごときで失敗なんかしない」
七見は口を尖らせて反論する。が、もう泣きそうだった。
「信じられると思うのか?昔から何をやらせても駄目な奴だったからな、お前は。"一見(ひとみ)兄さんのように"ならない保証はどこにもない」
「……」
一連のやり取りの意味の大半は理解できない内容だったが、清治はもどかしい気分で腕を組み替えた。
馬鹿、何黙ってんだ所長。言い返せ。せめてガンとばすぐらいしろよ。
悟られぬ程度に舌打ちした清治の視界に、二見の後ろの男の表情が入ってくる。
僅かな、薄笑い。
一瞬、獰猛な獣の衝動が清治の全身を駆け抜けた。

拳に血管を浮き上がらせ、清治は深呼吸をした。
あぶねーな…くそ
向こう、二見の護衛の男が喧嘩を売っているのは明らかだ。だが先に動けば乱闘の原因は清治である、ということになる。男はその事を熟知した上で誘っているに違いなかった。
乗るかよ。ぶっ殺されたきゃテメエから仕掛けて来い。
清治が指の骨を鳴らして斜めに相手を睨め上げたところで、二見が
「今後、余計なことをして一族の足を引っ張るようなら、俺にも考えがある。という事だ。分かったな」
と念を押した。七見は黙って頷く。
「分かったら行け。お前の所の犬がうちの部下に噛みつきそうだ」

畜生、志摩ちゃん…今のは今世紀最大にブチ切れる寸前だったぜ。
二見の部屋を出て、廊下を3分の2以上歩き過ぎるまで止めていた息を、清治は漸く吐き出し、七見の頭を小突いた。
「所長テメェ、何だよあのザマ。一発くらいやり返せねえのかよ」
七見は答えず、歩きながらピシッとアイロンのかかった袖で目を拭うと、早足に階段を登りきり、自室に駆け込んで内側から鍵をかけてしまった。
「ちょ…おいっ!」
清治が扉を叩くと、中から七見がくぐもった声を出した。
「廊下の奥に客室がある、空いている部屋を好きに使え…っ」
鼻を啜る音が聞こえ、清治は扉を叩くのをやめた。

清治は廊下の黒い板を軋ませながら舌打ちをした。
"千里眼"で財を成した名家、なんてものは勿論清治の理解の範疇をとっくに超えていたし、その中で繰り広げられているらしい身内同士の争いやら利害やらも、まるでドラマの中の出来事のようで、清治が体感してきた世界とはあまりにもかけ離れている。わかることなどごく僅かだ。
ただ、
清治は思った。
もし自分がこの家に生まれていたなら、間違いなくチンピラになって架空請求のようなつまらない詐欺で懲役を喰らっていただろう、と。
七見はチンピラではなく探偵になった。その点ぐらいは評価してやるべきだ、と。

廊下を曲がると両側に洋風の扉が幾つも並んでいた。空いている部屋を使えと七見は言っていたが、果たしてこれが全て客室なのか清治には判断しかねた。
旅館かよ
と舌を巻きつつ奥へ進んだ清治は、突き当たりに黒い扉があることに気付いた。若干開きかけている。何か嫌な予感がしたが、既に視線がそれを捉えてしまった。
扉の向こう、
「…何だ、あれ」
人が、
眠ったまま宙に浮いている、そう見えて。一瞬、体がぎゅっと緊張する。微かな罪悪感を抱きつつも清治の足は黒い扉へと近づいてしまう。祖母ゆずりの好奇心を、もはや清治は止めることができなかった。

隙間の開いた、真っ黒な扉の前で清治は立ちすくむ。
浮いている、と思ったのは間違いで。その人間は暗い部屋の中に色を沈み込ませた黒檀のベッドの上に、静かに横たわっていた。真っ白な長い髪、閉じた目蓋を飾る睫毛も長いが、おそらくは、男性。つながれた点滴から、液体が音もなくすべり落ちてゆく。
ボオン、
闇に潜んでいた大きな振り子時計が時を告げる。部屋に共鳴する巨大な音量を、6度も響かせたというのに、亡霊のような白い男は眠り続けている。身じろぎひとつしなかった。この男は本当に生きているのか。そう思った時、背後に気配を感じて清治は振り返った。

