第31話 お題:塔
大陸の北にあるその塔は、死刑執行人(アラストール)の塔、と呼ばれている。付近一帯は禁断の地とされ、地元の者は近寄ることすらしない。1000年前にとある勇者によって封じられた魔の王、ロッドバルトが眠っていると言い伝えられているからである。
これは単なる言い伝えではなかった。事実、ここ数年の間に、肝試しだの調査だのと称して塔に足を踏み入れた者たちは、誰一人帰って来なかったため、世間には、塔の魔王が復活しているのではないのかという噂が広まっていた。
最近では、噂を後押しするかのように塔周囲の国々を魔物の群れが襲う、王が謎の死を遂げる、作物が枯れる、遠足の日に限って雨が降る、旦那が浮気した、万引きがバレた、などの怪異が続くようになり、周囲の王族貴族達は昨年、遂に緊急対策本部を設置、1000年前ロッドバルトを封じた勇者シグリドの血をひく者を探し出し、世界の命運を託す事を取り決めたのだった。
捜索の末に見つかった勇者シグリドの末裔はまだ若い青年で、名をシャルド=レヴィアヌスといった。そう、つい先日魔法使いを訪ねてやってきた勇者シャルド、固い絆で結ばれた仲間たちと共に、花売りにバーベキューよろしく燃やされた、あの勇者シャルドである。
幸いにも魔法使いのかけた魔法が効いていたため、頭部からGパンとセル画をいっぱい出して生き返ることができた勇者御一行は、村の花売りに燃やされた思い出はなかったことにして、アラストールの塔へとやってきていた。次々に現れる魔物たちを蹴散らし、100階まで続く高い塔の50階まで辿り着いた彼らは、次の階層へ続く扉を守っているアンデッドの騎士と激しい戦いを繰り広げているところだった。
「ここで負ける訳にはいかないんだー!」
「仲間たちの思いを受け継いで(以下略」
「ファイアー(以下略」
などとかっこいい台詞を連呼していたシャルド達であったが、そこに突然。
「エレベーターの位置がバラバラってどういう欠陥住宅だよ!」
「まあそう言ってやるな。最近まで封印されていたらしいからな、そういう発想が無いのだろう」
眼光の鋭い黒髪の男と、コカトリスを連れた長身の、吸血鬼のような男が呑気な会話をしつつ姿を現したのだった。言うまでもなく、アドルカンと錬金術師である。
扉を塞ぐアンデッドとシャルド、その仲間たち、に気づくとアドルカンは足を止め、一同を順繰りに睨みつけて、
「どけ。邪魔だ」
ものすごく不機嫌そうにそう言った。
「えっ」
シャルド、女魔法使い、斧使い、黒魔術師、それからアンデッドまでが、全員固まった。
「え、じゃねんだよ。はけろっつってんだ。邪魔」
容赦のない物言いのアドルカンを、錬金術師は面白そうに眺めている。
「人間…魔法使いか?…なぜここに?今、世界の命運がかかっているんで、ちょっと、困…」
怖ず怖ずと言いかけたシャルドを、アドルカンは艶やかな黒檀の箒の柄で遮った。
「待て。お前さては、いわゆる勇者ってやつだな」
「…そうだが、」
途端、アドルカンのこめかみがピクリと動く。理不尽な境遇への恨みつらみが頭をもたげた。
「てめえ魔法使いが必要なら何で俺に依頼しねーんだよ!なんでこんなゴミども雇ってんだよっ!畜生…俺の方が100億倍使えるだろーが!…くそっ…俺が爺ィの用心棒してる間に…こんなサンピンどもが魔王退治なんておいしい仕事…くうっ…」
ぶちきれた後、少し泣きたくなって歯噛みしたアドルカンの言葉の合間に、女魔法使いが甲高い声をあげた。
「何なのよアンタ!どこの三流魔法使いよ!失礼じゃないのっ!さては魔物の手下ね!?」
女のキンキン声にアドルカンは完全にぶちきれた。そうして機関銃のような勢いで、
「うるせええ!女、テメーの魔法は効率が悪すぎるっ!分散させんなポイント絞れヘタクソ!アマチュア!ど素人!」
「んなっ…!」
ダメ出しを始めた。
「斧使い!お前どんだけ単調なんだ動きが!そんなんでいいなら俺の魔法で斧なんざ50本は同時に操れるっつうの!役立たず!ウド!」
「なぁああ!」
「黒魔術師は、先ずそのだっせえルーン消せ!契約しなきゃ悪魔も引っ張り出せねーのかお前は!一回ぶっ飛ばして服従させろ馬鹿!低レベル!使えねえ!」
「くっはぁ!」
「勇者は見る目がねえ!俺を雇えっつうんだよ!死ねお前ら!セーブ消してやり直せっ!!」
全部言い終えて数回ゼイゼイ息をしたアドルカンは、ぽかんとしているアンデッドの騎士の傍を通り過ぎ、素晴らしいね、と気のない拍手をする錬金術師と共に扉の奥、魔法陣を利用したエレベーターへ。
「ちょ…待てっ!何なんだお前はッ!」
「謝りなさいよぉお!」
「貴様、さては魔王の手下だなっ!魔物に魂を売るとは…悪党めッ」
「侮辱だ!」
シャルドはじめ勇者パーティーは一斉に武器を構えて後を追おうとしたが、
「うるせえ格下っ。俺の敵は、ロシエールだけだ」
アドルカンが抜く手も見せずに一閃させたサーベル杖の軌道に沿って、辺り一面が紫色の業火に包まれる。
「あああああ!まだ50階までしかクリアしてないのに2回目はダメぇえーっ!」
勇者達はまた燃やされた。
これは単なる言い伝えではなかった。事実、ここ数年の間に、肝試しだの調査だのと称して塔に足を踏み入れた者たちは、誰一人帰って来なかったため、世間には、塔の魔王が復活しているのではないのかという噂が広まっていた。
最近では、噂を後押しするかのように塔周囲の国々を魔物の群れが襲う、王が謎の死を遂げる、作物が枯れる、遠足の日に限って雨が降る、旦那が浮気した、万引きがバレた、などの怪異が続くようになり、周囲の王族貴族達は昨年、遂に緊急対策本部を設置、1000年前ロッドバルトを封じた勇者シグリドの血をひく者を探し出し、世界の命運を託す事を取り決めたのだった。
捜索の末に見つかった勇者シグリドの末裔はまだ若い青年で、名をシャルド=レヴィアヌスといった。そう、つい先日魔法使いを訪ねてやってきた勇者シャルド、固い絆で結ばれた仲間たちと共に、花売りにバーベキューよろしく燃やされた、あの勇者シャルドである。
幸いにも魔法使いのかけた魔法が効いていたため、頭部からGパンとセル画をいっぱい出して生き返ることができた勇者御一行は、村の花売りに燃やされた思い出はなかったことにして、アラストールの塔へとやってきていた。次々に現れる魔物たちを蹴散らし、100階まで続く高い塔の50階まで辿り着いた彼らは、次の階層へ続く扉を守っているアンデッドの騎士と激しい戦いを繰り広げているところだった。
「ここで負ける訳にはいかないんだー!」
「仲間たちの思いを受け継いで(以下略」
「ファイアー(以下略」
などとかっこいい台詞を連呼していたシャルド達であったが、そこに突然。
「エレベーターの位置がバラバラってどういう欠陥住宅だよ!」
「まあそう言ってやるな。最近まで封印されていたらしいからな、そういう発想が無いのだろう」
眼光の鋭い黒髪の男と、コカトリスを連れた長身の、吸血鬼のような男が呑気な会話をしつつ姿を現したのだった。言うまでもなく、アドルカンと錬金術師である。
扉を塞ぐアンデッドとシャルド、その仲間たち、に気づくとアドルカンは足を止め、一同を順繰りに睨みつけて、
「どけ。邪魔だ」
ものすごく不機嫌そうにそう言った。
「えっ」
シャルド、女魔法使い、斧使い、黒魔術師、それからアンデッドまでが、全員固まった。
「え、じゃねんだよ。はけろっつってんだ。邪魔」
容赦のない物言いのアドルカンを、錬金術師は面白そうに眺めている。
「人間…魔法使いか?…なぜここに?今、世界の命運がかかっているんで、ちょっと、困…」
怖ず怖ずと言いかけたシャルドを、アドルカンは艶やかな黒檀の箒の柄で遮った。
「待て。お前さては、いわゆる勇者ってやつだな」
「…そうだが、」
途端、アドルカンのこめかみがピクリと動く。理不尽な境遇への恨みつらみが頭をもたげた。
「てめえ魔法使いが必要なら何で俺に依頼しねーんだよ!なんでこんなゴミども雇ってんだよっ!畜生…俺の方が100億倍使えるだろーが!…くそっ…俺が爺ィの用心棒してる間に…こんなサンピンどもが魔王退治なんておいしい仕事…くうっ…」
ぶちきれた後、少し泣きたくなって歯噛みしたアドルカンの言葉の合間に、女魔法使いが甲高い声をあげた。
