飛ぶ探偵 05

flight-05
四ヶ伍七見は名探偵

悲惨な里帰りからおよそ2週間、七見はずっとふさぎ込んでいた。猫を捜す仕事が2件と、カメレオンを捜す仕事が1件入ったが、七見は依頼人と顔を合わせようとすらせず、全ての応対はさよりと清治がこなす羽目になった。何とかなだめすかしてカメレオンだけは七見に"飛んで"捜させたが、結局猫は2匹とも清治が張り紙と聞き込みで情報を募って見つけ出した。最初は気の毒に思っていた清治も遂に我慢の限界に達し、今まさに文句を言おうと口を開きかけたその時、
唐突にそれはやって来た。
「あの…た、探偵事務所は、こちら、でしょうか…」
扉から顔を覗かせたのは若い女だった。

「いらっしゃいませ~」
お茶と共に爽やかなスマイルを披露したさよりに弱々しい会釈を返した依頼人は、清治の顔を見て一瞬ビクリと肩を震わせたが、
「本日はどのようなご相談でおいでですか~」
と柔らかく尋ねるさよりに解されて、怖ず怖ずと口を開いた。
「…あの…ちょっと変な事なので…無理だったらあの、大丈夫なので…すみません、えと、」
「大丈夫ですよ~。ハムスターでもカメレオンさんでも、100%の実績を誇っております」
「あ…そ、そういうのではなく、あの…ある人を、調査して頂けないかと…」
途端、アコーディオンカーテンの向こうで七見がカップを取り落とす音がした。

「えーっと…では、お話を伺う前に…」
チラチラとアコーディオンカーテンの裏を気にしながら、さよりはわざとゆっくり喋る。その間に慌てて髪を撫でつけ、ループタイを整え終えた七見が、滑り込むように姿を現した。
「これは失礼、別件でいささか取り込んでいたものですから」
「え、」
戸惑った表情の顔を上げた依頼人に、どこか不思議な妖しさを湛える整った笑顔を向けた七見は、
「所長の七見です。ご安心を。どのような事件でも、この僕が必ずや解決に導いてご覧に入れますよ」
と囁いた。ペット探しの依頼でないと判った途端の七見のあまりの豹変ぶりに、清治はこめかみを押さえた。

ペットではない、"人間"に関する依頼がよっぽど嬉しいのか、七見の頬は微かに上気していた。落ち着いた態度を装ってはいるが、相当興奮しているに違いなかった。
「さあどうぞお話しください。窃盗ですか?それともまさか殺人事件だすか」
ま、真顔で噛みやがったこいつ…
噴き出しそうになった清治を、七見が咎めるように睨む。
「落ち着け所長、依頼人困ってんだろ、まず座れ」
清治にたしなめられ、七見は咳払いをひとつするとようやくソファに腰を降ろした。
「あ…あの…良いですか、喋っても…」
「勿論です」
長い前髪を弄りながら、依頼人は相談の内容を語り始めた。

依頼人は、野上美雪と名乗った。隣接するT市に在る広告代理店で事務として働いているという。
「私、3ヶ月ほど前に、その…指輪を無くしてしまったんです。大切にしていた物だったのですが、あの、不注意で…」
ああ、それを捜して欲しいという依頼なのだな、と清治は考え、横目で隣を窺うと、案の定七見は失望のこもった息を吐き出し
「いいですか、野上さん」
と冷酷に細めた目を依頼人に向けた。
「僕は探偵なのですよ。失せ物探しだったら他をあたってくれま、む、」
「気にすんな、続けてくれ」
七見の口を塞いだ清治の素早い動作に、野上美雪の肩が再びビクリと揺れる。

ところが、事情は清治や七見が思っていたのとは少々違っていた。野上美雪の口から続いた言葉は、2人にとっては意外なものだった。
「実はその、指輪、私がなくしてからすぐ、会社で同じ物を身につけ始めた方がいまして…その、多分、私の勝手な思い込みだとは思うんですが、」
清治の手を何とか引っ剥がし、七見が身を乗り出した。榛色のガラス玉のような目が、窓の外の曇り空の白い光を映して輝く。
「彼女が偶然同じ物を買っただけかも知れないです…でも、気になってしまって、」
「盗難かどうか、事実を確認したい。そうお思いなのですね」
七見の言葉に美雪は頷いた。

「なるほど。しかし何故、その方に直接尋ねなかったのです?どこで買ったのかぐらいお尋ねになっても良いのでは」
七見に訊かれ、美雪はたじろいだ。耳が赤く染まっている。
「わ、私…会社でも、人と話すの苦手で…、その方というのは、社員ではあるのですけど、あの、社長の娘さんでもあって…聞こうとしてはみたんですが、どうしても、その、」
事実がはっきりしないうちに、"盗ったのではないか"と疑っている事を悟られようものなら、野上美雪自身の立場が危うくなる可能性もある。
もし盗難だったらタチが悪ィな。
清治は腕を組んで気の弱そうな依頼人を眺めた。

七見は勿体ぶった仕草で、美雪の伏し目がちな瞳を射抜くように覗き込んだ。
「では、事は全て秘密裏に行って欲しいという訳ですね」
「は…はい、」
「良いでしょう。西江、何か書く物を寄越してくれたまえ。野上さん、指輪の詳細を描いていただけますか」
先ほど噛んだ事などどこへやら、七見の一挙手一投足は映画に出てくる気障な探偵そのものだったが、美雪の方はそれに感服した様子で見とれていた。身長の低さにさえ目を瞑ればそのような所作の映える男である。珍しくも七見より小柄な美雪の目に、彼が有能な探偵然として映ったとしても不思議ではなかった。

美雪の拙い絵でコピー用紙に描かれた指輪は、兎を模した細工の施してある凝ったもので、目の部分に小さなオニキスがはめ込んであるという。
「可愛いですねえ」
さよりが顔を綻ばせた。
「彼氏さんからの贈り物ですか?」
「…あ、……は、はい、」
再び耳を赤くした美雪は解説を加える。
「去年、S県に出掛けた際に観光地の小さな工房で彼が買ってくれたもので…、他にも猫やオカピなんかの指輪もあって、ちょっと他にはないタイプのお店でした」
「オカピ!」
さよりが目を輝かせる。
「何だそれ」
と尋ねた清治に、七見が嘲笑混じりのため息をついた。
「オカピも知らないのか、君は」

「指輪をなくしたのは3ヶ月ほど前のことです。仕事中は付けていないのですが、彼と会う時は必ず付けるようにしていたので…その日も会社が終わった後に彼と約束があったものですから、小物入れごと朝から鞄に入れて会社に持って来ていました」
その夜、待ち合わせ場所に向かう前に会社の更衣室で小物入れを開けて初めて、指輪が無い事に気付いたのだ、と美雪は語った。
「家を出る時には指輪はありましたか?」
さよりにメモをとらせて、七見は質問に専念した。
「わかりません…小物入れを開けて見なかったんです。ですからそれ以前になくしていた可能性もあります」

「その小物入れってのは他に何入れてんだ」
本棚の動物図鑑をめくりながら清治が口を挟んだ。
「あ…あ、チョーカーとか、付け爪、イヤリングを入れていました」
若干震えながら美雪が答える。
「なかったのは指輪だけなのか?」
「は、はい…」
どうも美雪は清治を怖がっているらしい。
「君は全体、紳士的な態度に欠けているんだ。黙ってオカピの謎でも追っていたまえ」
七見は嫌みったらしくそう告げると美雪に先を促した。
「それで、同僚の方はいつから同じ指輪を着け始めたのですか?」
「彼女が指輪をしてきたのは、私が指輪をなくしたと気付いてから1週間後の事でした」

美雪は社員旅行の写真を取り出した。
「真ん中の社長の隣に座っている方が彼女、香月麗奈さんです」
写真の中の香月麗奈は、髪を明るい茶に染め、華やかな化粧をして微笑んでいた。
「あまり話したことは無いですが、私なんかとは全然違って、お洒落でとても明るい方です」
「何か変わった様子はありませんでしたか」
七見にそう問われた美雪は、少し沈黙してから
「あ、…ありません…」
あからさまに動揺した表情で答えた。七見は腕を組み替えながら細い眉をわざとらしく顰めてみせる。
「野上さん。解決なさりたいのであれば正直に全てをお話しいただかなくては」

「ど、どうして、」
「僕に見えないものなど無いのですよ」
自らの台詞に陶酔しきった七見の様子にさよりは笑いをこらえ、清治は呆れた。
どうしても何も、思い切り顔に出てるって奴じゃねえか。
しかし美雪は
「名探偵に隠し立ては出来ないという訳ですね…」
うなだれ、意を決したように話し出した。
「実は…これは私の思い込みだと思うので、ほんとにただの被害妄想だと思うんですが…香月さんは私に指輪を見せるような仕草をしているように感じるんです」
「…なるほど」
意味ありげに頷く七見。清治は、一体これは何のドラマだ、と思わずにはいられなかった。

「指輪が貴女のものであると確認できる方法はありますか?そうですね、例えば、シリアルナンバーのようなものだとか」
次に七見がそれを尋ねると、美雪は視線を落として黙ってしまった。
「無い、ですか」
「す…すみません…リングの内側に何か番号が刻まれていた気もするのですが、覚えていないんです」
縮こまって、美雪は何度も頭を下げた。
「すみません、すみません、無理ですよね、そういうのが無ければ私のものかどうかなんて、」
個体を識別する手がかりが無いとなると、いくら千里眼でもどうにもならないのではないか。
どうすんだ所長、と清治は七見に目線で尋ねた。