真後ろに、和服姿の老人が立っていた。いつの間に、どこから現れたのか清治にはわからなかった。
「人の家で、」
老人は七見と同じ鋭いガラス玉の目で清治を射抜く。
「人の家で勝手に部屋を覗くな、と、学校で教わらなかったか」
嗄れてはいたが落ち着いた声だった。
「悪かった、開いていたんでつい気になった。別に詮索しようとしてたんじゃねえんだ」
清治は素直に頭を下げながら、この老人は、七見の父親ではないだろうか、と考えた。七見は相当怯えていたが、清治が想像していたカミナリ親父のイメージではない。老人は、どこかの大学教授のような知的な気品を持っていた。

「長男だ」
老人は無感情な目で部屋の奥に眠る男を見遣る。
「あれは眠っているのではない、彷徨(さまよ)っているのだ」
老人の不可解な言葉に清治は眉をひそめた。先刻の二見の嫌みな口調が頭をよぎる。
"一見兄さんのようにならない保証はどこにもない"
「どうしてそんな事になったんだ?」
清治の質問に老人は直ぐには答えない。
「お前は確か七見が"流視"を行った際、あの場に居たな」
言い当てられて清治はドキリとした。
見ていたのか?飛んで
「ならば、あの馬鹿息子が流れに逆らって"飛ぶ"のを、見ただろう」
老人の視線はゆっくりと清治に戻された。

「流されぬよう、常に羽ばたいていなければならない手間はあるが、過去を飛ぶのは比較的、容易い。問題はその逆だ」
老人、四ヶ伍鳥雅の目には相変わらず感情らしきものが見受けられない。
「未来を視るとき」
「…そんなもんまで見えんのかよ、あんたたちは」
清治の、感嘆の混じったため息に、鳥雅はほんの僅かに口元を吊り上げる。
「正確には、"未来"が見えるわけではない。無限に分かれた"起こり得る可能性"の道筋を、見て回るだけだ。ただし、」
清治の目は自然に、部屋の中に向いていた。
「戻って来れなくなる場合もある」
長男、一見は未だ、
未来を彷徨っている。

鳥雅は灰色の髪を撫でつけた。
「未来は常に変化する迷宮のような物だ。鴎(かもめ)の翼を持った一見ですらああなった。訳の分からぬUFOだか何だかしか持たない馬鹿息子ではどうなるか、推して知るべし、だろう」
淡々と、目は感情を含まぬまま。
「これ以上、一族の足を引っ張られてはかなわない」
それを聞いて清治の心の底の方に、冷たい怒りが灯った。
違うだろ
自らの両親の顔が脳裏に浮かび、清治は瞼を痙攣させる。
「あんたそれでもあいつの父親かよ」
「他家の者にはわからないだろうが、」
鳥雅が淡々と口にした答えに、清治は硬直した。
「私は当主だ」

鳥雅は眉一つ動かさない。事務所で七見が父親のことを、しばしば"あの人"と呼んでいたのを清治は思い出した。
何だ、この家…
四ヶ伍家は、清治の家庭とはまた別の形で、崩壊している。七見を不憫に思った訳では無いが、清治の胸には不快なもやが渦を巻き始めていた。
「…イカれてんのか?」
眠り続ける長男を、一歩間違えれば同じ道を辿る得る末っ子を、心配するのが普通だろうに。
「我々一族には、親子の情などより優先すべき事がある」
中を見ることもなく、鳥雅は扉の鍵をかけると、清治に背を向けて歩き出した。
「"飛ばない"者に理解はできない。する必要も無い」

鳥雅が去った後も、清治は暫く立ち尽くしていた。冷たいものが胸の辺りに澱のように沈んでいる。同情ではない、清治は恐怖していた。幼い頃、自分が七見にした仕打ちの残虐さに。
高級車で送り迎えされ、他人を見下した言動を繰り返していた七見は、あの頃この家で、何を思っていたのか。学校では清治に殴られ、家ではあの父親や兄貴と顔をつきあわせる毎日は、果たしてどんな地獄だっただろうか。
考えたこともなかった。
不幸なのは自分だけだと、どこかでそう思っていた事に清治は気が付いてしまった。自分が傷付けてきた人間の、未だ知らぬ人生を想い、体が震えた。