「何なのよアンタ!どこの三流魔法使いよ!失礼じゃないのっ!さては魔物の手下ね!?」
女のキンキン声にアドルカンは完全にぶちきれた。そうして機関銃のような勢いで、
「うるせええ!女、テメーの魔法は効率が悪すぎるっ!分散させんなポイント絞れヘタクソ!アマチュア!ど素人!」
「んなっ…!」
ダメ出しを始めた。
「斧使い!お前どんだけ単調なんだ動きが!そんなんでいいなら俺の魔法で斧なんざ50本は同時に操れるっつうの!役立たず!ウド!」
「なぁああ!」
「黒魔術師は、先ずそのだっせえルーン消せ!契約しなきゃ悪魔も引っ張り出せねーのかお前は!一回ぶっ飛ばして服従させろ馬鹿!低レベル!使えねえ!」
「くっはぁ!」
「勇者は見る目がねえ!俺を雇えっつうんだよ!死ねお前ら!セーブ消してやり直せっ!!」
全部言い終えて数回ゼイゼイ息をしたアドルカンは、ぽかんとしているアンデッドの騎士の傍を通り過ぎ、素晴らしいね、と気のない拍手をする錬金術師と共に扉の奥、魔法陣を利用したエレベーターへ。
「ちょ…待てっ!何なんだお前はッ!」
「謝りなさいよぉお!」
「貴様、さては魔王の手下だなっ!魔物に魂を売るとは…悪党めッ」
「侮辱だ!」
シャルドはじめ勇者パーティーは一斉に武器を構えて後を追おうとしたが、
「うるせえ格下っ。俺の敵は、ロシエールだけだ」
アドルカンが抜く手も見せずに一閃させたサーベル杖の軌道に沿って、辺り一面が紫色の業火に包まれる。
「あああああ!まだ50階までしかクリアしてないのに2回目はダメぇえーっ!」
勇者達はまた燃やされた。
第32話 お題:契約
塔の最上階に辿り着いた錬金術師とアドルカンは、だいぶ待たせられた。魔王ロッドバルトの手下と思われる骸骨騎士から差し出されたインスタント珈琲を飲みながら、アドルカンは舌打ちする。
「道理で金があるわけだ…ジジイ、てめえはここの魔王に雇われてんだな」
「そうだな…目下のところは、そういう関係だと言える」
錬金術師はそう答えて片目を細めた。
「くそ、何だこの珈琲…インスタントにしてももうちょっと淹れ方ってもんがあるだろ」
延々と待たせられ、苛々のつのったアドルカンが文句をたらしたその時、奥の扉が開いて狼の頭を持った怪物が顔を出した。
「入れ。魔王様が謁見を許可なされた」
「どうも」
錬金術師は吸血鬼のような黒衣をスルリと翻して立ち上がると、
「君も来たまえ」
振り返って微かに口の端を吊り上げた。アドルカンはその表情に何か奇妙な含みを感じたが、何も言わず後を追った。
謁見の間に設えた巨大な玉座に、影のような姿の魔王ロッドバルトが腰掛けている。
「どうした、バウムガルド。お前が直接ここに来るとは珍しいな。送った金が足りぬか?」
ロッドバルトは地の底から響き渡るような声で笑った。
「いいえ。充分ですよミスター。別に国を買おうというわけではないのですから」
錬金術師はつまらなそうにそう告げ、慇懃に会釈をした。倣って頭を下げる事をせず、そっぽを向いているアドルカンを、狼頭がじろりと睨みつける。
「では何の用だ?」
魔王が尋ねる。
「まあ、大した用ではありません。ただ、1つ、お尋ねしたい事がございまして」
錬金術師は淡々とした調子で答えた。
「ミスター、貴方は私のプランに資金を出す、と仰いました。そして私は"あれ"を使って貴方の力になる。そういう契約でしたね」
「ああ…そうだったな」
「"あれ"の捕獲と管理は私に一任されたと理解しておりましたが」
魔王は先程より低い声で、クッ、と笑った。
「バウムガルド、お前は我が送った捕獲部隊に不満があるようだな?」
「仰る通り。ご相談いただきたかったですな。ああいった無駄なものを希望した覚えはありません」
錬金術師は表情ひとつ変えずに言った。魔王の赤い目が、僅かに光を増す。
「無駄か」
「無駄です。"あれ"を捕獲するのは彼らには不可能だ。まあ、しかし、そんな事はどうでもよろしい。ミスター、問題は、貴方が私に相談することなく捕獲部隊を出した、その点にあります」
「ほほう、」
魔王ロッドバルトは影の腕で顎を撫でた。赤い目が光る。
「何が言いたい?」
「特に困ることもなかったので黙認しておりましたがね…貴方が私に監視をつけている事も既に存じ上げております。どのような自信がおありなのか判りませんが、貴方は私を介さずに"あれ"を手に入れ、ご自分で操縦なさりたいようだ。違いますか」
敬語を取り繕ってはいたが、錬金術師の語調はおよそ魔王を畏れ敬うそれとは程遠いものであった。
「念のためご忠告申し上げますが、"あれ"を管理出来るのは私のみです。それをお忘れなく」
「ククッ…たかだか150年生きたくらいで我に意見するつもりか」
「貴方のために申し上げているのです、ミスター。私が貴方に協力しているのは契約が成立しているからだ。約束が守られないのであれば、"あれ"を貴方に差し向ける事も可能なのですよ」
錬金術師はそう言って微笑した。魔王は、今度は笑う気になれなかった。赤い瞳が冷たい怒りに染まってゆく。
「貴様、魔王様に向かって無礼ではないかッ!」
狼頭の手下が唸り声を上げて剣を抜きかける。が、それよりも早く、アドルカンのサーベル型の杖が一閃した。瞬く間に狼頭の体が奇怪な石像と化し、床にゴロリと転がる。
「どうするジジイ。別料金になるが、ついでだ、ぶっ殺せってんならやってやってもいいぜ。王国お墨付きの勇者もいねェ所で魔王退治なんかしたって大した得もねえが…まあ、狩りがいはある獲物だ」
殺気をたぎらせて周囲を取り囲む魔王の部下たちを一瞥して、アドルカンは言った。魔王の目が紫色に燃える。玉座の周囲は妖気に黒く歪んだ。
「面白い。人間ふぜいが我を倒せる気でいるのか?」
影のようだった魔王の姿がゆるりと厚みを増し始めた。
「道理で金があるわけだ…ジジイ、てめえはここの魔王に雇われてんだな」
「そうだな…目下のところは、そういう関係だと言える」
錬金術師はそう答えて片目を細めた。
「くそ、何だこの珈琲…インスタントにしてももうちょっと淹れ方ってもんがあるだろ」
延々と待たせられ、苛々のつのったアドルカンが文句をたらしたその時、奥の扉が開いて狼の頭を持った怪物が顔を出した。
「入れ。魔王様が謁見を許可なされた」
「どうも」
錬金術師は吸血鬼のような黒衣をスルリと翻して立ち上がると、
「君も来たまえ」
振り返って微かに口の端を吊り上げた。アドルカンはその表情に何か奇妙な含みを感じたが、何も言わず後を追った。
謁見の間に設えた巨大な玉座に、影のような姿の魔王ロッドバルトが腰掛けている。
「どうした、バウムガルド。お前が直接ここに来るとは珍しいな。送った金が足りぬか?」
ロッドバルトは地の底から響き渡るような声で笑った。
「いいえ。充分ですよミスター。別に国を買おうというわけではないのですから」
錬金術師はつまらなそうにそう告げ、慇懃に会釈をした。倣って頭を下げる事をせず、そっぽを向いているアドルカンを、狼頭がじろりと睨みつける。
「では何の用だ?」
魔王が尋ねる。
「まあ、大した用ではありません。ただ、1つ、お尋ねしたい事がございまして」
錬金術師は淡々とした調子で答えた。
「ミスター、貴方は私のプランに資金を出す、と仰いました。そして私は"あれ"を使って貴方の力になる。そういう契約でしたね」
「ああ…そうだったな」
「"あれ"の捕獲と管理は私に一任されたと理解しておりましたが」
魔王は先程より低い声で、クッ、と笑った。
「バウムガルド、お前は我が送った捕獲部隊に不満があるようだな?」
「仰る通り。ご相談いただきたかったですな。ああいった無駄なものを希望した覚えはありません」
錬金術師は表情ひとつ変えずに言った。魔王の赤い目が、僅かに光を増す。
「無駄か」
「無駄です。"あれ"を捕獲するのは彼らには不可能だ。まあ、しかし、そんな事はどうでもよろしい。ミスター、問題は、貴方が私に相談することなく捕獲部隊を出した、その点にあります」
「ほほう、」
魔王ロッドバルトは影の腕で顎を撫でた。赤い目が光る。
「何が言いたい?」
「特に困ることもなかったので黙認しておりましたがね…貴方が私に監視をつけている事も既に存じ上げております。どのような自信がおありなのか判りませんが、貴方は私を介さずに"あれ"を手に入れ、ご自分で操縦なさりたいようだ。違いますか」