「あの…変なお話をしてしまってすみませんでした、忘れて下さい、」
「まだお帰りになられては困ります」
席を立とうとする美雪を制止した七見の顔に、不敵な笑みが浮かぶ。
「ご住所と連絡先をお伺いしても?それから会社の場所、指輪のサイズもお聞かせ願いますか」
「引き受けていただけるのですか!?」
美雪は吸い寄せられるように七見の眼を見つめて固まった。
「勿論です。貴女、運がいいですよ、僕の所に来て正解だった」
なんでそうやってハードルを上げるような事を言うのか。非難がましい表情でこめかみを押さえる清治を無視して、七見は演出的に腕を組み替えた。

幾つかの質問に答え、必要な書類にサインを終えた野上美雪が事務所を後にしてから、清治は直ぐに七見に尋ねた。
「お前、あれだけ言ってのけたって事は、指輪盗ったかどうか確かめる方法あるんだろうな?」
「僕を何だと思っているんだ君は」
七見は片眉を歪めて不快感を顕わにした。
「見に行けば判るに決まっているだろう」
以前、"過去"を遡って、手紙の続きを再現してみせたように、七見は"指輪のなくなった日"を飛んで見てくるつもりなのだと清治は気付く。
「親父や兄貴は、いいのか」
「関係ない。もしまた呼び出されたとしても僕はもうあの家に行くつもりは無い」

家族の居ない所では気が大きくなるらしく、
「僕の行動の決定権は僕自身にある」
などと威勢の良い台詞を口にする七見であったが、一方の清治はどうにも嫌な予感がしてならなかった。セキセイインコの件で、四ヶ伍家の言うところの"流視"を行った時の事を思い出すにつけ、とりわけ清治にとって印象的だったのは止めどなく流れ落ちる七見の涙であった。野上美雪が指輪をなくしたのは3ヶ月も前の出来事。インコの件で遡ったのがせいぜい3日として、果たして七見はそんなに長く飛べるものだろうか。
一瞬、四ヶ伍家で目にした長男の姿が脳裏をよぎり、清治は微かに身震いした。

さよりにタオルを用意させ、意味があるのかないのか不明なヘルメットを被り、準備万端かに思えた七見だったが、安楽椅子の上で数回深呼吸を繰り返した後、唐突に
「そこじゃない」
と声を上げた。
「あ?」
何を言われたのか分からずキョトンとする清治に、七見は人差し指を突きつける。
「動物図鑑は、その棚じゃない。ちゃんと元の位置に戻してくれたまえ。気になるんだ、集中できない」
言ってから、ふう、と息を吐き出して一度眼を閉じ、今度こそ飛ぶのかと思いきや、再び
「何かそこの机ずれてないか?」
と眉間にしわを寄せた七見の姿を見て、清治の不安はいよいよ増してきた。

「おい…大丈夫かよお前」
「何が」
たまらず口を挟んだ清治に、七見はピリピリした視線を返した。
「いや、3ヶ月も前まで飛べんのかって」
「飛べもしないくせにいつからそんな知ったふうな口をきくようになったんだ?」
語調に冷たい怒りを滲ませた七見は、しかし、
「うーん…所長、私からも申し上げます。一週間以上前まで飛んだ経験がおありでないのに、いきなり3ヶ月は危険かと」
というさよりの言葉に硬直した。
「すみません、何かあった場合、旦那様に申し訳がありませんから」
「……」
「…おい、」
清治が揺すっても反応が無いほど、七見は衝撃を受けていた。

七見はひどく打ちのめされた様子で、ようやく出した言葉はかすれていた。
「西江までそんな事を言うのか…」
「申し訳ございません坊ちゃま」
珍しく、さよりも心底すまなそうな表情で頭を下げる。
「所長の推理力ならば、"流視"を行わずとも充分解決できる事件ですよ。ね、南武くん、そうだよね」
「は!?あ、いや、そうだな。アレだ、明日俺が材料集めて来るから、お前ならそっから推理できんだろ、名探偵なんだろ、ほら」
さよりが止めるぐらいだから相当危険なのだろう。やはり自分が何とかして事件を解決するよりほか無いようだ、と理解し、清治は心でため息をついた。

半泣きでいじけた七見のテンショをなんとか上げようとおよそ2時間もおだてたりなだめたりしたにも拘わらず、翌朝、事務所に七見の姿は無かった。出勤した清治に、さよりが開口一番
「眠れなかったから今日休むって」
と報告した。
「…やっぱり」
予想通り発揮された七見のメンタルの弱さに清治はこめかみを押さえた。
「かなり落ち込んでたもんねぇ…悪いことしたなぁ」
気にしているのか、若干、さよりも元気がない。
「仕方ねえす、あいつが一番上の兄貴みたいになる可能性があるってんなら止めて正解だ」
清治が言うとさよりは驚いて振り返った。
「え。一見様のこと?」

さよりは、清治が眠れる長男について当主の鳥雅から聞いていたと知り、意外そうな顔をした。
「え~旦那様が…。そっかそっか」
何度か一人で頷いてから、さよりは、常に笑ったような目を清治に向けた。
「じゃあ南武くんは所長が眠ったままになっちゃうかも、って思ったんだね」
その言葉に今度は清治が戸惑った。
「え…。違ぇの?」
「んーん、違うくはないんだけど、」
さよりは開けた窓に寄りかかるようにして、
「…ね…所長はああいう子だからねぇ、ほんとは飛ばしてあげたかったけどねぇ…」
清治には本質をよく理解できない言葉を、少し淋しげな調子で呟いた。

さよりの呟きには、何か含むところがあるように思われたが、
「さあさあ。じゃあ、とりあえず野上さんの会社に行って、香月麗奈の様子を見てこようじゃないかー」
と、急かされ、清治は追求を諦めた。今、何より優先してこなすべき問題は、あくまでも野上美雪の依頼の解決である。
七見の過去視が不可能である以上、一体どうすれば指輪が盗品かそうでないか見極めることが出来るだろうか?
後ろにファイルを持ったさよりを乗せて自転車を漕ぎながら、清治は頭を切り換えて、方法を考え始めた。少々風はあるが天気は快晴。足を頼りに地味な捜査をするには向いた日だった。

野上美雪の働く、"ムーンカンパニー"は広告代理店である。建物はさほど大きくないが、市内の野暮なビルの中ではやや垢抜けたデザインで、中小企業にしては羽振りは良いようだ。電話帳にも大きく広告を載せている。
清治たちは、ちょうど会社の向かい側に位置するファミリーレストランに入った。2階の窓際の席に陣取って、先ずは作戦会議がてらに、そこから双眼鏡で、社内の香月麗奈の様子を観察する事から始めた。
何かヒントになる行動は無いか。成果の期待できる捜査方法とは言い難かったが、何もしないよりはマシだ、と自分に言い聞かせ、清治は双眼鏡を覗く。額の傷が隠せるのは救いだった。

「おお…探偵っぽい、探偵っぽいよ南武くん!どうどう?何か見えた?」
俄然テンションの上がってきたさよりに、つられて少しばかりその気になってきた清治は、
「姐さん、香月麗奈の写真もっかい見してくれ」
野上美雪から預かった写真と見比べ、やはりと頷いて双眼鏡をさよりに手渡す。
「右奥の、多分あれァ社長だな、あのハゲの机ん所で喋ってる女。あれがそうっすね」
「おお!うん、うん、笑ってるね、あ!指輪ってあれか。結構でかいけど。窓際の一番端は野上さんかな?」
野上美雪は、香月麗奈とは対照的に、パソコンのモニターに隠れるようにしてひっそりと独りで作業をしていた。

明るく、しかも社長の娘であるという香月麗奈は、一見、指輪を盗む動機があるようには思えない。目的は真実を確かめる事にあるのだから、野上美雪の証言だけを鵜呑みにせず他の社員たちにも香月麗奈の評判、3ヶ月前に何か変わった様子は無かったか、など尋ねてみるべきだろう。清治が考えをめぐらせているところへ、店員が注文の品を運んできた。
「お待たせいたしました。カフェラテと、珈琲、パンケーキになります」
厨房の方で他の店員が数人固まって遠巻きにこちらを眺め、何事か囁き合っている。犯罪だのヤクザだのという物騒な単語が聞こえた気がして、清治は舌打ちした。

憶測に過ぎないのは判っているが、自分のことを言われているとしか思えず、清治はフードを目深に被り直した。社会から疎外されているような、周りが自分に悪意しか抱いていないような、時折そんな気分になる。
まあ俺の場合は自業自得だが…
清治は、デスクに俯いて黙々とキーを叩く野上美雪の姿を目で追った。やはり、被害妄想という可能性も考慮すべきだろうな、と考えつつ清治はブラック珈琲をすすった。
パンケーキを頬張りながら
「フード被んない方が格好いいのになあ」
と言うさよりの台詞に、清治の心は、少しほぐれる。
「姐さんがいて良かった」
思わず口に出していた。

パチクリと音が聞こえそうなさよりのまばたきを前にして、清治は自分が口にした言葉がどういう意味をもって伝わった可能性があるのか気づき、慌てた。
「あ、…いや、悪ィ、別に特別な意味があったわけじゃねえから、今の、」
「いやいや、うん、それはわかってるから大丈夫、うわ何かこっちこそごめん、意味深っぽかったよね今のまばたき。ごめんごめん」
さよりは笑顔でそう言ったが、清治の手には逆に妙に汗が滲んできた。
くそ、これじゃ余計怪しいじゃねえか俺
舌打ちして視線をテーブルの下に移した瞬間、ポケットの携帯が鳴りだした。ディスプレイには、所長、と表示されている。