志摩ちゃん…
俺に、あいつの人生を償うことは出来るのか?
無意識に額の傷を触りながら、清治はようやく重い足を踏み出した。ため息が漏れる。深く考えもせず客室の扉の一つを開いた。
「あ」
「あっ」
おそろしくダラけた格好で寝転んだ西江母子が、並んで本を読んでいた。
「姐さん、」
さよりは"絶対本物・心霊写真集"と銘打たれた本を母に手渡しながら起き上がり、
「いやー、ここで働いてた頃は使用人の部屋だったからさ、客室使うの初めてでテンション上がっちゃってねぇ、お母さん呼んでついつい心霊写真祭りしちゃったよー」
と、いつもの柔らかな笑顔を見せた。

「凄いのよ、これ、ほら」
「うーん顔だよねぇ、顔だこれは」
西江母子はお薦めの心霊写真を清治に見せつけた後、じきに夕食の時間だから少し手伝ってもらえないか、と切り出した。
「椅子をねぇ、下に運ばないとなんないんだー。後でつまみ食いさせてあげるからさ、ね、お母さんいいよね」
「さよりの後輩君のためなら、お母さん腕によりをかけて食材ちょろまかすわよ〜」
姐さん親子は明るいな、と清治は僅かに癒される。さよりと共に階段を上がりながら清治は、西江母子は七見にとって、清治にとっての祖母・志摩と似た存在だったのではないか、と思った。そう願った。

清治を連れてさよりがやってきたのは七見の部屋の前だった。
「坊ちゃまの椅子を運ばないとなんだよねぇ」
扉に手をかけようとしたさよりを、清治は軽く制した。
「どうしたの?」
「いや…姐さん、所長のやつ、さっきよォ…」
清治は先刻、兄に会った七見が部屋に閉じこもるまでの一連の出来事を話した。
「あー…なるほどー」
さよりは眉だけを困ったように下げると、おもむろにポケットから取り出した鍵を扉の鍵穴に差し込んだ。
「ちょ、待て姐さん、」
聞いてたのかよ、
と言おうとした清治を、さよりがシーと人差し指をたてて遮った。音をたてずにそっと扉を開く。

七見は、足の先まで完全に毛布にくるまって床の上に眠っていた。茶色がかった色素の薄い髪がはみ出た近くに古いハードカバーの"シャーロック・ホームズの冒険"が転がっている。
悪かった、
声に出さずに呟いて、清治は、ゆっくりと寝息にあわせて動く毛布の塊を見つめた。
「おおイモムシ」
囁きながらさよりは忍び足でその横を通り過ぎ、部屋の真ん中に置かれたボロボロの安楽椅子に手をかける。
「南武くんそっち側持ってくれる?」
そう頼まれて清治は一瞬、戸惑った。
「この椅子…、で、いいんすか」
「そうだよー」
清治は、この後、目撃することになる。
四ヶ伍一族の奇妙な晩餐を。

午後6時58分。燭台の置かれた長いテーブルには四ヶ伍家の面々が年齢順に着席していた。ちょっとしたホール並みに広い食堂である。開け放された観音扉と、廊下を挟んだ配膳室との間を、盆や食器を手にした使用人たちが忙しげに行き来している。客人扱いと言うには微妙な、その出入り口に近い辺りに、清治とさよりの席も設けられていた。
「おお…こっち座るの初めてだよ…」
と、さよりが囁く。清治は、目の前のフォークやナイフを凶悪な視線で睨みながら、外側と内側どちらから使えばいいのか迷っていた。やがて屋敷の時計が一斉に鳴り響くのと同時に、七見が食堂に駆け込んで来た。

七見は、さよりと清治の後ろを通り過ぎる際、
「椅子を運んだのなら起こしてくれても良さそうなものだ」
と呟いてから、白く整った食卓にいかにもそぐわない安楽椅子に着席し、まだ赤い瞼を気にして目を押さえた。
時計たちが鳴り止む。
同時に、現当主・四ヶ伍鳥雅が姿を見せ、一番奥の正面の席に、ゆっくりと腰を降ろした。誰も口を開かない。奇妙な沈黙が支配する食卓をゆっくりと見回した後、鳥雅は言った。
「居ないのは四見と五見か…まあいい、起立だ」
清治はさよりを振り向く。
立った方がいいか?
だがさよりは小声で
「んーん私たちはいいの」
と答えた。