敬語を取り繕ってはいたが、錬金術師の語調はおよそ魔王を畏れ敬うそれとは程遠いものであった。
「念のためご忠告申し上げますが、"あれ"を管理出来るのは私のみです。それをお忘れなく」
「ククッ…たかだか150年生きたくらいで我に意見するつもりか」
「貴方のために申し上げているのです、ミスター。私が貴方に協力しているのは契約が成立しているからだ。約束が守られないのであれば、"あれ"を貴方に差し向ける事も可能なのですよ」
錬金術師はそう言って微笑した。魔王は、今度は笑う気になれなかった。赤い瞳が冷たい怒りに染まってゆく。
「貴様、魔王様に向かって無礼ではないかッ!」
狼頭の手下が唸り声を上げて剣を抜きかける。が、それよりも早く、アドルカンのサーベル型の杖が一閃した。瞬く間に狼頭の体が奇怪な石像と化し、床にゴロリと転がる。
「どうするジジイ。別料金になるが、ついでだ、ぶっ殺せってんならやってやってもいいぜ。王国お墨付きの勇者もいねェ所で魔王退治なんかしたって大した得もねえが…まあ、狩りがいはある獲物だ」
殺気をたぎらせて周囲を取り囲む魔王の部下たちを一瞥して、アドルカンは言った。魔王の目が紫色に燃える。玉座の周囲は妖気に黒く歪んだ。
「面白い。人間ふぜいが我を倒せる気でいるのか?」
影のようだった魔王の姿がゆるりと厚みを増し始めた。
第33話 お題:二律背反
「倒せる気でいるのか、だと?」
アドルカンは眉間にシワを寄せて魔王を見上げた。
「なるほどなァ、伝説の勇者パーティーに加わってるわけでもねぇ、ジジィのパシリなんかやらされてる無名の魔法使いなんか、ナメてかかって当然ってわけか…クックック……」
アドルカンの口角がつり上がる。だが目は笑っていなかった。
くっそ…なめられてる。俺完っ全にこいつになめられてる…。
こんな立場に甘んじているのは、決して自分に実力が無いからではない、ユリウス=ロシエールのせいで過小評価され続けてきただけなのだ。やる瀬のない鬱憤がアドルカンの心中にポロポロと溢れ出す。
なんでだよ…なんでこんな奴になめられんだよ。ジジイの用心棒なんてつまんねー仕事、好きでやってんじゃねえんだぞ。本来だったら勇者パーティーに恭しく迎えられてコイツみてーな魔王とか邪神とかそういうパブリックエネミーな奴らぶっ殺すの専門に、月2回ばかしチャチャッと働いて、王侯貴族から箱いっぱい報酬と勲章もらって、ドンペリかっくらってペルシャ猫撫でながら悠々自適にホームシアターでDVD三昧…俺はそんな魔法使いになるはずで…
それがどうだろう、アドルカンが現実にしてきた仕事といったら、泥棒、恐喝の手伝い、ナイトクラブ用心棒、借金取り立て、いかさまディーラー、イベント会場のマジックショー、ホストクラブ、遺跡発掘バイト、そして錬金術師のしがない用心棒。その恐るべき力にまったく見合わないしょぼくれた仕事ばかりでなのである。不遇の天才魔法使い・ガスパール=アドルカンは自らの境遇の悲惨さを思い、なんだか涙目になってきた。
「ううっ…くそ…俺の魔法はジジイの護衛や祭の余興なんかのためにあるんじゃねんだぞ、ちくしょう…どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって…」
漆黒のローブの袖で目を拭うアドルカンを前に、魔王は困惑した。
な…何故泣く?
勿論、魔王も人間ごときに負けるつもりはなかったが、この黒い魔法使いの放つ恨みつらみのオーラに不気味なものを感じ始めていた。何をするか予想がつかない。ゆえに先制で攻撃を仕掛けるのを躊躇った。相手の出方を待ったのである。結果的に、それが魔王ロッドバルトにとって幸運となった。
「ぶっ殺してやる畜生、」
かませ犬のような台詞からは想像もつかない強力な魔力を込め、アドルカンのサーベル杖が持ち上がる。怨念に隠されていた殺気が全面に現れた瞬間、魔王は生まれて初めて背中に冷たいものが流れる感覚を味わった。
拙(まず)い、こいつは、こいつの魔力は…
だが杖が振り下ろされる前に
「まあまあ…少し待ってくれたまえ、ガスパール君」
錬金術師が割り込んだ。まったく、絶妙のタイミングであった。
「ミスター、私としてはできる限り穏便に、紳士的に話をつけたいと考えているのです」
狐の視線を魔王に絡みつかせる。
「ミスターともあろうお方がよもや敗北なさるはずは無いと思いますが…、全く被害を出さずに終われるほど彼は無能でない事はもうお分かりいただけたでしょう。ここでガスパール君とやり合うのは貴方にとっても得策とは言い難いはず。違いますか?」
錬金術師の口調は慇懃で、柔らかい。だがそれは完全に、脅迫の言葉に違いなかった。
「ジジイ…さらっと脅しかけやがった…」
「バウムガルド、貴様…」
アドルカンは怒りも忘れて呆れかえり、魔王は紅い目で錬金術師を険しく睨みつけた。が、涼しい顔で返答を待つ錬金術師の口元にはうっすら笑みすら浮かんでいる。
「どうすれば得になるか、考えるまでもないでしょう」
ややあって魔王はクッと息を吐き出し、また黒い影の体へと姿を戻した。
「…いいだろう」
魔王は部下に羊皮紙を持ってこさせると、そこに爪で撤退命令を意味する文字を記し、最後に魔力を封じ込めたサインをした。
「"あれ"に関してはお前に一任する。兵どもにはこれを見せるがいい。ただし、」
そうして錬金術師の顔面すれすれにまで爪を近づけ、警告する。
「裏切って我に害をなすような真似をすれば…その時は貴様の命は無いものと思え」
「もちろん。私には貴方に害為す理由など一つとして存在しない、自信を持ってそう申し上げられます。欲を言えば地下の飼育施設のほうもなるべく早く完成させていただければ嬉しく思いますが」
しゃあしゃあと言い放つ錬金術師の無機質な義眼に見つめられ、魔王は忌々しげに舌打ちした。
「わかっている!明日から人間の奴隷をもっと増やすよう部下に言っておく!もう下がれ!」
「どうも。…行くぞガスパール君」
「…狐め」
吐き捨てるような魔王の呟きを背に、錬金術師とアドルカンは謁見の間を後にした。
「…魔王脅迫するとか…ジジイてめえ、根っからイカレてやがるな」
黒檀の箒に跨ったアドルカンの言葉に、コカトリスの上の錬金術師は振り返る。
「君の実力があってこその策だ」
「白々しいぜ。てめえ俺を雑用係か何かみてーに思ってんだろ」
「いや。あの酒場で君に出会えた偶然に感謝しているよ」
錬金術師の口調は相変わらず淡々としていたが、先ほどの脅迫は明らかに、自らの雇った魔法使いの用心棒の力が魔王に通用する事を前提とした脅迫である。アドルカンは自分の魔力が初めて正当に評価されたことに実は密かに感動していた。
「おー、そうしろ。魔王のはらわたブチ撒けるだけの火力持った魔法使いに偶然会う確率なんて奇跡だからな」
安く見られるのが癪で、必死に仏頂面を保ってそれだけ告げたアドルカンを、錬金術師は無感動な義眼で観察していた。
第34話 お題:浮島
霧雨の降る海に、巨大な、真っ赤な鍋がひとつ、浮かんでいた。どのような原理であるのか、鍋は、海面に細く長く続くオキアミの行列に沿って、推進していた。それもボート並みのスピードで。
がろん、
と、その赤い鍋の赤い蓋が内側からずらされ、中から顔を出した者がいる。
「…はあ…はあ…」
魔法使いことユリウス=ロシエールであった。
「ブォエエ!」
魔法使いは真っ赤な鍋から半身を乗り出し、海に向かって激しく嘔吐した。
「はっ…はっ…ルシル、せなかさすっボェエエ」
仏頂面の弟子が後ろから顔を出し、渋々魔法使いの背中をさすり始める。
「先生、ル・●ルーゼがゲロで汚れます。もっと身を乗り出して下さい」
「無茶言わないでよ落ちちゃうよ!鍋ぐらいまた買えばいいじゃない」
「私のル・ク●ーゼです、愛着があるんです!ああ船がわりなんかにしてもったいない…これほんと優れものなのに…」