「おう、何だよ」
電話に出た清治に、七見は刺々しい声を浴びせた。
「僕の居ない間にレストランで何か食べた事は、許そう…だが事務所を離れるなら書き置きぐらい残したらどうなんだ!何処へ行くとか何時に戻るとか、」
「あ?お前事務所来たのか?今日休むって言ったんじゃねーのかよ」
「い、言ったが、でも来るかもしれないとは思わないのか!?せっかく出て来たのに、いきなり誰も居なかったんだぞ!」
無人の事務所に立ち尽くす七見の姿を想像して清治は少し気の毒になった。
「分かった分かった」
言ってから清治は、七見が"さっきの"様子も見ていたのかが気になった。

「つうか、お前さ、いつから見てた?会話とか、」
恐る恐る尋ねかけた清治の言葉を遮るように、七見は答えた。
「さっきだ。別に唇を読んだりしていないぞ。君たちの話などに興味はない。それよりも野上美雪の事だが、明らかに社内で孤立しているな。あれでは盗難の事実を知っている者がもし居たとしても、簡単に口を割らないだろう」
話が変わった以上、追求するのも気が引け、清治は窓の外に視線を遣り、黙って頭を掻いた。
「昔、君が僕の上履きを捨てた時も誰も何も言わなかったからな。構図としては同じかも知れない」
そう付け加えた七見の声は冷ややかだった。

「香月麗奈は社長の娘で、言ってみれば社内の権力者だ。指輪を盗む理由は単なるいじめだな。ありそうな話じゃないか、そうだろ清治」
そう決めつける七見に、清治は異論もあったが、暗に昔の仕打ちに対する皮肉も込められているのがわかって、
「可能性の話だろ、」
と言うに留めた。そうしてさよりには他の社員にそれとなく聞き込みをしてもらい、自分は指輪の店に行って、同じ指輪がどれくらい作られているか調べてくるつもりだと手短に計画を述べ、
「所長は香月麗奈の指輪を細かく調べとけ。依頼人が言ったのと違いがねぇかどうか。頼むぜ」
と電話を切った。

「じゃあ私は、聞き込み係ってことでいいんだね」
携帯を閉じて振り向いた清治に、さよりはそう言って微笑んだ。
「ああ…うん、頼みます。俺今から指輪の店行って来っから、終わったらタクシーとかで、先、事務所戻ってて下さい」
清治は下を向いてそう答えると、珈琲代を机に置いて席を立った。
「行ってらっしゃーい気をつけてね」
背中越しにさよりの声を聞きながら清治は、フードを被り直した。柔らかなさよりの声が、まだ肩の上に乗っかっているような気がして、清治はこめかみを押さえる。
深呼吸、ひとつ。
あるわけねえだろ、と小さく呟いて自転車に飛び乗った。

駅前の駐輪場に自転車を止めて、そのまま電車でS県に向かう。片道2時間程度で到着する比較的近場の観光地である。電車に揺られる間中、清治は腕組みをして考えに没頭していた。若干怯えた乗客が、清治の周囲に空間をあけている。
本当は指輪について考察しようとしていたのだが、清治の思考を支配するのは、さよりの事だった。
面接で初めて事務所に来た時から、好感を持っていたのは確かだが、それ以上のものは無いはずだ、と、清治は確かめるように文章で言葉を思い浮かべる。
恋愛感情じゃねえ。
絶対だ。
ありえねえ。
何度も反復すると少し落ち着いてきた。

清治はリズムを刻む電車の音にしばらく耳を傾けた。そうして目を閉じていると、冷静になることができた。
やはり、さっきの会話を七見は聞いていたのだろうな、と清治は思う。七見とさよりとの関係がどういうものなのか、清治にはよく判らない。しかし、七見がさよりに依存する部分があるのは日を見るよりも明らかな話だった。実際付き合っているのかどうか、とは別次元の問題として、七見にはさよりが居ないと駄目なのだ。
清治はやけに攻撃的だった七見の口調を思い出し、ため息をついた。
別に姐さんを取り上げたりしねえっつうの。
そんな事、できるわけが無い。

日が南中を過ぎた頃、電車は目的地に到着した。平日の観光地は人もまばらである。清治は、野上美雪の言っていた銀細工の店をすぐに見つけた。ログハウス風の入り口をくぐると、木製の台の上に様々な装飾品が並んでいる。1階が店、2階は工房になっているようだった。
「おい」
呼ぶと、微かに強張った表情で店員が慌てて姿を現した。
「はっ!い、いらっしゃいませ!」
「うさぎは」
真顔で尋ねた清治の前で、高校生のような若い風貌の店員は一瞬吹き出しそうな顔をしてから、しまったと青ざめ、
「はああはいっ!リングとアンクレットがございますがどちらをお求めで!」
早口で答えた。

指輪を持ってきた店員に、清治は礼を言って事情を説明した。
「悪ィけど買いに来た訳じゃねえんだ、仕事でちょっと調べたい事があってよ、これ、うちの所長の名刺なんだが、」
"探偵"と口に出すのが少し気恥ずかしく、清治は七見の名刺を店員に手渡した。
「探偵、ですか!」
店員はまじまじと名刺を見つめた後、少し肩の力が抜けた様子で
「すげえ…何かの事件ですか!?」
と訊いてきた。
「守秘義務って奴で言えねえが、別に大した事件じゃねえ」
「そっか~。いいすよ何でも協力しますよ!」
店員の言葉に清治は、ああ俺"まともな"職業につけたんだな、と実感した。

野上美雪が図に描いたものと全く同じ型の、オニキスの目を持つウサギの指輪を手にとって眺めながら、清治は店員に幾つか質問をした。店員は気持ちよく何でもすぐ答えてくれて、
ウサギの指輪は去年から生産し始めたものであること。リングの内側の番号と英文字は業務上の整理番号に過ぎず、シリアルナンバーではないため、同じ番号のものも複数存在すること。などが判明した。
「職人を特定する番号、作業年度と月、リングの号数、最後に受注生産かそうでないか区別する英文字、OかNのどっちかが入ってます」
店員は、売れ筋の商品だから、月10個は作っているはずです、とも付け加えた。

リング裏の番号がシリアルナンバーであれば、野上美雪が一部分でも記憶していないかどうか清治はもう一度確かめるつもりだった。しかしそうでないと判った以上、無意味である。最後に店員に香月麗奈の写真を見せてみたが、
「3ヶ月前すか!?…えぇ…どうだろう…ううん…覚えていません」
成果は無かった。諦めて帰ろうとした時、ふと陳列棚に貼られたポップが目に入り、清治は立ち止まった。
珍しいオカピリング特価
「これか、オカピ」
馬とシマウマのハーフのような奇妙な動物が象られている。
「お買い上げですか?」
「いや…いい」
悪かったな、店邪魔して、と頭を下げ、清治は店を出た。

清治が事務所に戻る頃には7時を回っていた。辺りはとうに暗くなっている。下の階の"折原式姓名霊視研究所"は既に明かりを落とし、人の気配が無かったが、意外にも七見探偵事務所の電灯はついたままだった。七見もさよりも帰ったと思っていた清治は、軽く驚いた。
「おかえりー」
「遅い。普通、鉄道というものは効率的な乗り換えを計算してから利用するものじゃあないのか?」
扉を開くと、珈琲を飲んでいたさよりと七見が同時に振り返る。どうしてかその時、清治は一瞬、怖いような切ないような、奇妙な感覚を味わった。なくすのが怖い、そう思ったのかも知れなかった。

「で、どうだったんだ。わざわざS県まで出向いて何も手がかり無しって事はないだろう?」
意地の悪い問い方をした七見は、
「いや…大して手がかりになるようなモンは無かった」
という清治の返事を聞くと、ガッカリするどころかここぞとばかりに見下した態度で安楽椅子にふんぞり返って片眉を上げた。
「困ったものだ。君はもう少し、この僕の助手だという自覚を持って仕事をしてくれたまえ」
「うるせえなしょうがねーだろ。ねぇモンはねーよ。そっちは何かあったのかよ」
「そうだねえー」
清治がこめかみを押さえつつ尋ねると、珈琲を差し出しながらさよりが口を挟んだ。

「それが、なんだかなんだかなぁな話なんだよ」
会社の昼休みを狙って、野上美雪の同僚女性に近付いたさよりは、占い師を装ってそれとなく社内の人間関係に何か問題がないかとカマをかけ、更にそれを話題にした給湯室での社員達の会話を七見に読唇させるという方法で、香月麗奈と野上美雪の関係を探り出していた。
「僕の言った通りだ。香月麗奈を中心とした派閥が存在していて、その連中が野上美雪への風当たりを強めている、というのは紛れもない事実だった」
七見が口を出す。
「どうもねー直接の原因は嫉妬っぽいんだよ」
そう言ってさよりは少し眉尻を下げた。

「不釣り合いだとか、さっさと別れないからだ、とか何とか、ドロドロしてたなァ」
要するに、香月麗奈は野上美雪の恋人、つまり指輪の贈り主の男に横恋慕しているようで、それが原因で野上美雪への"いじめ"に発展しているのだろう、と、さよりと七見が代わる代わる説明した。
「尤も、それ以外にも原因が無い訳じゃない。野上美雪も、昼休み中ずっと音楽を聴いていて一言も喋らない、というのはどうかと思うね、僕は」
腕組みをしながら述べた七見を見ながら、そういえばコイツは虐められても喋っていたな、と清治は思い出した。他人を見下した言動ばかりではあったけれども。

「とにかく、だ。派閥が存在するという事は、きっと指輪を盗んだことを知っている者がいるはずだ。悪事の共有化はこの手の奴らの性だからな。香月麗奈が取り巻きの誰かにやらせた可能性もある。どこかの誰かと同じく、」
お前も子分を使って僕のランドセルをサッカーボール代わりにしたよな、と言わんばかりに、七見はじろりと清治を見た。ちくちくと突き刺さる視線に、清治はうなだれる。
まだ機嫌悪ィのかよ…。
やはり、さよりとのことが原因だろうか、と思ってから清治は、ふと、ある事に気がついた。
「つーかよ、香月麗奈が嫉妬するってことは、指輪の男は同じ社員って事か?」