鳥雅は確かに、起立、と告げたにも拘わらず、席を立つ者はいなかった。代わりに、四ヶ伍家のきょうだい達はそれぞれ黙って食事に手を付け始めた。その中で七見だけが何事か呟いて手を動かしたのを見て、清治は思わず息を呑む。
飛びやがった、
おそらくは起立の号令で、他のきょうだい達も全員、"飛んだ"に違いない。七見の隣に座った縁のない眼鏡をかけた男が
「七見お前、まだそんなものに乗っているのか…まったく」
と言ったのを聞いて清治はそう確信した。七見が下を向きながら口を尖らせる。
「…そう言う六見兄さんのツバメこそ、羽ツヤが悪いようですが」

席の近い、きょうだい達の部下と思しき数名も食事に手をつけだしたので、清治も高級そうな肉を口に放り込んだが、奇妙な一族の奇妙な食事風景が気になって、よく味わえなかった。
「定期的に飛んでいないから羽ツヤが悪くなる。鍛錬を怠ればそれだけ腕が鈍るぞ、六見」
二見が白ワインを片手に冷たく言い放つ。
「兄さんは飛びすぎだ。ウィンスレットの一族を刺激し過ぎる。余計な諍いを生まぬよう注意して頂きたいですね」
眼鏡の男、六見は細い眼で二見を睨んだ。
「そうよ、爪ばかり研いで、兄さんは怖いわ」
三見子が六見に加勢する。
爪…?
清治は肉をつるりと飲み込んだ。

「お義兄さん、私もよく言われますよ。抗争に気を取られていると足元をすくわれる、とね」
三見子の隣でスープを掻き回していた男が笑みを貼り付かせた顔を上げる。
「一族でない者は黙っていたまえ」
「兄さん!沖尚さんは私の夫よ。部外者扱いしないでよ」
二見が冷たく遮ると、三見子が声を荒げた。
「ふん、兄さんはまるで政治家のようですからね。いや、むしろ軍人か。どちらにせよ野蛮だ」
六見が馬鹿にしたように笑う。つられて吹き出した七見を、顔を上げた鳥雅の眼光がじろりと突き刺した。
食堂の空気が張り詰める。
清治は本能的にスープをすくう手を止めた。

鳥雅が口を開いた。
「七見、」
「はい…父さま」
七見は強張った表情で目の前の皿を見つめている。
いや、
実際は、浮遊する"UFO"に乗って父親の前に畏まっているのかもしれない、清治はそう想像した。
「お前、"流視"をやったそうだな」
「も、申し訳ありません…」
せわしなくまばたきをする七見を、きょうだい達も振り返る。
「お前、それで呼び出されたのか。まったく…」
六見がため息をついた。
「で、ですが父さま、…何故僕だけ"流視"を禁じられるのですか?せめて過去視だけでも許可を頂きたいのです」
七見はテーブルクロスの端をつまみながらかすれた声を出した。

「何故、許可が欲しい」
鳥雅は質問に質問で返し、冷たい無表情でフォークに突き刺した肉をうまくもなさそうに口に入れた。
「あの…仕事で…」
消え入りそうな声で七見は答える。
「過去視と言えども"流視"だ。力のない者が行えば逆方向に流される。お前にあれを許可するのは一族にとってリスクが大きい。流されない自信が有るのか」
尋ねられ、七見は自信なさげな横目で清治たちの方をチラと見遣ってから、しかし、こう答えた。
「と…当然です。父さまの許可が無くたって飛びますよ僕は」
ささやかな反抗。清治は少しばかり驚いた。口をオーの字に開けて成り行きを見守る。

鳥雅は暫く黙っていた。表情は変わらない。対する七見は今にも気絶しそうな様子で冷や汗をかき、細かく震えていた。食器の音だけが響き渡る。やがて鳥雅は抑揚のない声で告げた。
「そうまで言うならば、試して構わないな」
からん、と七見がフォークを取り落とす。
「お父さま、しーちゃんはまだ子供みたいなものなんですから、あまり手荒な事は、」
三見子が口を挟みかけるが、
「いい機会じゃないか。分からせてやるべきだ」
二見がそう遮った。
剣呑な空気。
「…どうなるんすか、これ」
清治は息を殺してさよりに尋ねた。何かが、起ころうとしているのは間違いなかった。