エルフの村を後にして、朝も早くに例の近所迷惑な追跡魔法"カノン"を行った魔法使いたちは、セグウェイや天津甘栗、蟻塚、ホームベースなどで構成された混沌の道を辿り、昼前には森を抜けていた。そうして今、オキアミの行列となって海に続く花売りの痕跡を追いかけ、遂に海へと漕ぎ出したのである。さすがに船の用意はしていなかったため、ごくスタンダードな魔法を使って、ルシルの持参していた鍋(大変高価なものらしかったが)を船の代用とする事にしたのだった。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
吐くだけ吐いてぐったりと鍋底に横たわった魔法使いが、涙目で呟く。
「…しんじゃう…」
「船酔いで人は死にませんよ。魔法でなんとかならないんですか?はい、」
冷たいセリフを返し、ルシルはレモン水をコップに注いで魔法使いに手渡した。
「なんないよ…僕、学校でも回復科の授業あんまし出てなかったし…」
「出とくべきでしたね」
「…その先生、すっごいひいきしてくるから、つらかった…」
嫌な記憶を思い出したのか、魔法使いはまだ青ざめた顔を両手で覆い、寝返りをうった。
「お姉さんにあいたい…」
微かに漏れた言葉を聞き、ルシルは、なぜ師匠があんなにも毎日、花売りのもとへ通っていたのか、その理由がほんの僅かながら理解できたような気がした。
「先生は寝てていいです。花売りさんの姿が見えたら起こしますよ」
ルシルは透明な雨合羽を羽織ると、鍋の側面にかけた梯子を登り、蓋の上に座り込んだ。どこか遠くでカモメの鳴き声が聞こえる。雨合羽のポケットから、海釣り入門と書かれた本を取り出し、ルシルは霧雨の海面を眺めた。
がろん、
と、その赤い鍋の赤い蓋が内側からずらされ、中から顔を出した者がいる。
「…はあ…はあ…」
魔法使いことユリウス=ロシエールであった。
「ブォエエ!」
魔法使いは真っ赤な鍋から半身を乗り出し、海に向かって激しく嘔吐した。
「はっ…はっ…ルシル、せなかさすっボェエエ」
仏頂面の弟子が後ろから顔を出し、渋々魔法使いの背中をさすり始める。
「先生、ル・●ルーゼがゲロで汚れます。もっと身を乗り出して下さい」
「無茶言わないでよ落ちちゃうよ!鍋ぐらいまた買えばいいじゃない」
「私のル・ク●ーゼです、愛着があるんです!ああ船がわりなんかにしてもったいない…これほんと優れものなのに…」
エルフの村を後にして、朝も早くに例の近所迷惑な追跡魔法"カノン"を行った魔法使いたちは、セグウェイや天津甘栗、蟻塚、ホームベースなどで構成された混沌の道を辿り、昼前には森を抜けていた。そうして今、オキアミの行列となって海に続く花売りの痕跡を追いかけ、遂に海へと漕ぎ出したのである。さすがに船の用意はしていなかったため、ごくスタンダードな魔法を使って、ルシルの持参していた鍋(大変高価なものらしかったが)を船の代用とする事にしたのだった。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
吐くだけ吐いてぐったりと鍋底に横たわった魔法使いが、涙目で呟く。
「…しんじゃう…」
「船酔いで人は死にませんよ。魔法でなんとかならないんですか?はい、」
冷たいセリフを返し、ルシルはレモン水をコップに注いで魔法使いに手渡した。
「なんないよ…僕、学校でも回復科の授業あんまし出てなかったし…」
「出とくべきでしたね」
「…その先生、すっごいひいきしてくるから、つらかった…」
嫌な記憶を思い出したのか、魔法使いはまだ青ざめた顔を両手で覆い、寝返りをうった。
「お姉さんにあいたい…」
微かに漏れた言葉を聞き、ルシルは、なぜ師匠があんなにも毎日、花売りのもとへ通っていたのか、その理由がほんの僅かながら理解できたような気がした。
「先生は寝てていいです。花売りさんの姿が見えたら起こしますよ」
ルシルは透明な雨合羽を羽織ると、鍋の側面にかけた梯子を登り、蓋の上に座り込んだ。どこか遠くでカモメの鳴き声が聞こえる。雨合羽のポケットから、海釣り入門と書かれた本を取り出し、ルシルは霧雨の海面を眺めた。
第35話 お題:人魚の声
「……?」
霧の中、釣り竿を垂らしてピクリともしない浮きを見つめていたルシルは、ふと違和感を感じて頭を上げた。大気が、何か、凄まじい振動に揺さぶられたような気がした。
地鳴り、か?
いや、違う、何だこれは?
「……獣の、咆哮?」
目を凝らしたが、霧に遮られ何も見えない。しかし、音は次第にはっきりと近づいている。幾度目かの振動と同時に、ル・●ルーゼの底でへたばって居たはずの魔法使いが物凄い勢いで蓋に駆け上がって来た。
「お姉さん…」
「え、…え?」
唖然とするルシルを押しのけ、鍋の縁に片足を掛けると、魔法使いは人差し指で素早く空中をかき混ぜ呪文を唱える。
「feroce(フェローチェ)、prestissimo(プレスティッシモ)、邪魔だ、早くどかしてどかして」
すると、どこからともなくキィーンという耳障りな音をたてて、雲間から魔法使いの頭上に向かって巨大な管のようなものが姿を現した。管の先には、奇妙な平たい直方体が付いており、魔法使いが指を振ると、周囲の霧はみるみるうちにその直方体に吸い込まれて消えていってしまった。霧だけでなく若干の魚や海水とルシルまでも吸い込みかけたところで、管は吸引をやめ、無数の灰色のカモメに姿を変えて霧散した。
「…先生、何の予告もなく大技出すのやめていただけませんか」
「ご、ごめんねルシル…」
頭に乗ったワカメを投げ捨てながら静かな怒りを露わにしたルシルを、魔法使いはすまなそうに振り返ったが、彼の視線はすぐまた海上に戻ってしまった。
「違うの、なんか、今お姉さんが近くに居るような気がしてさ、ごめんね、ね、でも霧消したからルシルも探すの手伝って、ね、ね」
「…花売りさんが?獣の鳴き声みたいなのならさっきちょっと聴こえましたけど、…」
ルシルがそう答えた瞬間、再び咆哮が轟いた。今度はずっと近い。はっきりとこう聞こえた。
イラ゙ッシャイ゙マ゙ッセェエエエエーーーッ!
声の方角、水平線の手前あたりに、どおんと水柱が上がる。キラキラと飛び散った細かいシルエットは、魚だろうか。それを空中で次々に手掴みしている人影、
「あ、あああああ…!」
魔法使いは身を乗り出した。
間違いない。ドルフィンキックであれだけの高さ飛び上がった挙げ句に空中で魚を掴み取りする人間など、考えられなかった。
花売り以外には。
そもそもこうした大海原の真ん中を"泳いでいる"こと自体が、確たる証拠である。
「ああっ、なっ、ねふっ、」
魔法使いは言葉にならない奇声を漏らしながら、もはや半ば無意識、本能的な動作で指を振って魔法を発動させると、空飛ぶ生肉に乗り、吸い寄せられるかのように花売りの方へと近付き始めた。途端、
「ちょ、ちょっと待ってください先生、」
ルシルが生肉の端を掴んで引き留める。
「あっぶな、なにす…」
「さっき私が聞いた獣の声みたいなのは、花売りさんのイラッシャイマセーてやつとは違いました。方角が違う、私が聞いたのはもっと後ろの方からで、」
「い、今そんなのいいよ!早くしないとお姉さんまたどっか行っちゃう、」
「でも何かいやな予感がするんです、四分の一エルフの血統の者としてこういう違和感を無視するのは危険が、」
だが魔法使いは弟子の言葉を最後まで聞こうとせず、そしていっそ清々しいくらいに、言い切ったのだった。
「たとえ危険があったって構わない、僕はッ、今すぐッ!お姉さんに真っ二つにされるッ!」
「……え………」
唖然となった、というよりもドン引きしたルシルの手に生肉のかけらを残し、魔法使いは飛び出して行ってしまった。
「…………」
拝啓お祖母さま、銀魚舞い散る今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。残念ながら私の方からは悲しいお知らせがあります、私の師匠はとってもアレな人でした…もうこれマゾヒズムなんて生易しいもんじゃない猟奇レベルのあれでございました。師匠にするべき人を間違えたのかもしれまフッフーゥ!もうだめかも!もうついてけないかも!ハハハァ!
ルシルの頭の中にそんなモノローグが流れたのと同時に、上空背後の辺りから、花売りのそれとは違う咆哮が再び降り注いだ。
霧の中、釣り竿を垂らしてピクリともしない浮きを見つめていたルシルは、ふと違和感を感じて頭を上げた。大気が、何か、凄まじい振動に揺さぶられたような気がした。
地鳴り、か?
いや、違う、何だこれは?