「うん多分、そう。今日は外回りで居なかったけど、専務、とか、津川専務、って言われてたのが野上さんの彼氏なんだと思う」
珈琲を一口飲んでからさよりが答えた。
「同じ会社に居るのに、そいつ何も言わねーのかよ、何か言うだろ、普通。てめぇの女がなくした指輪と同じモンしてる奴がいるんだぞ」
呆れた声を出した清治に、さよりもうんうん、と相槌をうつ。
「変だよね。野上さんも、彼氏に頼んで訊いてもらえばいいよね、その指輪どうしたの?って。何でわざわざ探偵事務所なんか来ちゃったんだろうね?」
何かがひっかかる。
清治はデスクの上のファイルを手にとって開いた。

ファイルに書かれた電話番号を指でなぞり、電話をかけ始めた清治に、七見が言った。
「おい、どうだっていいじゃないか。男が鈍感なだけだ。それとも何か、その、彼氏が指輪を盗んだとでも?どういう発想だ、君は漫画家にでもなるつもりか?」
「うっせえな、黙ってろよ」
数回のコールの後、電話口から野上美雪のか細い声が聞こえてきた。
「…はい」
「おー、俺、七見の事務所のモンだけどよ、」
「お前、それ何か別の事務所みたいに聞こえるじゃないか!」
「あ?何がだよ…いや、悪ィ、こっちの話だ。あんたに訊きたい事があってよ」
七見の横やりを流した清治はいきなり本題に入った。

清治はなるべく静かな口調で尋ねる。
「指輪をくれた彼氏ってのは同じ会社の専務か?津川って奴」
さよりが手を伸ばして電話のスピーカーホンのボタンを押した。
「はい。そうです」
電話の向こうの野上美雪の、身構えるような硬い返事が事務所に響き、七見がぴくりと片眉を上げる。
「名前と連絡先を訊いてもいいか?幾つか確認したい事がある」
「…津川渉(わたる)です、あの…連絡先、どうしても必要ですか?」
「言いたくねーなら構わねえけどよ…なんでだ?もしかしてあんた、指輪の事、そいつに相談してねえのか?」
清治の語調は静かだったが、野上美雪は黙ってしまった。

暫しの沈黙の後、野上美雪は答えた。
「すみません、実は彼、私が指輪をなくした事をすごく怒っていて…3ヶ月前のあの日から、あまり連絡も取っていない状況なんです。探偵事務所に依頼したことも伝えていません…」
心の狭い男だな、と七見が呟く。清治は、黙ってろ、とジェスチャーをして、続けた。
「香月麗奈が同じ指輪をしていた事について、津川は何も言ってこなかったのか?」
「はい…外回りが多いですから、きっと気づいていないのだと思います」
「しかも鈍感、良いとこなしだな、僕が女性ならこんな男とは絶対交際しないぞ」
七見が再び小声で余計な口を挟んだ。

「あの…探偵さんに依頼した事とか、香月さんが指輪をとったかも知れないとか、彼に言わないで欲しいんです、お願いします、きっと彼…怒るから、」
そう付け足した野上美雪に、清治は眉間に皺を寄せながら
「あんたの依頼だって事は極力バレねえようにしとくよ」
と返して電話を置いた。置いてから、ため息をひとつ吐く。
「くそ、わかんねえ」
確信を持って言える事は何一つ無い。だが清治は、紛失してから3ヶ月、野上美雪と津川渉との間に指輪に関する相談がない事が、どうしても不自然に感じられてならなかった。
何かある、
津川渉に、ではない、寧ろ野上美雪に、だ。

「何を悩んでるんだ君は。全ての事柄は一つの事実を示している、違うかね?」
こめかみを押さえて考えをまとめていた清治に、尊大な態度で椅子に寄りかかった七見が告げた。清治は眉間に皺を寄せたまま振り返る。
「マジで言ってんだろうなお前、変なボケとかいらねぇんだからな」
「ああ…謎はすべて解けた…簡単だ、指輪を盗んだのは津川渉だ。彼は交際相手を野上美雪から香月麗奈に乗り換えたんだ」
七見にしてはまともな意見かも知れなかった。が、
「それが何で指輪を盗む理由になるんだ?」
という問いに七見が出した答えを聞いて、清治は絶句した。
「リサイクルだ」

「つまり、津川渉は香月麗奈に贈るプレゼントを買う金が無く、彼の中では既に過去の女である野上美雪に以前贈った指輪を盗んで再利用した、訳だ」
自信満々に言い放つ七見の前で、清治とさよりは顔を見合わせる。
「2万程度の、ダイヤも使ってねえ銀細工の指輪を?そこそこ儲けてる会社の専務が、か?」
「……」
清治の疑問に答えられず、立てた人差し指を黙って戻した七見に、さよりが慌ててフォローを入れた。
「可能性としてはあると思います」
「けどよ、オーダーメイドの高級指輪ならまだしも、観光地の…」
言いかけた清治は忘れていた事を1つ思い出し、
「あ」
と声をあげた。

「何だ」
「そういやお前、香月麗奈の指輪、裏の番号調べたか?」
怪訝な顔をした七見に、清治は尋ねた。
「シリアルナンバーか?まあ指輪の裏を見るなど僕にとっては雑作もない事だからな、一応見ておいてやったが、あれは野上美雪が覚えていないのだから証拠にはならないだろう?」
「シリアルナンバーじゃねぇんだよ。手がかりになるかはわかんねーが、何番だった?最後の英字は?」
「西江、」
呼ばれた時には既に手帳を開いていたさよりが答えた。
「9081209・O、でした」
清治は店員の言葉を思い出す。そして、
「…マジかよ」
と呟いた。七見が口を尖らせる。
「絶対だ。僕が見たんだぞ」

9081209・O。店員によれば英文字はorderのO。香月麗奈の指輪はオーダーメイドであるという事になる。観光地で店に行き、その場で買ってもらったという野上美雪の話とは食い違う。更に製造年月、最初の9は製造者番号、末尾の09は指輪の号数であるから、香月麗奈の指輪が作られたのは昨年の12月、つまり今から3ヶ月前もしくはそれより後となる。いずれにせよそれは野上美雪が指輪を手に入れた時期よりも遅く、むしろ失くした時期に近い。
「何だと…じゃあ、香月麗奈の指輪は野上美雪の指輪とは別物…」
「みてーだな」
清治の説明を聞いた七見は榛色の目を大きく見開いた。

「解決しちゃったじゃないか…」
七見はがっくりと頭を垂れて安楽椅子に沈み込む。何とかやる気を出してもらおうとしてなのか、さよりが、意図的に七見に振るように疑問を口にした。
「でもそれだと香月さんは野上さんが指輪を失くした途端にわざわざ同じ指輪を作ったって事になりませんか?」
「被っているのが嫌だったんだろ…失くしたと知ってから作ったんだ」
探偵としての活躍を奪われて落ち込んでいるらしく、気のない返事を返した七見に、清治が反論した。
「野上美雪は会社では指輪してねえっつってただろ。香月麗奈はどうして失くした事を知ったんだよ」

解決した、とは言えない状況だと清治は思っていた。ある仮説がぼんやりと頭の中に出来上がりかけていたが、確かめなければならない事が幾つもあった。窓際の掛時計が9時を回りそうになっているのを見て清治は
「とりあえず今日は解散しようぜ所長、明日はやることが沢山ある」
と、提案した。七見は仏頂面で頷くと、
「西江も、もう帰っていいぞ。今夜は僕の食事は用意しなくていいからな、ゆっくり休みたまえ」
さよりにそう告げ、清治の服の裾を掴んで軽く引いた。
お前は残れ
という事らしい、と理解した清治は、鞄を整理しながら七見と共にさよりを見送った。

「言っておくが、」
閉まったドアを暫く見つめてから、七見は清治の方を見もせずにぽつりと言葉を吐き出した。
「僕と西江は一緒に住んでいるわけじゃないぞ。マンションが隣の部屋なだけだ。多分父さまに言われてそうしたんだ」
どう答えていいかわからず、清治は
「別に聞いてねえだろそんな事…」
と、返すしかない。しかし七見は意地悪く突っ込んでくる。
「聞いてなくとも気にはなるんだろう?」
「ならねぇよ」
「オカピの指輪買おうとしたのにか」
「見てたのかよ!」
「あっ…!いや、み、見てない」
全く取り繕えていない台詞を吐く七見を眺め、清治はこめかみを押さえた。

「別に見てようが構わねーけどよ、大した意味ねぇぞアレ」
清治はそう告げたが、七見はまだ目を合わせようとはしなかった。安楽椅子に沈み込んで黙っている。
「オカピがどんなか気になっただけだ。姐さんにやろうとか、そういうんじゃねぇっての」
「……」
「いいか所長。俺は姐さんを職場の先輩として以外の目で見た事はねぇし、この先もそういう事は無ぇ」清治は半ば自分に言い聞かせるように、ゆっくりと喋った。
「万が一そうなったら、お前に言う、絶対だ」
「誰もそんな事頼んでないだろ…西江は人だ、僕の所有物じゃないんだぞ」
漸く返事をして、七見は振り返った。

「もう帰るぜ。明日、やることがあんだ色々。テメーも遅刻すんじゃねえぞ」
鞄を背負って、清治が扉に手をかけたところで、七見が小さく声を上げた。
「清治、」
「何だよ」
切れ長の大きな目の上の細い眉をしかめて、七見はちょこんと安楽椅子に収まっている。
「お前だったら、」
七見はそう言いかけて、しかし続きを口にはしなかった。
「…いや、いい、」
「何だよ」
「いや…さっきの、本当か」
「当たり前だ。嘘つく意味がねぇ」
答えて清治は後ろ手に扉を閉めた。階段を駆け降りる。
ああ、まだ寒ィな、夜…
背を丸めて自転車を漕ぎながら、清治は存外に穏やかな気分だった。