「旗は東京タワーでどうです?末っ子にはお誂え向きのお子様向けの飛び旗でしょう」
六見がニヤニヤしながらそう提案して七見を眺めた。七見は青ざめた顔色で頷くのが精一杯、といった風だった。ガチガチに緊張している。
「良いだろう。開始は50分とする」
鳥雅が目を閉じる。
「姐さん、何が始まるんすか、これ…」
清治はもう一度尋ねた。反射したシャンデリアの明かりのせいで、眼鏡の下のさよりの表情はわからない。口元だけはやんわりと笑みを湛えて、さよりは清治に向き直る。
「"狩り"だねぇ…」
「狩り?」
「何か決めたりする時、この一族がやる伝統行事みたいなものかなぁ」

囁き声でさよりは説明した。
「だんな様の"爪"に捕獲されたり撃墜されたりしないで東京タワーまで飛べれば所長の言い分は通るはず」
「撃墜?…いや、待て、"爪"ってのは何だ?」
清治は横目で二見を視界に入れながら囁き返す。
「爪は普通に、鳥の爪なんじゃない?だんな様が乗るのはフクロウだって話だし」
私も見える訳じゃないからなぁ、とさよりは付け加える。清治はおおよそを理解した。つまりこれは、
"飛ぶ"千里眼同士による、見えない空中戦…、
清治は食堂の時計を振り仰ぐ。
7時47分
開始前から既に七見は泣きそうになっている。清治は舌打ちして席を立った。

「所長、ちょっと来い、話がある」
「…ちょ、」
席を立った清治は、驚く七見の安楽椅子を抱え上げた。
「一族の儀式を妨げるつもりか、君は」
「うっせえ、ちょっと借りるだけだろ。50分までには返す。仕事の話だ」
二見が抗議の声を上げるが、清治は気にせず七見を椅子ごと廊下まで運び出す。
「何するんだ…っ」
足をバタつかせる七見を乱暴にロビーに置いて、清治言った。
「親父に喧嘩売ったのは悪くねぇよ。見直した、マジにだ」
七見の切れ長の大きな目の中で驚きと戸惑いが混じり合う。清治は、殺人鬼も卒倒しそうな狂暴な笑みを浮かべた。
「売った以上、勝ちてぇだろ?」

7時49分。
食堂の席に戻った七見と清治に、二見が怪訝な顔を向ける。しかし口は開かなかった。鳥雅はスープを飲み干し、ナプキンで口元を拭っている。ゆっくりとした動作が、逆に緊迫した空気を加速させてゆく。隣の清治の顔を、さよりが期待のこもった表情で覗き込む。
「アドバイス?」
「…まあ、役に立つかどうかはわかんねーけど」
清治は、ふう、と息をついた。
くそ、俺まで緊張してきたじゃねえか
七見はまだ不安げに俯いている。しかし僅かながら震えが、先程より収まっているようにも見えた。
鳥雅が顔を上げる。
「時間だ」
瞬間、七見の腕が見えないレバーを引いた。

七見の"加速"と同時に鳥雅も動いた。レバーやボタンを操作している様子ではない。鳥雅の手つきは競馬のジョッキーにも似ていた。
「ずいぶん低空飛行じゃないか」
そう笑った二見も他のきょうだい達も、手綱をとるような動作を見せている。
「邪魔しないでもらえますか二見兄さん、」
と、口を尖らせる七見だけが、微かに震える手で見えないコクピットを制御している。
「あいつやっぱりちょっと変わってんだな…」
「そうだよ〜」
清治の呟きにさよりが何故だか自慢げに頷いた。
「四ヶ伍家は代々みんな鳥に乗るって言われてる中でさ、UFOなんて古今一切例がないんだから」

「おい低く飛べば上から狙われるだけだぞ、千里眼に障害物は意味をなさない。分かっているよな?」
併走でもしているのか、優雅な所作で手綱を操りながら六見が茶々を入れた。
「そんな事知っています!気が散るから黙っていて下さい!」
プレッシャーに弱い七見が発したいかにも余裕のない文句の後、さよりは清治に、六見は燕(つばめ)で飛ぶ、と耳打ちした。
「二見お兄様は鷹、三見子お嬢様は白鳥らしいよ。それっぽいよね」
清治は頭の中に、見えない鳥たちの姿を思い描く。
UFOを狙う梟(ふくろう)、鷹と燕と白鳥が、戯れながら成り行きを見守る、
高速の、千里眼の世界。