「……獣の、咆哮?」
目を凝らしたが、霧に遮られ何も見えない。しかし、音は次第にはっきりと近づいている。幾度目かの振動と同時に、ル・●ルーゼの底でへたばって居たはずの魔法使いが物凄い勢いで蓋に駆け上がって来た。
「お姉さん…」
「え、…え?」
唖然とするルシルを押しのけ、鍋の縁に片足を掛けると、魔法使いは人差し指で素早く空中をかき混ぜ呪文を唱える。
「feroce(フェローチェ)、prestissimo(プレスティッシモ)、邪魔だ、早くどかしてどかして」
すると、どこからともなくキィーンという耳障りな音をたてて、雲間から魔法使いの頭上に向かって巨大な管のようなものが姿を現した。管の先には、奇妙な平たい直方体が付いており、魔法使いが指を振ると、周囲の霧はみるみるうちにその直方体に吸い込まれて消えていってしまった。霧だけでなく若干の魚や海水とルシルまでも吸い込みかけたところで、管は吸引をやめ、無数の灰色のカモメに姿を変えて霧散した。
「…先生、何の予告もなく大技出すのやめていただけませんか」
「ご、ごめんねルシル…」
頭に乗ったワカメを投げ捨てながら静かな怒りを露わにしたルシルを、魔法使いはすまなそうに振り返ったが、彼の視線はすぐまた海上に戻ってしまった。
「違うの、なんか、今お姉さんが近くに居るような気がしてさ、ごめんね、ね、でも霧消したからルシルも探すの手伝って、ね、ね」
「…花売りさんが?獣の鳴き声みたいなのならさっきちょっと聴こえましたけど、…」
ルシルがそう答えた瞬間、再び咆哮が轟いた。今度はずっと近い。はっきりとこう聞こえた。
イラ゙ッシャイ゙マ゙ッセェエエエエーーーッ!
声の方角、水平線の手前あたりに、どおんと水柱が上がる。キラキラと飛び散った細かいシルエットは、魚だろうか。それを空中で次々に手掴みしている人影、
「あ、あああああ…!」
魔法使いは身を乗り出した。
間違いない。ドルフィンキックであれだけの高さ飛び上がった挙げ句に空中で魚を掴み取りする人間など、考えられなかった。
花売り以外には。
そもそもこうした大海原の真ん中を"泳いでいる"こと自体が、確たる証拠である。
「ああっ、なっ、ねふっ、」
魔法使いは言葉にならない奇声を漏らしながら、もはや半ば無意識、本能的な動作で指を振って魔法を発動させると、空飛ぶ生肉に乗り、吸い寄せられるかのように花売りの方へと近付き始めた。途端、
「ちょ、ちょっと待ってください先生、」
ルシルが生肉の端を掴んで引き留める。
「あっぶな、なにす…」
「さっき私が聞いた獣の声みたいなのは、花売りさんのイラッシャイマセーてやつとは違いました。方角が違う、私が聞いたのはもっと後ろの方からで、」
「い、今そんなのいいよ!早くしないとお姉さんまたどっか行っちゃう、」
「でも何かいやな予感がするんです、四分の一エルフの血統の者としてこういう違和感を無視するのは危険が、」
だが魔法使いは弟子の言葉を最後まで聞こうとせず、そしていっそ清々しいくらいに、言い切ったのだった。
「たとえ危険があったって構わない、僕はッ、今すぐッ!お姉さんに真っ二つにされるッ!」
「……え………」
唖然となった、というよりもドン引きしたルシルの手に生肉のかけらを残し、魔法使いは飛び出して行ってしまった。
「…………」
拝啓お祖母さま、銀魚舞い散る今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。残念ながら私の方からは悲しいお知らせがあります、私の師匠はとってもアレな人でした…もうこれマゾヒズムなんて生易しいもんじゃない猟奇レベルのあれでございました。師匠にするべき人を間違えたのかもしれまフッフーゥ!もうだめかも!もうついてけないかも!ハハハァ!
ルシルの頭の中にそんなモノローグが流れたのと同時に、上空背後の辺りから、花売りのそれとは違う咆哮が再び降り注いだ。
第36話 お題:割れた卵
晴れた(晴らした)霧の向こうに見たその姿に向かって魔法使いはただひたすらに生肉を走らせる。風を切るスピードが、海面に飛沫を上げる。上空より近づく何者かの気配も、弟子の忠告も置き去りにして、一直線に花売りの元へ。
お姉さん、花売りのお姉さん、僕はあなたの名前を知らない。あなたが何処から来たのかも、どんな育ち方をしたのかも、何ひとつ知らないし、まして僕自身がなぜこんなにもあなたに惹かれてしまうのか、その理由すらわからない。
でもこれだけは言える、お姉さん、僕はあなたに頭から真っ二つにされるのが好きです。胴体から輪切りにされるのも好きです。打撃で叩き斬られるのも、賽の目状に48分割されるのも、ただ手で無造作に引きちぎられるのも、一瞬今日こそまともに花を売ってくれるのかなと見せかけて結局デッドアングルアタックで肉片にされるのも全部、
お姉さん、僕はあなたのことが好きです。
胸の奥で、堰を切ったように溢れ出した心からの言葉たちはしかし、魔法使いの口から外に出される事は無かった。彼が口にしたのはただの一言。
「おねーさん黒いカスミ草くださァアアアアい!!!」
じゃぼっ、
海面から頭を出した花売りは口にウツボをくわえていた。澄んだ緑色の瞳が魔法使いを数秒見つめる。瞬間、奇跡のように整った顔に、美しく凶悪な笑みを浮かばせた花売りは、ウツボを片手に握りなおし、
跳んだ。
「何でいんのよおまえあたしの風穴に虫ゼリー詰めておもしろマガジンに載せる気かこのバットマンレギンスがァアアアーッ!」
「ギャアアアアアアうつぼは新機軸ぅううう!」
魔法使いの身体は鞭と化したウツボによってバラバラに切り裂かれ、パーツごとに時間差で海に墜落した。花売りはその頭の部分だけを片手でキャッチし、ウツボを噛りながら、言った。
「なんでいんの?わかったもしかしておまえってチッソかっ!」
「え…?いや、あの…え?チッソって?ぼ、僕はあの、お姉さんが急にいなくなったからあの…あ……」
首だけになった魔法使いは花売りの緑色の瞳がとても近くて、泣きそうになった。いや、気付いた時にはもう涙が零れていた。
「…あいたかったんです…」
ぽろぽろと涙を落とす魔法使いの生首を、花売りはまばたき一つせずにじっと眺めると、
「あっ!出てる!!」
何故か感心した表情でそう叫び、もっと出るとでも思ったのか掴んだ首をブンブン振った。
「ちょ、やめっ…振、ら、な、い、でっ…ブェエ!」
「出ない!?」
「そっ…何…出っ…あああ脳みそ崩れちゃうっ!やめてぇええ」
目を回す魔法使いに構わず花売りはしばらく生首を振り続けていたが、唐突に手を止めるとウツボを一かじりして、聞き逃せない言葉を吐いた。
「バイバイしたのになんでチッソみたいになってんのおまえ。グッチョがうぜえから、あたしわざわざ海鮮丼売ってんのに意味ないじゃん。あっ!オホーツク丼よォオオ!!イラッシャイマセヨロコンデェエエーーっ!!!!」
「ギニャー!鼓膜がぁあ!」
振り回された上に更に耳元でがなりたてられた魔法使いの生首は、耳血を流しながらも
「あああこの感じ久しぶり…じゃなくてあの…グッチョって何なんですか?」
漸くそれだけ尋ねた。エルフの長老も、花売りがその名を叫んでいた、と語っている。
グッチョとは一体何者なのか?
すると花売りは
「何でおまえがグッチョ知ってんだ気持ち悪ィイイイ!」
「さっき自分で言ったじゃなああああスピッツ!」
生首の魔法使いを容赦なく海面に叩きつけた。
「グッチョね!!ゴハンくれるわよっ!!肉とかっ!」
飲み込んでしまった海水が魔法使いの首から滴る。
「ううう…ゴハンなら僕だってあげますよっ…グッチョはお姉さんの何なんですか、」
「ゲーム脳っ!」
理解不能の返答をした後、花売りは、なぜだか再び魔法使いをじっと見つめた。
「…おまえってさあ!」
凡そ15メーター先の海面を漂う魔法使いの心臓の鼓動がドキドキと速まり、群がっていた魚達がパッと散る。
「……は…い…」
「よく見ると牛乳に似てるわねっ!」
相変わらず全く意味不明ではあったが、魔法使いにはどういう訳か、花売りのその言葉に何か、温かく柔らかい響きがあったように感じられた。
「え…あの、…今のは…」
しかしそれも束の間、
「もうグッチョ来るからっ!グッチョ来るとジョンジョン祭りだから!ちょっとどっか行っておまえ!」
という台詞と共に何の躊躇もなく放たれた花売りの音速の突きによって魔法使いの生首は更に細かい肉片となって四散した。
「なあああああ今なんかちょっと期待したのに…し、た、の、にぃい……」
いかに天才魔法使いと言えども、こうまで細切れに破壊されてしまってはさすがに今すぐに再生、という訳にはいかない。死には至らなくとも、気絶には充分過ぎるダメージである。
…ああん…これ以上バラされるとは…思わなかったよお姉さ…ん…?