翌日、朝から清治はS県の銀細工工房に向かった。デジカメを持ったさよりと事務所でフライト状態の七見は、二人がかりで津川渉の身辺を探っている。
「何で助手の君が指示を出すんだ」
などと文句は言っていたが、七味には昨晩までの不安定な刺々しさは無く、清治は胸をなで下ろした。
これでよかったよな、志摩ちゃん
電車の中でパンをかじりながら、清治は祖母の顔を思い描いた。記憶の中の志摩は何故だか僅かに悲しい笑顔で、けれどもはっきりと頷き、それを最後に清治はこの問題について考えるのを終わりにした。
やがて車掌が昨日来たばかりの観光地の駅名を告げた。

「いらっしゃい…あっ。探偵さん!どうすか何か進展あったすか?」
清治が銀細工の店内に足を踏み入れると、昨日の店員がニコニコと出迎えてくれた。
「何度も悪ィな」
「いやあ、暇な店っすから」
「オーダーメイドの客の名前ってのは、残ってるか?」
清治が尋ねると、店員はすぐに一冊の帳簿を持ってきた。
「プライバシーとかうるさいんで、お客さんの住所とかのページはヤバいんすけど…名前だけなら。いつ頃のが見たいです?」
「3ヶ月前、いいか?」
店員の開いたページを指でなぞりながら、清治は眉間にシワをよせ、帳簿を睨みつける。
12月3日 津川渉 様
目的の名は簡単に見つかった。

「津川さんなら覚えてますよ。ピシっとした感じの方で、そうだ、オーダーの前にも彼女さんと一緒に来たことがありました。お二人ともお得意さんになっていただいて、ありがたかったっすねぇ…」
記憶を掘り起こして、店員は、うんうん、と頷いた。
「2人とも?」
清治は帳簿から顔を上げて店員を見つめた。
「ええ。津川さんはオーダーの電話くれましたし、彼女さんも、先月お一人で見に来てくれて、猫のピアスだったかな?お買い上げで」
清治は少し考えてからもう一つ質問をした。
「その時、女と何か喋ったか?」
「ええ。オーダーの具合どうでした?って。喜んでいただけたみたいで」

礼を言って店を後にした清治は、こめかみを押さえた。
津川渉がオーダーメイドを頼んだのは確かで、その指輪は香月麗奈がしている。おそらく津川渉は香月麗奈とも交際しているのだろう。わざわざ同じ指輪を贈った理由については定かではないが、それについても清治は幾つかの可能性を考えることができた。けれども、
どういう事だよ、
野上美雪は、津川が指輪を作った事、知ってんじゃねえか。
同じ指輪を香月麗奈がし始めた理由が、津川渉の浮気であるという可能性に、野上美雪は全く気付いていないのだろうか?
ひょっとしてあの女…全部知ってんじゃねぇのか?

それからまた電車で東京に引き返して来た清治は、T市の駅前から事務所に電話をかけた。
「むぐ…清治か。何かわかったのか」
昼食をとっていたらしくもぐもぐと電話をとった七見に、清治は、香月麗奈の指輪が津川渉のオーダーであった事を話した。
「ふふん、つまり僕の推理は半分当たっていたという事だな」
七見の口調は、はやく僕を賞賛したまえ、と言わんばかりである。
「ああ、すげぇすげぇ。そんでそっちはどうだった」
「ククク…賞賛の言葉がこんなにも頭にきたのは初めてだ。人を苛立たせる天才だな君は…」
「いいから、」
恨めしい文句を流して清治は話を促した。

「先ず、津川渉の自宅は特定できた。僕が"流視"で今朝通勤してくるまでの足取りを辿ったからな。隣駅の駅前の洒落たデザイナーズマンションに一人暮らしだ」
「やるじゃねぇか。やっぱ飛べる奴は早ェな」
七見の"飛ぶ"力に関しては清治は全面的に感服している。津川渉もまさか自分が"千里眼"で住所を特定されているとは思うまい、と想像しながら清治は素直に賛辞を贈った。
「当然だ」
と言いつつご満悦の様子があからさまな七見の声に、清治は吹き出しそうになりながらも、黙って続きを聞いた。
「津川は香月麗奈とは直接会話はしていない。ただしメールを送り合っていた」

「メールの内容は?」
「果てしなくどうでも良い内容だ。部長のネクタイは趣味が悪い、だの、腹が減った、だの。まあ一種の睦言だろうな。二人が交際しているのは間違いない」
七見の報告を聞いた清治は少し考えた後、
「野上美雪の様子は」
と尋ねた。
「相変わらずだ。音楽ばかり聴いていて、会話というものをする気が無いなあれは。だが、西江がさっき昼休憩の同僚から聞き出した話によれば、仕事は出来るようで、社長には気に入られているらしい」
「……」
清治は再び考え込んだ。
津川渉と香月麗奈は付き合っている。2人にとって野上美雪は邪魔な存在、かもしれない。つまり、

清治は七見に、ある事を指示した。
「…僕だってその可能性には気付いていたんだぞ。先に言ったからといって偉そうに指示するな、ワトソン君のくせに」
「拗ねんな馬鹿。頼んでんだよ、お前しか確認できねぇだろ。頼むぜ」
「確かにこの僕にしか出来ない事ではあるが、」
七見はまだ何かブチブチ言っていたが、清治はそのまま電話を切って、歩きながらさよりの携帯を呼び出した。
「姐さん、今どこだ?頼みたい事がある」
「はいはいよー。今向かいのレストランだよー」
とぼけたさよりの返事に耳をくすぐられ、清治は僅かに微笑みながら告げる。
「手島のおっさんに連絡できるか?」

レストランに着いた清治に、窓際の席からさよりが手を振った。
「やあやあお疲れ、南武くん」
「おっさんと連絡とれたすか」
清治が尋ねるとさよりは、うーん、と携帯を眺めて眉尻を下げる。
「それがねぇ、実はこないだからちょっと電話通じなくて。メールも返って来ないんだ。忙しいのかも」
「今もか?」
「うん」
電話料金でも払えなくなったのか、と清治は舌打ちした。
「じゃあ仕方ねぇな…」
窓に視線を移すと、パソコンに向かう野上美雪が目に入った。
「私、事務所に戻って直接頼んで来ようか」
「あ、悪ィ、その前に1つ、」
清治はムーンカンパニーに電話をかけて貰えないか、と頼んだ。

電話をかけ終わって事務所に向かったさよりを見送ってから、清治は安堵のため息を漏らした。
姐さんと2人きりでも、普通に話せて良かった。
鞄の中の文庫本、"マックス・カラドスの事件簿"に手を伸ばしかけたが、止めて窓の外に目を遣る。カーテンの側のデスクに居た野上美雪の姿が消えたのを確認し、清治は急いで店を出た。
会社の窓からは見えない路地に回り、帰り支度を終えてビルから出て来た野上美雪を手招きで呼ぶ。一瞬ビクリと震えた野上美雪だったが、相手が清治と判るとペコリと一礼して歩いてきた。
「悪かったな早退させて」
「いえ…大丈夫です、気になさらないで下さい」

「あんたが居ねぇ時の香月麗奈の動きを見ておきたくてな」
津川渉の名は出さずにおく。清治は、香月麗奈と津川渉が2人きりで行動している現場を確認するまでは余計な事は言わないと決めていた。野上美雪は下を向いたまま頷いて、
「あの…どうですか、調査の方は、」
と尋ねてきた。
「今夜あたり一度報告できるかも知れねー。これからの結果次第だからまだ判んねえけどな。電話したら8時頃、事務所に来れるか」
「はい。…あ、自宅に居ないかもしれないので、これ、」
と、手渡した名刺と自分の顔とを、清治に交互に見つめられ、野上美雪は戸惑った。
「え…何ですか?

「…どこまで調査進んだか気にならねーのかなと思ってよ。あんた随分素直に引き下がるな」
言いながら清治は野上美雪の様子を観察する。彼女は恥ずかしそうに耳を赤く染め、
「あ…きちんと判明するまでは教えていただけないと思っちゃってたんですが…お聞きしても良かったんですか」
と俯いた。
「いや、実際そうだからいいんだ。俺がそう言った気もする」
そんな事言った覚えはねぇけどな、と清治は胸中に呟く。あんた、知ってるからわざわざ聞く必要がねぇんじゃねぇのか?喉元まで出かかったのを我慢して、清治は
「後で連絡する」
とだけ告げて立ち去った。

ほんの一瞬だったが清治は見ていた。
実際そうだからいいんだ。俺がそう言った気もする
ちょうどその台詞のあと、野上美雪は、唾を呑み込んだ。
あれは、やはり"知っている"。だとしたら、なぜわざわざ探偵に依頼などしたのか?確証が欲しかったのか?
再びレストランの方角に歩を進め始めてから、清治はもう一度振り返った。離れてゆく野上美雪を観察する。華奢な依頼人は携帯電話を耳にあてながら駅へ向かっていた。その後ろ姿が路地に消えた時、清治の携帯電話も震えだした。
「あったぞ清治!」
通話ボタンを押すと同時に七見が、フリスビーをキャッチした犬のような声をあげた。

一通りの報告を自慢げにまくし立て、清治に、労をねぎらう言葉を強要した後、七見は言った。
「野上美雪に報告して、この一件に片を付けよう。探偵事務所としては相当に迅速な仕事ぶりだと思わないか。これを期に漸くまともな依頼が増えるな」
上機嫌である。
「ああ。野上美雪にはさっき会って、夜報告するかもと言っておいた」
「知っている。見ていた。僕が今どこに居るか、教えてやろうか。君の頭の上だ」
「わざわざ来たのかよ」
清治は空を仰ぐ。何も見えないのは判っている。
「それにしても、野上美雪は妙な女だな…探偵を見る目はあるが、」
七見がそう呟いた。