鳥雅は一言も口をきかなかった。だが、深く刻まれた皺にそぐわぬ鋭い目を一瞬だけ、見開いた。それこそ獲物を狩る梟の目玉のように。
三見子が、あっ、と、悲鳴を上げる。
即座に透明なペダルを踏んだ七見は、架空のレバーをZ字に捌いた。
「お、避けた」
僅かに驚いた声を漏らしたのは、ツバメ。
「フェアじゃないぞ三見子」
鷹が妹を叱る。
「怖かったんですもの」
白鳥は悪びれる様子もない。
「こ…コワイ…コワイコワイコワイ…」
と呟きながら、今にも吐きそうな顔で続けざまにガチャガチャとレバーを切るUFO。その乗組員を見つめて、清治は持っていたスプーンを軽く曲がるほど握り締めていた。

全体として緩やかな調子で動く鳥雅の腕は、時折鋭く引かれ、その度にビクリ、と七見が怯えるように肩を竦める。
「今のは際どい」
「父さま徐々にスピード上げてきましたね」
二見と六見はショーでも楽しむかのように言い合った。
「しーちゃんもうどうせ駄目なんだから降参しちゃいなさいよ危ないわ」
悪気は無いと思われる三見子の言葉だったが、七見は傷ついたようだった。
「ね、姉さん!そういう事言うのやめてくださ…」
言い終わる前に鳥雅が強く手綱を引いた。
「わああ嘘っ!」
七見は泣きそうな声を出す。
「地下からとは、父さまもエグいな」
六見がクツクツと笑った。

地面の下を透過して、梟が突き上げるように襲いかかる。そのイメージは、"見えていない"清治の頭の中にも鮮明に再生された。
「痛ぁあ!」
七見が左目を押さえる。同時に安楽椅子がガクン、と揺れるのが見えて、清治は思わず皿をひっくり返してしまいそうになった。
「あ、あ…機体損傷…まずい…すごくまずい……」
押さえた左目から、つ、と一筋の涙が流れ落ちる。
「これは次で投了だな」
二見が冷酷に言い放った。
次で、
ということは、まだ"捕まってはいない"。
「所長、」
遂に清治は半分椅子から身を乗り出し、
「遊んでんじゃねえ。とっとと殺っちまえ」
口を挟んだ。

食卓が静まる。きょうだい達が不審げな目つきで一斉に清治を振り返った。鳥雅も、僅かに目を眇めて清治に注意を向ける。だが清治自身は七見の手元しか見ていなかった。
ほんの0.2秒、縋るような視線を清治に向けてから、七見は
「し、失礼しました…部下は口が悪いもので、後でよく、」
レバーをきって、
「注意しておきますっ」
ペダルをグッと踏み込んだ。三見子が口をオーの字に開く。
「やだ、正気?しーちゃん、旗は逆方向…」
六見の眉はつり上がった。
「自分から当ててくるつもりか?」
「莫迦なのかあいつは」
微かに驚いた二見の表情を見て清治は心中で、クッ、と笑った。

瞬間的な沈黙が食卓を支配する。遥か離れた空で梟とUFOが、接触、
「接触した?兄さんが邪魔で見えないじゃない!」
三見子が喚く。
「いや、かすめてすれ違っただけ…」
二見が答え終わる前に七見が涙を拭いながら素早くレバーを傾けた。
「背後をとるか、」
しかし六見の予想に反して七見はペダルを踏まなかった。
「うう…しませんよ…兄さんじゃないんですから」
「心掛けは悪くない」
七見の呟きに、初めて鳥雅が返事をした。2人の手元に動きはない。相対して膠着状態となっている事が清治にも見て取れる。
鳥と未確認飛行物体は、刀を抜くきっかけを待っていた。

暫し誰も口をきかなかった。半ば身を乗り出して事態を見守るさよりのフォークから、ステーキが転げ落ちそうになっている。
緊張した七見の息遣いに被さって、柱時計の針が8時を指した。
ボォン、
鳴り響いた第1番目の鐘と同時に、鳥雅が見えない手綱を引く。七見も見えないペダルを踏み込んだ。
「正面衝突などしたらどうなるかは目に見えている」
二見が吐き捨てるように言う。
「さっき、すれ違いで済んだ事を喜び、逃げに徹するべきだった」
「あ、ぶつかる…」
三見子が瞳を大きく開いたその時、
七見の細い人差し指が空中の"何か"を、
押した。
「補助エンジン…点火、」