恍惚の中意識を失う直前、ぷかりと浮かんだ2つの眼球の視界が、ある光景を映した。
奇妙な鳥に乗った黒衣の男が上空から、まるで鳩に餌をやるかのような動きで花売りの方へ何かを投げている。
え…なにそれ…、誰あれ…
そして早くも魚に啄まれ始めた魔法使いの耳部分もまた、波音の合間に微かに、こんな声を聞いていた。
「随分、捜したよ。私のかわいいバージニア…」
お姉さん、花売りのお姉さん、僕はあなたの名前を知らない。あなたが何処から来たのかも、どんな育ち方をしたのかも、何ひとつ知らないし、まして僕自身がなぜこんなにもあなたに惹かれてしまうのか、その理由すらわからない。
でもこれだけは言える、お姉さん、僕はあなたに頭から真っ二つにされるのが好きです。胴体から輪切りにされるのも好きです。打撃で叩き斬られるのも、賽の目状に48分割されるのも、ただ手で無造作に引きちぎられるのも、一瞬今日こそまともに花を売ってくれるのかなと見せかけて結局デッドアングルアタックで肉片にされるのも全部、
お姉さん、僕はあなたのことが好きです。
胸の奥で、堰を切ったように溢れ出した心からの言葉たちはしかし、魔法使いの口から外に出される事は無かった。彼が口にしたのはただの一言。
「おねーさん黒いカスミ草くださァアアアアい!!!」
じゃぼっ、
海面から頭を出した花売りは口にウツボをくわえていた。澄んだ緑色の瞳が魔法使いを数秒見つめる。瞬間、奇跡のように整った顔に、美しく凶悪な笑みを浮かばせた花売りは、ウツボを片手に握りなおし、
跳んだ。
「何でいんのよおまえあたしの風穴に虫ゼリー詰めておもしろマガジンに載せる気かこのバットマンレギンスがァアアアーッ!」
「ギャアアアアアアうつぼは新機軸ぅううう!」
魔法使いの身体は鞭と化したウツボによってバラバラに切り裂かれ、パーツごとに時間差で海に墜落した。花売りはその頭の部分だけを片手でキャッチし、ウツボを噛りながら、言った。
「なんでいんの?わかったもしかしておまえってチッソかっ!」
「え…?いや、あの…え?チッソって?ぼ、僕はあの、お姉さんが急にいなくなったからあの…あ……」
首だけになった魔法使いは花売りの緑色の瞳がとても近くて、泣きそうになった。いや、気付いた時にはもう涙が零れていた。
「…あいたかったんです…」
ぽろぽろと涙を落とす魔法使いの生首を、花売りはまばたき一つせずにじっと眺めると、
「あっ!出てる!!」
何故か感心した表情でそう叫び、もっと出るとでも思ったのか掴んだ首をブンブン振った。
「ちょ、やめっ…振、ら、な、い、でっ…ブェエ!」
「出ない!?」
「そっ…何…出っ…あああ脳みそ崩れちゃうっ!やめてぇええ」
目を回す魔法使いに構わず花売りはしばらく生首を振り続けていたが、唐突に手を止めるとウツボを一かじりして、聞き逃せない言葉を吐いた。
「バイバイしたのになんでチッソみたいになってんのおまえ。グッチョがうぜえから、あたしわざわざ海鮮丼売ってんのに意味ないじゃん。あっ!オホーツク丼よォオオ!!イラッシャイマセヨロコンデェエエーーっ!!!!」
「ギニャー!鼓膜がぁあ!」
振り回された上に更に耳元でがなりたてられた魔法使いの生首は、耳血を流しながらも
「あああこの感じ久しぶり…じゃなくてあの…グッチョって何なんですか?」
漸くそれだけ尋ねた。エルフの長老も、花売りがその名を叫んでいた、と語っている。
グッチョとは一体何者なのか?
すると花売りは
「何でおまえがグッチョ知ってんだ気持ち悪ィイイイ!」
「さっき自分で言ったじゃなああああスピッツ!」
生首の魔法使いを容赦なく海面に叩きつけた。
「グッチョね!!ゴハンくれるわよっ!!肉とかっ!」
飲み込んでしまった海水が魔法使いの首から滴る。
「ううう…ゴハンなら僕だってあげますよっ…グッチョはお姉さんの何なんですか、」
「ゲーム脳っ!」
理解不能の返答をした後、花売りは、なぜだか再び魔法使いをじっと見つめた。
「…おまえってさあ!」
凡そ15メーター先の海面を漂う魔法使いの心臓の鼓動がドキドキと速まり、群がっていた魚達がパッと散る。
「……は…い…」
「よく見ると牛乳に似てるわねっ!」
相変わらず全く意味不明ではあったが、魔法使いにはどういう訳か、花売りのその言葉に何か、温かく柔らかい響きがあったように感じられた。
「え…あの、…今のは…」
しかしそれも束の間、
「もうグッチョ来るからっ!グッチョ来るとジョンジョン祭りだから!ちょっとどっか行っておまえ!」
という台詞と共に何の躊躇もなく放たれた花売りの音速の突きによって魔法使いの生首は更に細かい肉片となって四散した。
「なあああああ今なんかちょっと期待したのに…し、た、の、にぃい……」
いかに天才魔法使いと言えども、こうまで細切れに破壊されてしまってはさすがに今すぐに再生、という訳にはいかない。死には至らなくとも、気絶には充分過ぎるダメージである。
…ああん…これ以上バラされるとは…思わなかったよお姉さ…ん…?
恍惚の中意識を失う直前、ぷかりと浮かんだ2つの眼球の視界が、ある光景を映した。
奇妙な鳥に乗った黒衣の男が上空から、まるで鳩に餌をやるかのような動きで花売りの方へ何かを投げている。
え…なにそれ…、誰あれ…
そして早くも魚に啄まれ始めた魔法使いの耳部分もまた、波音の合間に微かに、こんな声を聞いていた。
「随分、捜したよ。私のかわいいバージニア…」
第37話 お題:小さな約束
ルシルには、真っ二つ目当てで花売りのもとへと去ってしまった魔法使いの後ろ姿を悠長に見送っている余裕は無かった。
「…ほらもぉおおだから言ったのに…っ」
赤い鍋のすぐ後ろの上空に現れた、奇怪な魔物の軍団を目にしたからである。翼の生えた牛のような魔物、鳥の化け物のような魔物、何とも言えない不気味なブヨブヨした塊、少なく見積もっても100匹は居る。それらが咆哮を上げながらこちらへ向かって来るではないか。その先達の視線は間違いなく弟子の乗る鍋に向けられている。
「せ…先生、」
ルシルは魔法使いの方をもう一度振り返った。ちょうど花売りによって水しぶきと共にバラバラにされているところだった。
「肝心な時に役たたずなんだからな…くそっ」
ルシルはため息をついて、鞄からフライ返しを取り出した。魔法使いがこちらの状況に気付いてくれるまでなんとか時間を稼ぐしかない。しかし相手の数が数である。自分が確実に使えるベーシックな魔法で対処できるとは、思えなかった。自信がなく気乗りしなかったが、師匠の魔法である混沌の力を使うよりほか無い、ルシルはそう決断した。
「先に言っておきますが、正直、私、実戦でこの魔法使用するの初めてなんで、悪いけど色々間違いますよ!嫌な人は帰ってください!」
通じるかどうか、一応、そう断っておいてから、ルシルは頭上にフライ返しを構えた。
「前菜下準備、最初は…あー、そうですね、マリネでいきます、海ですし」
フライ返しが微妙な動きで角度を変える。魔物達の動きが止まった。金切り声が大気を震わせる。次の瞬間、最前列の魔物達は目を押さえてのたうち回っていた。
酢である。
大気中を竜の如く駆け巡る酢の流れ。それが魔物たちの目を狙い撃ちしているのだった。ルシルは次の段階の魔法を叫ぶ。
「クレイジーソルトッ!」
別に必殺技名ではない。そういう塩が存在するのである。海面から立ち上がったのは、コショウ、オニオンパウダー、ガーリックパウダー、カレー粉、オレガノ、タイム、パセリ、レモンパウダーを混ぜ込んだ美味しい塩の竜。美味しい塩の竜は、酢の竜の後をなぞるような軌道を描いて翔んだ。やはり魔物たちの目を狙って。それらを微妙な角度で制御するフライ返しを一気に翻し、ルシルはボソッと呟いた。
「炙り入ります、」
最前列の魔物10匹あまりがボッ、と一瞬燃え上がった。かと思うとそこにどこからともなくレモン汁が滝のように降り注いだ。
直後、醤油。
「あっ!レモンだけでいいのに…くっそ…炙りはレモンだけで充分なんだよ!なんでも醤油かけて食う奴が許せないんだ私はっ」
チャカッ、と鋭い音をたててフライ返しが舞う。熱々の茹でたほうれん草が魔物たちの顔面にぴったりと貼りついたかと思うと、どこからともなく卵が降ってきて、それがどろどろに煮えた野菜ソースと共に爆発した。
キャアアアアアア!