「お前もそう思うのか」
あからさまに意外そうな声を出した清治に七見は、語調がいちいち傷つく、と抗議して声を荒げた。
「僕が鈍いみたいな言い方をするな。気付いているに決まってるじゃないか」
「悪ィ、お前大概いつも的外れだからよ…」
謝ってから清治はため息をつく。
「知ってるくせに何であの女わざわざ依頼してきたんだろうな…所長、テメーはどう思う」
七見は返事をしなかった。数秒経ってから漸く出た言葉が
「え…何、の話?」
であった。
「何って、あの女、全部知ってて依頼…」
「なんだと!?」
どうやら話が噛み合っていない、と判り、清治は絶句した。

「つまり野上美雪は、知ってて依頼してきた、という訳か?」
「俺はそう思う。しかも、違うと判っている情報をわざわざ流したんだ、あの女は。香月麗奈が指輪を盗んだかもしれない、ってな」
清治の説明を聞いて七見は苛立たしげに舌打ちをして。
「くそ…何だと…それじゃあ僕は完全に道化じゃないか、馬鹿にしている。なぜそんな事をする必要があるんだ」
「正直、見当もつかねえ。とにかく、何にしろ依頼は依頼だ。やることはやった上で出方を見るしかねぇだろうよ」
そこまで言って清治は通話を切り、現在時刻を確認してからムーンカンパニーの窓をちらりと見遣った。

夕刻。6時を少しまわった頃までに、清治は目的の調査を終えて七見探偵事務所に戻ってきた。
「おかえりー」
さよりに珈琲を差し出され、それに口をつけながら清治は、安楽椅子に座って考え込む七見に今日の調査を一通り報告した。
「野上美雪にはさっき連絡した。7時にここへ来る」
「……」
唇を尖らせたまま頷いた七見は、言葉は発さず不機嫌なしかめ面で床を見ている。
「姐さん、どうしたんだこいつ」
清治は七見を指差してさよりに尋ねた。
「うん、なんだか自尊心が傷ついちゃったみたいで」
さよりが下がり眉の笑顔で答えながら、七見にココアを淹れ始めた。

七見は、依頼時にあれほど自分に心酔したように見えた野上美雪が、実際は全部知っていたのかもしれない、という事に探偵としてのプライドが大いに傷付いたようだった。不機嫌に黙りこくる七見を不安に感じ、清治は声をかける。
「おい…お前、7時までには野上美雪はここに来るんだぞ。あの女がどういうつもりで依頼してきたのか知らねーが、何にしろこっちは仕事を受けた身だ、とりあえずきっちり報告はこなせよ?分かってるな」
「…お前がやればいいじゃないか」
いじけた態度で七見が言う。
「てめえ所長だろうが」
「嫌だ。僕は間抜けな道化役になるのは御免だ」

「大体まだ全部知ってるって決まったわけでもねぇ、あの女が知らねー事実を俺たちが掴んでる可能性だってあるだろ」
自身もさして期待していない可能性まで持ち出して何とかなだめすかそうとする清治だったが、七見は
「うるさい!ぼ、僕、依頼の時、任せたまえみたいな態度とったんだぞ!すごく馬鹿みたいじゃないか!もう恥をかきたくないんだ!野上美雪にも会いたくない、帰る!もう帰る!」
半泣きで抗議して安楽椅子から腰を上げる。
「所長、ココアもうすぐできますよう~」
さよりが簡易キッチンから鼻歌のように告げた一言がなければ七見は出て行ってしまう所だった。

言い合いをしばし中断して3人で熱々のココアをすすっているちょうどその時、呼び鈴が鳴った。猫舌には過酷だろうに急いで飲み干そうとしていた七見の努力も徒労に終わった。
「すみません…少し早かったですか」
野上美雪である。俯き加減に挨拶をした彼女を、さよりが招き入れた。
「いいえ~。お待ちしておりました。ココアいかがですか」
「あ、あ…そんな、お構いなく、」
ソファに腰を下ろした野上美雪の前に、安楽椅子ごと清治に運ばれて、七見はようやく観念したのか、
「はい、じゃあご依頼の件の報告をいたしますよ。大した報告じゃないですけど」
棒読みで口を開いた。

「結論から言いましょう。香月さんの指輪と、貴女が失くした指輪は別物です。香月さんの指輪は貴女が指輪を買ってもらった日よりも後に作られたものでした」
「……!」
七見の言葉に、野上美雪は少々大げさに目を見開いてから、感嘆混じりの声色で礼を述べた。
「ああ…!そ、そうだったのですか…ありがとうございます、ほっとしました、香月さんを疑ったまま過ごすのは苦しかったですから。それでは、あの、ただの偶然、という事なんですね」
腕組みをしながら七見が即答する。
「いいえ。偶然ではありません」
「えッ?」
野上美雪は身を乗り出すようにして驚いた。

「僕の調査に依れば香月さんの指輪は、」
七見はチラと清治に咎めるような視線を送る。
おい、彼女は本当に"知っている"のか?
そう問うていた。清治はそれに答えを示すことも出来ず、野上美雪を観察するしかなかった。野上美雪は少なくとも、香月麗奈の指輪が後から津川渉のオーダーで作られたものだという事までは知っている筈である。銀細工の店で清治は確かにそれを確認した。
一瞬、野上美雪がこちらを見たような気がして、清治は息をのむ。
「津川渉さんが、彼女に贈ったものです」
苛々と七見がそう告げると同時に野上美雪は口元を押さえ、小さな悲鳴をあげた。

「どうして…渉さんが、香月さんに、まさかそんな、」
肩を震わせる野上美雪はいささか芝居じみていると思えなくもなかった。七見は苛々と足を揺すり、彼女の目を覗き込む。
「是非にと仰るなら詳細を申し上げますが」
ほとんど、"わざわざ言う必要があるのか"と言っているような七見の冷たい口調に、野上美雪は
「お…お願いします…どうしてそんな…」
か細い声で懇願してみせた。
「じゃ清治、あれを見せてやりたまえ」
投げやりな態度で七見に指図され、清治はつい先ほどデジタルカメラで撮影したばかりの写真、津川渉と香月麗奈の密会現場を、野上美雪に差し出した。

1枚目は車に乗る津川渉と香月麗奈。2枚目、キスを交わす2人。3枚目、ホテルに入ってゆく車。
「う…嘘、…渉さんが、こんな、」
野上美雪は手にした写真をバサバサと取り落とした。
「残念ながら、あなたの指輪を盗んだのも津川さんですよ。彼の自宅のベッドの下に収納BOXがありますね?黄色の。あれの底にマッチ箱に入れて保管してあるはずです」
「…どうして、」
それ以上言葉が出ない、といった様子で顔を覆い、うなだれる香月麗奈に、清治は奇妙な違和感を感じた。
待て、やはり変だ、何か、
足を揺すりつつ七見は早口で続ける。
「考えられる理由はありますけど。聞きたいですか?」

意地の悪い尋ね方をした七見を、野上美雪は前髪の下から涙を湛えた目で見返した。
「聞かせてください…私、こうなったら全てはっきりさせたいんです…!」
苦々しい表情でため息を吐いた七見までもが、どうした訳か少し泣きそうになっている。貧乏揺すりは止まらないままであった。
「では申し上げますが…僕の推理に依ればですね、津川さんと香月さんは共謀して貴女を会社から追い出そうとしていたのだと思いますよ」
野上美雪に感じた違和感の正体について必死に考えていたこの時の清治には、お前の推理じゃねぇだろ、と七見に突っ込む余裕は無かった。

「どういう事、ですか?」
「津川渉は以前の交際相手である貴女が邪魔になった、或いは香月麗奈との結婚に支障が出る、と考えたのでしょう。最初は香月麗奈が貴女をクビにして欲しい、と社長に直接頼んだかも知れない。けれど社長はうんと言わなかった。仕事の出来る貴女を気に入っていたようですね」
七見は恐ろしく早口にまくし立て、一呼吸おいて野上美雪の反応を待たずに続けた。
「何か問題を起こさない限り、社長は貴女をクビにはしない。それが分かった彼らは、貴女に問題を起こさせよう、と企んだ訳です。そう、例えば、社長の娘を泥棒呼ばわりするとか…」

「以上が、僕の推理です。もし指輪を取り戻したいと仰るならば、こちらで…お手伝い出来る事もあります…下の階の…、知り合いに、今、協力の要請を、」
早口が失速して、七見は段々としゃくりあげるような口調に変わってきた。そこまで来てようやく清治も異変に気付き、
「どうした、おい」
と声をかける。
「所長、大丈夫ですか?」
さよりにハンカチを手渡され、七見はついに大粒の涙を落として喚いた。
「真面目に聞く気がないなら帰ればいい…っ!僕は貴女が依頼したからやってるんだぞ…だのに、あんまり失礼じゃないか、」
喚きながら七見は人差し指を野上美雪に向けた。

突然の糾弾に野上美雪は狼狽えた。
「な…何を、仰っているのか、わからないのですが」
「ぼ、僕だって、初めてのちゃんとした依頼人だから…っ、仕事が終わるまで我慢しようと思った…でも、これはあんまりだ!僕を馬鹿にするのもいい加減にして欲しいっ」
泣きじゃくるばかりで要領を得ない探偵の頭を清治はペチッと叩いた。
「お前、落ち着け、どうしたってんだよ。推理の途中で泣き出す探偵がいるか馬鹿」
「じゃあ推理の途中で音楽聴いてる依頼人は悪くないって言うのか!?」
頭を押さえて七見が叫んだ一言に、清治も、さよりも、そして野上美雪までもが凍りついた。