「嘘、」
三見子が呟いた。
「何、」
六見も声を漏らす。二見の眉間には皺が寄る。そして鳥雅までもが、
「…なるほど」
と口に出した。鳥達が見ているものは勿論、清治には見えない。だが何が起きたのか、清治は知っていた。自然と口角が上がる。
UFOは衝突寸前で直角に上昇し、梟を、飛び越したのだ。そのまま限界まで速度を上げて七見は真っ直ぐに旗、東京タワーに向けて突っ込む。一方の鳥雅は、Uターンしなければならない分、遅れが出た。
「勝負を避けるとは、卑怯者め」
二見の罵声に、七見は加速の風圧に目を細めながら答えた。
「策略、と言っていただきたいですね、兄さん」

「勝負に出る、と見せかけて、一度逆方向に進路を取る、」
左目の涙を拭って、七見は加速を重ねるレバーに体重をかける。
「戦意を感じさせる程度の避け方ですれ違い、Uターンして機体を正方向に戻す。そして再び正面対決を装い、直前で飛び越して突っ切る…判りませんでしたか?全て計算ずくです」
声は緊張に震えていたが、七見は片眉を嫌みに吊り上げてみせた。
「あと8キロ…父さまが追いつくよりも、僕が先に旗に到達しますね」
間に合わない事を悟ったのか、鳥雅は無表情のまま手綱を緩めた。
「…考えたな」
「当然です、」
前方を見据え、七見は告げた。
「探偵ですから」

半分以上俺が考えた作戦だろーがよ
そう思いつつも清治は、この時ばかりは七見の嫌みな嘲笑が小気味よく感じられ、凶悪な笑顔を隠しきれなかった。そしてふと、高慢な兄貴はどんな表情をしているだろうか、と二見に目を移した。
二見は前のめりの姿勢で七見を睨んでいる。清治はその目に何か、違和感を感じた、その時、
二見の腕がグッと持ち上がった。
「ふふん、これで僕の要求は…」
"旗"を目前にした七見がいい気になって吐こうとした台詞は中断した。
「え、」
安楽椅子がガクンと揺れ、
「ちょ、待っ…何す…にゃあああ!痛い痛い痛い!」
七見の目から涙が溢れた。

「痛い痛い痛いとがってるとがってるうう!」
七見の叫び声をかき消すように二見が怒鳴る。
「一族の命運がかかっているんだぞ、お前の好きにはさせん。父さま!今のうちに早く!」
「ひ…ひどっ、…そんなの無し…」
「黙れ。伝統的には異論が有る者はどちらかに加勢してもいい事になっているはずだ、ですよね?父様」
話を振られた鳥雅は相変わらずのポーカーフェイスで冷淡に、
「まあな…」
としか答えず。清治はもはや我慢ができなくなった。二見が七見を"爪"で捉えているのは明らかだ。
「フェアじゃねぇだろ…死ぬか?てめえ」
清治の拳がテーブルに叩きつけられ、グラスが跳ねた。

「君は何が起きているのか正確に把握してすらいないだろう?見えない者は黙っている事だな」
二見は馬鹿にしたようにそう言うと、見えない手綱を引いた。
「あああアンテナとれちゃう!やめてくださいようう!」
七見が泣き声を出す。
「見えなくても判んだよ、てめえが、クソ野郎だって事ぐらい、なァ!」
清治は恐ろしい速さで長テーブルを踏み越えると、二見の胸倉を掴む、
だが直前に二見の部下にその腕を払われた。先刻、二見の部屋で一触即発だった部下である。
「堂島、彼は少々酔っているようだ。客間で休ませてやりたまえ」
婉曲した表現で二見は部下にそう命じた。

承知しました、と答え、堂島と呼ばれた部下が清治に掴みかかる。腕を取られるのはかわした清治だったが、続けざまに繰り出された蹴りを正面から食らってテーブルに突っ込んだ。耳障りな音をたてて皿が数枚割れ落ちる。ちょうど食後の珈琲を運んできた使用人達が悲鳴を上げた。
「てめえが先に手ェ出したんだから、これでセイトウボウエイだよなァ?…」
口元に滲んだ血を拭いながら清治は、悪鬼羅刹の双眸で堂島を睨みつけた。ステーキ皿を持って席から避難済みのさよりが、
「うーん正当防衛、を何か勘違いしてる気もするけどねぇ…」
と呟いたが、勿論清治に聞こえてはいなかった。