あちらこちらで恐ろしい悲鳴が上がる。陣形をバラバラに乱して悶え苦しむ魔物たち。
だがルシルは鍋のふちにガクリと手を付いた。
「なんっでそこで野菜ソースなんだ…違うだろ?ほうれん草オムレツにはホワイトソースだろ?…なんでこうなる?制御しきったつもりだったのに…ほうれん草に野菜ソースだなんて…信じきれない…最悪だ、我慢ならない…」
師匠である魔法使い、ユリウス=ロシエールから、ルシルは混沌の力を操る術を教わった。とは言うものの、混沌の力は世界に内在する無限の偶然の力そのもの。その全てを操る事など、弟子であるルシルには不可能だった。彼がコントロールできるのは、自らが最も良く知る、世界の中のごく限られた一部分に内包された混沌の力のみである。その一部分とはつまり、キッチン。料理の腕前はプロレベルであることを自負するルシルは、己が完璧に熟知していると思っていたはずのキッチン周りの混沌を制御し損ねた事に、衝撃を受けていた。神経質な性格も相まって、彼の目にはいつしか、
素材の味を殺しちゃうような使い方をするのは絶対だめよ!や・く・そ・く!だって野菜がかわいそうじゃない?
と、ウインクする人気女性料理研究家の幻影が見えはじめていた。
「…何がいけないって、そもそもあのホワイトソースは実に使い方が限定されるくせがある、だから作り置きしてもその存在を忘れてしまい、いざという時に結局使わずじまいになる…それが魔法に出るんだ…しかし…どうすれば…」
ぶつぶつと反省会を始めたルシルの頭上に、ようやく目の中の塩を洗い流し終えた、魔物の一匹が迫る。魔物は爪を振り上げ、急降下してゆく。
「…はっ!」
鍋の中にその影が映り込んでから漸く、弟子は頭を上げた。
「わかった、カッテージチーズだ!カッテージチーズを入れればいいんだ、それにスパイス…ガラムマサラ…これだ!」
これだった。ルシルはホワイトソースを余らせないための完全な答えを手に入れた。その代わり魔物の攻撃には気付かなかった。
だがレシピをメモするルシルの頭に魔物の爪が今まさに食い込もうとしたその時である、
「ちょっと待てコルァア!!ちゅうもーーーく!」
ハスキーで、ややトーンの高い、実に噛ませ犬的な怒号が響き渡った。
「…ほらもぉおおだから言ったのに…っ」
赤い鍋のすぐ後ろの上空に現れた、奇怪な魔物の軍団を目にしたからである。翼の生えた牛のような魔物、鳥の化け物のような魔物、何とも言えない不気味なブヨブヨした塊、少なく見積もっても100匹は居る。それらが咆哮を上げながらこちらへ向かって来るではないか。その先達の視線は間違いなく弟子の乗る鍋に向けられている。
「せ…先生、」
ルシルは魔法使いの方をもう一度振り返った。ちょうど花売りによって水しぶきと共にバラバラにされているところだった。
「肝心な時に役たたずなんだからな…くそっ」
ルシルはため息をついて、鞄からフライ返しを取り出した。魔法使いがこちらの状況に気付いてくれるまでなんとか時間を稼ぐしかない。しかし相手の数が数である。自分が確実に使えるベーシックな魔法で対処できるとは、思えなかった。自信がなく気乗りしなかったが、師匠の魔法である混沌の力を使うよりほか無い、ルシルはそう決断した。
「先に言っておきますが、正直、私、実戦でこの魔法使用するの初めてなんで、悪いけど色々間違いますよ!嫌な人は帰ってください!」
通じるかどうか、一応、そう断っておいてから、ルシルは頭上にフライ返しを構えた。
「前菜下準備、最初は…あー、そうですね、マリネでいきます、海ですし」
フライ返しが微妙な動きで角度を変える。魔物達の動きが止まった。金切り声が大気を震わせる。次の瞬間、最前列の魔物達は目を押さえてのたうち回っていた。
酢である。
大気中を竜の如く駆け巡る酢の流れ。それが魔物たちの目を狙い撃ちしているのだった。ルシルは次の段階の魔法を叫ぶ。
「クレイジーソルトッ!」
別に必殺技名ではない。そういう塩が存在するのである。海面から立ち上がったのは、コショウ、オニオンパウダー、ガーリックパウダー、カレー粉、オレガノ、タイム、パセリ、レモンパウダーを混ぜ込んだ美味しい塩の竜。美味しい塩の竜は、酢の竜の後をなぞるような軌道を描いて翔んだ。やはり魔物たちの目を狙って。それらを微妙な角度で制御するフライ返しを一気に翻し、ルシルはボソッと呟いた。
「炙り入ります、」
最前列の魔物10匹あまりがボッ、と一瞬燃え上がった。かと思うとそこにどこからともなくレモン汁が滝のように降り注いだ。
直後、醤油。
「あっ!レモンだけでいいのに…くっそ…炙りはレモンだけで充分なんだよ!なんでも醤油かけて食う奴が許せないんだ私はっ」
チャカッ、と鋭い音をたててフライ返しが舞う。熱々の茹でたほうれん草が魔物たちの顔面にぴったりと貼りついたかと思うと、どこからともなく卵が降ってきて、それがどろどろに煮えた野菜ソースと共に爆発した。
キャアアアアアア!
あちらこちらで恐ろしい悲鳴が上がる。陣形をバラバラに乱して悶え苦しむ魔物たち。
だがルシルは鍋のふちにガクリと手を付いた。
「なんっでそこで野菜ソースなんだ…違うだろ?ほうれん草オムレツにはホワイトソースだろ?…なんでこうなる?制御しきったつもりだったのに…ほうれん草に野菜ソースだなんて…信じきれない…最悪だ、我慢ならない…」
師匠である魔法使い、ユリウス=ロシエールから、ルシルは混沌の力を操る術を教わった。とは言うものの、混沌の力は世界に内在する無限の偶然の力そのもの。その全てを操る事など、弟子であるルシルには不可能だった。彼がコントロールできるのは、自らが最も良く知る、世界の中のごく限られた一部分に内包された混沌の力のみである。その一部分とはつまり、キッチン。料理の腕前はプロレベルであることを自負するルシルは、己が完璧に熟知していると思っていたはずのキッチン周りの混沌を制御し損ねた事に、衝撃を受けていた。神経質な性格も相まって、彼の目にはいつしか、
素材の味を殺しちゃうような使い方をするのは絶対だめよ!や・く・そ・く!だって野菜がかわいそうじゃない?
と、ウインクする人気女性料理研究家の幻影が見えはじめていた。
「…何がいけないって、そもそもあのホワイトソースは実に使い方が限定されるくせがある、だから作り置きしてもその存在を忘れてしまい、いざという時に結局使わずじまいになる…それが魔法に出るんだ…しかし…どうすれば…」
ぶつぶつと反省会を始めたルシルの頭上に、ようやく目の中の塩を洗い流し終えた、魔物の一匹が迫る。魔物は爪を振り上げ、急降下してゆく。
「…はっ!」
鍋の中にその影が映り込んでから漸く、弟子は頭を上げた。
「わかった、カッテージチーズだ!カッテージチーズを入れればいいんだ、それにスパイス…ガラムマサラ…これだ!」
これだった。ルシルはホワイトソースを余らせないための完全な答えを手に入れた。その代わり魔物の攻撃には気付かなかった。
だがレシピをメモするルシルの頭に魔物の爪が今まさに食い込もうとしたその時である、
「ちょっと待てコルァア!!ちゅうもーーーく!」
ハスキーで、ややトーンの高い、実に噛ませ犬的な怒号が響き渡った。
第38話 お題:道化師
「ちょっと待てコルァア!ちゅうもーーーく!」
魔物たちの群れは動きを止め、振り返る。声の主、黒檀のホウキに乗った黒ずくめの魔法使い、ガスパール・アドルカンが、紫色の光を放つ文様の描かれた羊皮紙を掲げていた。
「てめえらの親玉から伝言だ。この件は、ジジイ…錬金術師・ギュンター=バウムガルド卿に一任された。平たく言えばおまえらは用無しって事っ!特にロシエールに手出しした奴は、俺がその場でぶっ殺す。以上、わかったら帰れ、邪魔だ」
鷹揚な物言いのアドルカンに対し、ひきつった表情を見せる魔物も少なくはなかった。しかしこの黒い魔導師の手にする羊皮紙は間違いなく、彼ら魔物たちのボスである魔王によって書かれた正式な通達書である。最も用心深い、カラスの頭を持つ魔物がアドルカンのホウキに近づいて、それを確認した。
「ホンモノノヨウダ…」
カラス頭は、信じられない、といった顔で他の魔物たちに頷いてみせた。
「別に疑っても構わねーんだぜ。一匹のこらず灰になりたきゃあな」
クックッ、と、剣呑な笑みを漏らし、サーベル型の魔法杖に手をかけるアドルカンに、カラス頭は僅かにたじろぎ、無言のまま他の魔物たちと共にその場を後にした。
「さァて…積年の恨みを晴らす時が来たぜェエこの野郎…」
満足気に魔物たちを見送って、アドルカンは海面に浮かんだ真っ赤な鍋の上に着陸した。ところが
「…あれ?」
鍋の上に居たのは、何やら凄まじい勢いでメモを取っている弟子のみ。
「おい、ロシエールは?」
「ちょっと待って下さい。今新生ホワイトソースを使った新しいレシピを思いついたところなので」
「は…?待てって何だよ、…つーかてめえ俺が来なかったら魔物の群れ、」
「黙って!ちょっと待って下さい、ちゃんと答えますから…」
「…黙っ……だって…」
とりつくしまもない様子でメモを続けるルシルに、思わず絶句してしまい、結果的に言われた通り黙ってしまった自分をアドルカンは呪った。
「…バジルを…く…わ…え…て、完成、っと…よし」
ルシルはようやくそのクォーターエルフらしく端正に整った顔をアドルカンに真っ直ぐ向けた。
「はい。良いですよ、ご用件を」
「……くっ……」
くぅあああなんなのこいつなんなの腹立つ、腹立つやっぱロシエールの弟子だこいつ畜生ぉおおおーーッ!