清治は七見と野上美雪を交互に振り返ると、
「おまえ…ちょっと来い!」
椅子ごと七見を抱えてアコーディオンカーテンの向こう側に引っ込んだ。部屋の奥まで運び込んでからようやく椅子を降ろし、小声で七見を問い質す。
「お前、さては"着陸"してないな…?」
七見は目を腫らした顔で頷き、
「してない。"離陸"したままだ…だって真面目になんかやってられないだろう、」
そこでハッと気が付いた。
「まさか、お前…見えてないのか?あの"ヘッドホン"」
「野上美雪はヘッドホンなんかしてねえ」
清治は七見が手島の念動力を"見た"時の事を思い出す。
間違いない。野上美雪は
超能力者だ。

「お前そのまま野上美雪を観察しろ。見えないヘッドホンで、"何を"してるのか、探れ」
「そんなの見ただけで判る訳ないだろ!」
「てめえにしか見えねんだから、てめえが探るしかねえだろうが。名探偵なら根性見せろ」
「くっ…」
七見が首を縦に振る前に清治は椅子を持ち上げた。片手でアコーディオンカーテンを引いて名ばかりの応接室に戻ると、下を向いた野上美雪のすぐ横に七見を降ろした。
「悪ィな、コイツちょっと疲れて寝ぼけたみたいだ」
何を言うんだ、と一瞬抗議の目で清治を睨んだ七見だったが観念したのか、
「そ…そういう訳です失礼しました」
渋々不本意な台詞を吐いた。

「ええと…どこまで話しましたっけ…」
ソワソワと落ち着き無く視線を漂わせながら、七見は微かに右手指を動かしている。ダイヤルを回すような、動作。
「そうだ、貴女が指輪を取り戻して、津川渉と香月麗奈に突きつけてやりたければ、我々にもお手伝い出来る事があるかもしれない、という事です…いかがなさいますか」
野上美雪はしかし、黙っていた。先ほどまでと様子が違う。蒼白な無表情で、七見の色素の薄い眼球を見つめ硬直したまま、動かない。
「野上さん?」
「あ…す、すいません」
漸く反応した野上美雪は素早く床に目を逸らした。同時に七見がピクリと右手を操作した。

「すいません、ちょっと、彼の事がショックでぼんやりしてしまって、」
野上美雪がそう弁解した時である。不自然に緊迫した空気の中、唐突に奇妙な声が響きわたった。
『ハンドパワーです!』
ファイルを手に七見の傍らに控えていたさよりが
「わ!申し訳ありません、ちょっと失礼します」
と慌てて携帯を取り出し、窓辺に下がって携帯を開いた。
「依頼人が来ている時は音はオフにしたまえよ」
言いながら七見は見えないダイヤルを回す。その手つきを見ながら考えを巡らしていた清治は、
「南武くん」
急に名を呼ばれて頭を上げた。さよりが手招きしながら告げる。
「てっしーから」

さよりの携帯に届いた一通のメールに、清治は息を呑んだ。送信者の欄には間違いなく、てっしーこと念動力者・手島の名が入っている。

件名:無題
本文:電話でなくてごめん(>_<)
さよりんの上司のちびっ子が千里眼だってことが奴らにバレたみたいです。俺と鶴は変なのに追われてるからしばらく身を隠します。さよりんも気をつけてね(>_<;)携帯も変えます。

「おっさん…」
顔文字はともかくとして、内容そのものは緊迫している。清治の心臓は割れ鐘のように脈打ち始めた。
待て、
これは、
まさか、
考えがまとまりかけたその時、七見が叫んだ。
「下がれ清治っ!」

「何だよ!」
振り向きざま反射的に清治は後ろに飛ぶ。野上美雪がビクリと肩を震わせた。
「わかったぞ…」
驚愕に見開いた榛色の瞳で野上美雪を見据えてから、七見は告げた。
「テレパスだ」
野上美雪の額から一筋の汗が落ちた。
「…何の、こと、ですか」
「ヘッドホンのコードが清治の脳に差し込まれようとしていました。貴女、"聴こうとして"いましたね…?彼の、"思考"を!」
絶句する野上美雪の姿を見て、清治の推測が形を成していく。
依頼、
知っていた、
すべて、
「おい…アンタの依頼の目的は、指輪の事じゃねえ、こいつだな…?」
言いながら清治は七見の頭を掴んだ。

無意味な依頼。野上美雪が現れるのと同時に姿をくらました手島と折原。
野上美雪は、手島を使って七見を捜そうとしていた連中のうちの、1人。"千里眼"について探る目的で近づいたのだ。そう考えれば納得がいく。
清治は先程、野上美雪に感じた違和感の正体を理解した。
「アンタは、コイツがさっき有り得ねえ細かさで指輪の場所を喋った事に、何の疑いも持ってなかった。普通なら、この野郎、彼氏の家に忍び込んだんじゃあねえか?と思っておかしくねえ場面だ。何も突っ込まねえのは、知ってたからじゃねーのか?コイツの"能力"を」
清治の手の下で七見がパチクリとまばたいた。

「な……、なんだって、」
先に反応したのは七見だった。
「嘘だろう…?」
黙して語らない野上美雪を見つめて、そう言うのがやっとだった。
「返事がねぇって事はマジだって事じゃねーのか」
清治はため息と共に七見の頭から手を離した。
「そんな馬鹿な…じゃあ最初から、依頼人でも何でも無かったというのか?嘘だろう?」
馬鹿な、と口では言いつつも、七見は、念動力者の手島に続いて立て続けに超能力者に出くわすことの不自然さに気づいてるに違いなかった。
ようやく来た、ペット関係でない初めての依頼が、嘘依頼とは。
清治も気の毒に感じずにはいられなかった。

「何だよ…くそう…何なんだよ…僕のこと名探偵って感激してたくせに…」
プライドをズタズタにされた七見は、しゃくりあげながらデスクを叩いて、野上美雪に詰め寄った。
「こ、こうなったら喋ってもらう。君らはなぜ、僕を狙うんだっ!」
そこで遂に野上美雪が口を開いた。
「…別に、」
ゆっくりと前髪をかき上げた彼女の目は細く、隙のない狐に似ていた。
「別に私だってあなたみたいなヘタレを好きで探っていた訳じゃないんです」
声や姿こそ同じであるものの、そこに居たのはさっきまでの温和しい野上美雪とは全く違う、別人としか思えないきつい雰囲気の女、だった。

「まあ、こんなに早くバレる予定ではなかったですけど、別にずっと隠してるつもりもありませんでした。バレたところで、あなたに何ができるって訳でもありませんし」
つまらなそうな表情で淡々と言ってのける野上美雪を、清治は睨みつけた。
「ようやく本性見せやがったなてめえ…」
七見は唖然としている。さよりは窓際まで後退して感心したように腕を組んで野上美雪の顔をまじまじと見つめていた。3人をぐるりと眺め回し、野上美雪は僅かに口を尖らせた。
「どうしてか私が訊きたいくらいです。"あの方"がどうしてこんなボンクラを探るよう仰ったのか全然わからない」

「僕はぼんくらじゃない!」
悲鳴に近い七見の抗議を無視して、野上美雪は淡々と続ける。
「ええ、勿論全部知っていました。渉さんが浮気しているのも、あの女と画策して私を陥れようとしているのも。せっかくなんで利用させてもらいました。依頼人を装って近づくのが一番怪しまれませんから」
「そんな事はちょっと考えりゃあわかる。テメェに聞きてぇのは"あの方"ってのが誰なのか、こいつを探って何をする気なのか、だ。答えろや」
清治は脅迫口調でテーブルに手をついた。が、野上美雪は怯まない。薄く笑って、言った。
「脅迫、お上手ですね。当然か、もと闇金ですものね」

「や、闇金は半年しかやってね…じゃねえ!何でテメェがそんな事知ってんだ、まさか、」
動揺する清治に、野上美雪は愉快そうに追い討ちをかける。
「私、色々知ってるんです、清治さん。ねえ、アナタちょっと同情してしまいます。そのボンクラ所長に気を使ってなにも、」
「やめろテメェ!」
清治は机を叩いた。
「くそ…それまで"聴いて"やがったのかよ…」
「な、何のことだ清治」
状況を飲み込めない七見が、顔面蒼白の清治を振り返る。
「うるせ…何でもねえ…」
「そうですね清治さん。私をこのまま帰して頂ければ、何でもない、で済みますよ」
野上美雪は窺うように清治を見つめた。

野上美雪が取引の道具に使っているものを、この場で理解しているのは、清治だけだった。それは絶対に清治しか知り得ないことなのだ。
「つらいですよね。私、あなたの気持ちわかりますよ清治さん」
あれのことだ。
清治は歯噛みした。
「今だって、本当は心がちくちく痛むでしょう?」
「やめろ、違う、そんなんじゃねえ、俺は…」
「そう思い込もうと、今頑張ってる所なんですよね」
「…畜生、」
清治はたまらず、七見と、七見に寄り添うさよりを視界から外した。封をしたはずの感情を、野上美雪に弄ばれている。けれど清治になすすべは無かった。
「やめてくれ、…頼む」

苦しげに懇願する清治を見て、さよりが感心した囁き声を上げた。
「なるほど…つまり南武くんの秘密を楯にして、この場から無傷で逃走しようという訳ですねぇ。すごいなぁ…テレパシストの真骨頂ですねぇ、所長」
「すごくなんかない」
眉間にしわを寄せ、七見は答えた。
「ESPのこういう使い方は、下品だ」
さよりは、にぃ、と笑って七見の肩に手を置いた。
「仰る通りです、所長。どうぞ」
七見は少し驚いたようにさよりを眺め、
「わかっている」
と呟いて深呼吸してから、鋭い声を上げた。
「清治、テレパシストごときにいいようにされてるんじゃない!君は千里眼の助手だろう!」