ワインレッドのカーペットを蹴って清治は堂島に飛びかかった。その四ヶ伍家から遥か離れた東京タワー上空でも、見えない鳥たちがもみ合い始めたらしく、白鳥、三見子が声を上げる。
「兄さん、しーちゃんが可哀相よ!これは虐待だわ!」
「引っ張るな三見子!これは時期当主として当然の選択だ」
「姉っさん!それは僕も傷つきます!子供扱いはやめて下さい!」
二見と七見が同時に反論した。六見がそこに食ってかかる。
「七見が流視を行うのは私も反対ですが、兄さんが次期当主、とは聞き捨てならない。訂正して下さい!」
「あっ!つつくな!」
「いたっ!」
カシャン、と誰かのグラスが割れた。

「義兄さん、ここは三見子が正しいと思いますよ。当主の資質を疑わざるを得ません…」
「部外者は黙れと言っている!」
"飛べない"三見子の夫、沖尚が口にした台詞に怒りを露わにした二見が、立ち上がって片手でスープの皿をひっくり返した。
「あ!」
頭からスープをかぶる羽目になった沖尚。
「沖尚さんに何をするの!」
三見子が叫ぶと同時に、食堂にグレーのスーツの二人組が駆け込んで来た。おそらく沖尚の部下であろう二人組は、二見を食堂から連れ出そうと両脇から抱え込む。
「勝手に連れてくな!話は終わってねえ!」
堂島にスリーパーホールドをかけながら清治が怒鳴った。

それからはもう滅茶苦茶だった。
「このっ」
「よくもこんな、」
「わああ!」
「離せ!」
「やめて下さーい!」
食卓は罵声、悲鳴の飛び交う惨状と化した。清治や堂島、沖尚の部下たちの乱闘のみならず、見えない鳥を操る者たちの突つき合いも、空中戦と平行して物理的に食卓の食器を投げるなどの凶行に発展した。ただ一人鳥雅だけが、つまらなさそうに席を立つと、腕を組んで奥の部屋に引っ込んで行った。さよりを含む使用人達の説得によって、皆が冷静さを取り戻すまで、四ヶ伍家とそれを取り巻く者達による喧々囂々どころではない争いは、実に30分近くも続いたのだった。

黒い針葉樹に囲まれた夜のコンクリートを、タクシーはひた走る。立ち並ぶ街灯のオレンジ色の光が、一定の間隔をおいて照らす車内で、清治はうなだれていた。
「…やっちまった…志摩ちゃん…姐さん、所長、すまねえ…」
チョークスリーパーで堂島を、沖尚の部下2人を背負い投げ、裏拳で気絶させてしまった清治は、頭を上げられなかった。
「まあ病院送りになるほど大怪我させた訳じゃないんだから、大丈夫だよ」
助手席から振り返ったさよりはそう慰めたが、七見は口をつぐんで、濡らしたハンカチで両目を押さえていた。泊まる予定を取りやめて屋敷を後にしてから一言も口をきいていなかった。

何故抑えられなかったのか、暴力でしか対抗できない自分に清治は酷く失望していた。
結局、俺は何一つ学んでねえ、償いなんか、できるわけがねえ
俯いたまま溜め息をついた清治の顔をオレンジの光が横切る。
「所長…俺、…クビか?」
ハンカチに覆われた七見の目にはきっと、失望か怒りの色が宿っているに違いないと清治は思った。だから数秒してから七見が言った、
「…別にクビにはしない」
という言葉に少しばかり驚いた。
「待っ、いや、いいのかよ、食卓滅茶苦茶に…」
「いい」
か細い声で七見は告げた。
「僕はあの家に二度と足を踏み入れるつもりはない…もう、他人だ」

返す言葉の見つからない清治をよそに、七見は乾いた笑い声をあげた。
「僕はもう理解した。認めてもらえるチャンスが僅かでも在るかもしれないなどと期待するのは愚かなことだ、と」
オレンジ色の光に斑に照らされた探偵の声は震えている。
「少し考えれば判ったはずなんだ、あの一族が僕を必要とした事が今まで一度だってあったか、それを、考え、れば…」
「所長、」
さよりが慰めるように振り返る。清治は窓の外に視線を移した。ハンカチの下から落ちる涙を見るのは悪いような気がした。
「何の感傷も、ない…家族など、こちらから、願い下げだ、二度と、」
その先は嗚咽に溶けた。
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