ちょっと泣きたくなるくらいはらわたが煮えくり返っていたが、ここで怒りを顕にするのも何だか悔しく、アドルカンは深呼吸して我慢すると、
「ろ、ロシエールどこだよ…あの野郎に用がある」
震え声でそう告げた。するとルシルは、
「あぁ…」
と、一瞬暗い顔をして、海上を指差した。
「先生は今たぶん肉片になってますから、すぐ対応できません。伝言がおありでしたら後で私からお伝えします」
「はあっ!?」
驚きを隠す事ができず素っ頓狂な声を上げ、アドルカンは、慌てて海面に身を乗り出して目を凝らす。
「どういうこと……ギャアアアアアアアアーッ!?」
かなりおぞましいものがぷかぷかと、あちらこちらに浮かんでいた。しかもそれを魚が啄んでいる。
「ななななんで!?これなんでこんななってんだこれオイ!てめえなんで平然としちゃってんの!?大事件じゃねーかオイ!」
「花売りさんに会うとだいたいいつも肉片にされますが、そうですね…さっき見た感じだと今回はいつにもましてバラバラのグッチャグチャにされたみたいですね。でもまあしばらくすれば勝手に元に戻りますよ」
「戻んの!?」
「ええ。あ、そうか、思い出しました。あなた先生のご学友の方ですね。先生、前に1度魔道具の事故で粉々というかまさに粉みたいになりましたが別に大丈夫だったんで、心配は無用ですよ」
「そ…そうなんだ……じゃねえよ!ふざけんな、心配なんかしてたまるかよ!俺は決闘…あああ、つーか時間かかんのかよ、アレ元に戻るまで」
「夕方くらいまでには」
「何でだよ…せっかく決闘…これじゃ何のために魔物追っ払ったかわかんねえじゃねーかよ…道化か俺は、え?くっそ…」
頭を抱えて座り込むアドルカンに、頭上から声が降り注いだ。
「ガスパール君、用は済んだかな。来たまえ。一旦、塔に戻る」
コカトリスに乗った吸血鬼のような男、錬金術師と、その隣に浮遊する不気味な黒い棺桶。棺桶からは何か妙な地鳴りのような音が鳴り響いていた。
「ちくしょ…おい、クォーターエルフ!てめえロシエールに伝えとけ、次は必ず殺す、ってな」
次はも何も、別に戦ってるわけでもあるまいし、この人は何を言っているのか。そもそも何をしにきたのかもよくわからない。さすがに先生のご学友だな、意味不明だ。と、ルシルは一瞬思ったが、それよりも棺桶の存在が気になった。尋ねてみようかとも考えたが、きり出す前に、既に2人の黒い魔術師は上空遥かに消えていた。
消えた花売り
棺桶
「…まさか、お姉さんは、あの中に?」
そういえば地鳴りのような音はいびきにも似ていた。ルシルは海面の魔法使い(の一部)に目を遣り、
「先生、もしかしたらバラバラになってる場合じゃなかったかも知れません…」
と、小さく呟いた。
魔物たちの群れは動きを止め、振り返る。声の主、黒檀のホウキに乗った黒ずくめの魔法使い、ガスパール・アドルカンが、紫色の光を放つ文様の描かれた羊皮紙を掲げていた。
「てめえらの親玉から伝言だ。この件は、ジジイ…錬金術師・ギュンター=バウムガルド卿に一任された。平たく言えばおまえらは用無しって事っ!特にロシエールに手出しした奴は、俺がその場でぶっ殺す。以上、わかったら帰れ、邪魔だ」
鷹揚な物言いのアドルカンに対し、ひきつった表情を見せる魔物も少なくはなかった。しかしこの黒い魔導師の手にする羊皮紙は間違いなく、彼ら魔物たちのボスである魔王によって書かれた正式な通達書である。最も用心深い、カラスの頭を持つ魔物がアドルカンのホウキに近づいて、それを確認した。
「ホンモノノヨウダ…」
カラス頭は、信じられない、といった顔で他の魔物たちに頷いてみせた。
「別に疑っても構わねーんだぜ。一匹のこらず灰になりたきゃあな」
クックッ、と、剣呑な笑みを漏らし、サーベル型の魔法杖に手をかけるアドルカンに、カラス頭は僅かにたじろぎ、無言のまま他の魔物たちと共にその場を後にした。
「さァて…積年の恨みを晴らす時が来たぜェエこの野郎…」
満足気に魔物たちを見送って、アドルカンは海面に浮かんだ真っ赤な鍋の上に着陸した。ところが
「…あれ?」
鍋の上に居たのは、何やら凄まじい勢いでメモを取っている弟子のみ。
「おい、ロシエールは?」
「ちょっと待って下さい。今新生ホワイトソースを使った新しいレシピを思いついたところなので」
「は…?待てって何だよ、…つーかてめえ俺が来なかったら魔物の群れ、」
「黙って!ちょっと待って下さい、ちゃんと答えますから…」
「…黙っ……だって…」
とりつくしまもない様子でメモを続けるルシルに、思わず絶句してしまい、結果的に言われた通り黙ってしまった自分をアドルカンは呪った。
「…バジルを…く…わ…え…て、完成、っと…よし」
ルシルはようやくそのクォーターエルフらしく端正に整った顔をアドルカンに真っ直ぐ向けた。
「はい。良いですよ、ご用件を」
「……くっ……」
くぅあああなんなのこいつなんなの腹立つ、腹立つやっぱロシエールの弟子だこいつ畜生ぉおおおーーッ!
ちょっと泣きたくなるくらいはらわたが煮えくり返っていたが、ここで怒りを顕にするのも何だか悔しく、アドルカンは深呼吸して我慢すると、
「ろ、ロシエールどこだよ…あの野郎に用がある」
震え声でそう告げた。するとルシルは、
「あぁ…」
と、一瞬暗い顔をして、海上を指差した。
「先生は今たぶん肉片になってますから、すぐ対応できません。伝言がおありでしたら後で私からお伝えします」
「はあっ!?」
驚きを隠す事ができず素っ頓狂な声を上げ、アドルカンは、慌てて海面に身を乗り出して目を凝らす。
「どういうこと……ギャアアアアアアアアーッ!?」
かなりおぞましいものがぷかぷかと、あちらこちらに浮かんでいた。しかもそれを魚が啄んでいる。
「ななななんで!?これなんでこんななってんだこれオイ!てめえなんで平然としちゃってんの!?大事件じゃねーかオイ!」
「花売りさんに会うとだいたいいつも肉片にされますが、そうですね…さっき見た感じだと今回はいつにもましてバラバラのグッチャグチャにされたみたいですね。でもまあしばらくすれば勝手に元に戻りますよ」
「戻んの!?」
「ええ。あ、そうか、思い出しました。あなた先生のご学友の方ですね。先生、前に1度魔道具の事故で粉々というかまさに粉みたいになりましたが別に大丈夫だったんで、心配は無用ですよ」
「そ…そうなんだ……じゃねえよ!ふざけんな、心配なんかしてたまるかよ!俺は決闘…あああ、つーか時間かかんのかよ、アレ元に戻るまで」
「夕方くらいまでには」
「何でだよ…せっかく決闘…これじゃ何のために魔物追っ払ったかわかんねえじゃねーかよ…道化か俺は、え?くっそ…」
頭を抱えて座り込むアドルカンに、頭上から声が降り注いだ。
「ガスパール君、用は済んだかな。来たまえ。一旦、塔に戻る」
コカトリスに乗った吸血鬼のような男、錬金術師と、その隣に浮遊する不気味な黒い棺桶。棺桶からは何か妙な地鳴りのような音が鳴り響いていた。
「ちくしょ…おい、クォーターエルフ!てめえロシエールに伝えとけ、次は必ず殺す、ってな」
次はも何も、別に戦ってるわけでもあるまいし、この人は何を言っているのか。そもそも何をしにきたのかもよくわからない。さすがに先生のご学友だな、意味不明だ。と、ルシルは一瞬思ったが、それよりも棺桶の存在が気になった。尋ねてみようかとも考えたが、きり出す前に、既に2人の黒い魔術師は上空遥かに消えていた。
消えた花売り
棺桶
「…まさか、お姉さんは、あの中に?」
そういえば地鳴りのような音はいびきにも似ていた。ルシルは海面の魔法使い(の一部)に目を遣り、
「先生、もしかしたらバラバラになってる場合じゃなかったかも知れません…」
と、小さく呟いた。
残念ながら本編未完でここまでとなっております。機会があったらリメイクして何か形にしたいものです。