清治と野上美雪は同時に振り返った。
「野上さん、」
七見は緊張を抑えようと、言葉の間に深呼吸を挟んだ。
「あなたは僕をボンクラ呼ばわりした上に僕の部下にそんな真似をして、それでも秘密を守ったままここから逃げられると思っているのだとしたら、それは大きな間違いだ」
僅かに震えながらそう告げ、しかし、はしばみ色の双眸は正面から野上美雪を見据えていた。
「あなたに何が出来ると言うんですか」
野上美雪は冷たく返すと、席を立った。
「清治さん、この人たちが私を捕まえようとしたら、ちゃんと止めてくださいね。私の言っている意味、わかりますよね?」

「彼女の言うことを聞く必要は無い!」
憔悴した様子の清治に七見はそう命じた。
「清治さん。わかってますよね?」
狐の微笑みで覗き込まれた清治は、七見に視線を移す。
「わかっていないのはあなたの方だ、野上さん、」
安楽椅子に小さく収まっている探偵が、余裕ありげな態度を必死に演じているのが判った。
「…七見、」
「はったりですね」
と呟いて扉に向かった野上美雪の背中に、七見は告げた。
「そう思うなら、好きにしたらいい。ただし、そうだな…匿名で香月社長に電話でもかけるとしよう」
その瞬間、野上美雪の足が止まった。
「…何…言ってるんです?」

「一体社長に何を喋るつもりですか?言っておきますが、どんなに探したって私に後ろめたいことなんかひとつもないですよ。あなたが恥をかくだけなんじゃないですか?」
振り返った野上美雪は能面のような無表情だった。その氷の視線に見つめ返され、七見は一瞬怯む。しかし、安楽椅子の後ろから発せられた
「だいじょ~ぶ、自信をお持ちくださいな坊ちゃま」
というさよりの脳天気な囁きに押され、唾を飲み込んで言葉を続けた。
「あなたは1つ勘違いをしている。僕は"見たいものだけを見ている"訳じゃない、不必要な部分は無視しているだけで"全て見ている"んだ!」

「能書きとかいいですからはっきり仰ってみてください。口に出して意味のある事実が、あるのならば、ですけれど」
ピシャリと返した野上美雪に七見は、
「ヒビ島デザイン事務所、ジャッキー武藤コーポレーション、ヒロ崎ミミヨシ事務所、waxシステムズ…」
どういうわけか会社名を羅列してみせ、
「あなたの指輪が隠してあったのと同じ場所で見つけた社印だ。おそらく、いや…間違いなく偽造だろうね」
ぎこちなく"不敵な笑み"を作った。
「津川渉は偽造社印を使って会社の金を流用していた。そうだろ?」
問われて、野上美雪はスッと目を、
逸らした。
「…そんな事、私には関係ないでしょう」

「そんな事が私を脅迫する材料になるはずないじゃないですか。無駄ですよ。ええ、まったく無駄、渉さんがどうなろうとどうでもいいもの。どうでもいいからこそ私は彼を利用したんですよ?」
攻撃的な口調と裏腹に、野上美雪の目線は七見から逸れている。
「どうでもいい…か。本当にそうなら、僕がこれから口にする言葉に、あなたは耐えられるはずだ」
一方の七見は、その野上美雪の姿を、震えながらも視界の真正面にしっかり捉えていた。
「………」
無言のテレパシストに向かって千里眼は、告げる。
「青い、本。クッキー缶もだ」
野上美雪の、薄紅色の爪が手のひらに食い込んだ。

数秒の間、誰も口をきかなかった。ただ、緊張した七見の引っかかるような息づかいと、野上美雪が唾を飲み込む音だけが静寂に紛れ込んでいた。しかしやがて、
「…うそ、」
野上美雪がかすれた声を絞り出した。
「…今、見たの?」
「当然、今だ。僕はどこかの誰かのように、捜査に関係ない他人のプライバシーを嗅ぎ回るような真似を普段からしているわけではないからな」
七見の細い眉がしかめられる。
「だってそんな所まで見る時間…ないじゃない…」
「君は、僕を見くびりすぎだ」
大袈裟なため息を挟み、
「そこいらのESPとは格が違うんだ」
七見は嫌みな微笑を浮かべた。

「これだけ沢山の写真を、よく撮ったものだ。半分に切れた写真は…これは香月麗奈でも映っていたのだろう。あなたはよほど津川渉に、」
「嘘よ…そんなのは…そんなのはただのカモフラージュ…」
「青い本、日記も読み上げる必要があるだろうか」
「やめて!」
たたみかけるような七見の攻撃に、野上美雪はついに悲鳴を上げた。
「やめて…やめて……」
当初の怯えたような態度に近い、蚊の鳴くような声を絞り出して座り込んだ野上美雪を、七見は険しい目で睨んだ。
「僕はあなたがやったのと同じ事をしたまでだ。自分のした事がどういう事だか…理解できたようだな」

乱れた髪を直すことも忘れ、野上美雪はぽつりぽつりと呟いた。
「…そうよ…私、まだ渉さんが好き…彼がもう私を好きじゃなくたっていい、悪いことをしてたって、いい…しあわせなら…いい、全然、いい…電話なんかさせない。彼をクビになんかさせない…」
清治はようやく、七見が何をしたのか完全に把握した。
七見は、野上美雪の家に飛んだ。クッキー缶にはおそらく津川渉の写真が。日記には愛の言葉が綴られていたに違いない。七見は野上美雪が、"利用した"と言いつつも未だ津川渉を愛している証拠を握った。それを踏まえた上で津川渉の"秘密"を手札に使ったのだ。

短時間で野上美雪の家を全て見通して手札になるものを探し、更に津川渉の秘密を再度確認して来た七見の、飛ぶスピード、そして見るスピードに、清治は改めて驚嘆した。
だが同時に、報われない恋をする野上美雪の心情を手札に使う冷徹な手段に心が痛まなくもなかった。
あなたの気持ち、私よくわかります
そう言った野上美雪の心は、嘘ではなかったのだ。
「所長、もういい…その辺にしてやってくれ」
「お前のためにやっている訳じゃない、彼女が誰に命令され何のために僕を狙ったのか、口を割らなければ僕は津川渉の犯罪を告発するまでだ」
七見は冷たく言い放った。

「さあ、野上さん」
「……」
押し黙る野上美雪に動きはなかったが、七見には何か見えたらしく、ビクリとなって椅子ごと少し距離を取った。
「ぼ、僕の秘密を"聴こう"としても無駄だ。あなたの"ヘッドホン"のコードは見えているんだからな」
びびってんじゃねえか、と清治は心の中で突っ込んだ。
「野上さん、」
七見にもう一度名を呼ばれ、野上美雪は弱々しく頷き、そして、口を開いた。
「理由はわからないけど…"あの人"は千里眼を、四ヶ伍一族の末息子を欲しがっていたみたい…」
「…あの人?」
「それは、」
七見の疑問に答えようとしたその時、野上美雪に異変が起きた。

「それは──」
言いかけた野上美雪の目が、大きく開かれる。誰よりも早く七見が
「の、野上さんっ!?」
と声を上げ、それと同時に野上美雪の体はぐにゃりと床に崩れ落ちた。
一瞬の出来事。
「おい!」
清治は慌てて駆け寄り、彼女を支え起こそうとしたが、眠ったようになった野上美雪は反応が無い。
「き…清治、彼女は…」
総毛立った七見はガタガタと震えている。
「死んでいる訳じゃねえと思う」
清治は野上美雪の細い腕を掴んで、脈があるのを確認した。
「救急車呼びましょう!」
さよりが素早く電話に手を伸ばす。七見は真っ青な顔でひたすら震えていた。

それからは大分慌ただしかった。
野上美雪は搬送され、さよりが付き添いで一緒に救急車に乗って病院に向かい、程なくして病院、次いで警察から電話があった。清治と七見は野上美雪が倒れた状況を色々と尋ねられたが、病院はともかく警察はどうも何か疑っているらしく、2人は警察署に出向くはめになってしまった。
「だ、だから依頼人が急に倒れたんだって!俺が何かしたみてぇに言うなよ!」
妙にビクついた態度の清治を警察は最初執拗に尋問したが、そのうち病院から電話があって、野上美雪には外傷も毒物による症状も出ていない事が判り、清治たちは解放された。

「くそ…俺は何もしてねぇだろ…だから嫌なんだ警察はっ」
毒づきながら事務所に戻ってきた清治は、後ろをとぼとぼついて来ていた七見が、さっきから一言も口をきいていない事に気がついた。
「…おい、どうした」
七見は答えない。顔色が真っ青だった。
「所長?」
無言のまま事務所の扉をくぐり、七見はすがりつくように安楽椅子に座り込む。
「あっ。所長、南武くん、おかえりなさい!」
さよりが簡易キッチンからばたばたと出て来た。
「姐さん、どうだった?」
「野上さんは眠ってるだけだったよ。命に別状はないんだって。ただ、」
さよりは眉を曇らせる。
「起きないの…」

昏々と眠り続けたまま、目を覚まさない野上美雪。脳波はただ眠って夢を見ている人間と何ら変わらないという。
「学がねぇから俺が知らないだけかもしんねーけどよ…そういう病気ってあるのか?」
「あるにはあるみたいだけど、」
清治の質問に答えかけたさよりの言葉を遮るように、七見が声を発した。
「あれは、違う…」
自分の両腕を抱え込む。七見はひどく怯えていた。
「お前、何か見たんだな?」
尋ねられ、七見は爪をかじりながら頷く。
「何を見た?」
「…何だったのかわからない…、わからないんだ、ただあれは…」
"目"だった。
七見はそのように答えた。
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