しびとつかい

最初は512シリーズの単発のお話だった「しびとつかい」を、のちに「しびとのナイフ」として続きものの連作シリーズ化した作品群です。
2008年10月18日(土)

しびとつかい

「マリオネットみたいなモノだよ」
死んだカマキリがヒョイ、とカマを動かした。アタシは息をのむ。乃木が死体を操れるというのは本当だったんだ。
「じゃあ、ヒトの死体を操ったりも…?」
「同じ能力者にはそういう事する奴もいるみたいだけど、」
乃木はあまり光の無い目でだるそうに笑って、答えた。
「他人の死体を操るなんてデリカシーに欠けた事、僕はしてないよ」
その時アタシは、なぜか乃木の言葉がひっかかった。
「…乃木、今"他人の"って言った?」
じゃあ"自分の"は?
乃木はアタシを撫でながら淋しげに囁いた。
「伊勢さん、だめだよ、」
死体のように冷たい、乃木の、手。
「気づいちゃ、だめ」
2008年10月20日(初回)

しびとのナイフ 1

帰り道、コンビニの前で乃木に会った。送ろうか、と言うので甘えることにした。
「だって怖いじゃん、例の」
「ああ、通り魔」
相づちを打つ乃木を見て、アタシは、思い出す。捕まらない通り魔事件に関する妙な噂。
有り得ない目撃証言
死体に襲われた…
「僕じゃないよ」
先に乃木が口に出して苦笑した。
「違う。そうじゃなくて、」
「同じ能力、かもね」
アタシの考えを見透かした乃木の声は穏やかだった。けれどアタシは怖かった。そいつと乃木が"出会う"ことが何だか怖くて、アタシは尋ねた。
「通り魔出たらどうする?」
「どうするも何も。普通は逃げるよ」
"普通は"と乃木は言った。

2

通り魔に出会う確率なんてそう高くない、アタシは自分に言い聞かせて、街灯の下を早足に歩く。
おとといと同じコンビニの前を通ったが、乃木は居なかった。当たり前だ。そもそもあまりコンビニに行かない乃木とあそこで会うことが珍しいのだから。
少しホッとした。犯人は今まで女を狙っている。乃木が通り魔に出会う可能性があるとしたら、アタシといる時だ。や、そんな事もない。誰か、他の女子といる可能性もある。あるの?やだな。
と、乃木の事ばかり考えていたアタシは、路地の向こうに、バンが1台ポツンと停車しているのに気づき、立ち止まった。
とても静かで。何だか嫌な予感がした。

3

仄暗い街灯に照らされる黒いバン。スモークが貼ってあって中は見えない。家に帰るにはあのバンの横を通らなくてはならないのに、意地の悪い想像がアタシの足を躊躇わせた。怖い、
コンビニまで戻ろう、と思った時、
バンの扉が開いた。降りたシルエット、男か女かも判らないそれが近づいて来る。
まだ何もされた訳ではない、まだ何もされた訳ではない、でもアタシは走り出していた。
足音、追ってきてる。
怖い
振り返れないアタシの視界に真横から小さな影が飛び込んで来た。猫だ。誘導するかのように先をゆく、
猫、
変だ、
体が曲がってる
「乃木…?」
猫はしわがれた声でヤーオと鳴いた。

4

乃木だ、
確信したアタシは、ひしゃげた猫の後について路地を曲がる。
けれどカーブミラーに映った背後の"それ"を見て、アタシは選択を誤ったことに気がついた。
女、追ってくるのは髪を振り乱した、女。操り人形みたいな不自然な走り方、あれは、
死体だ。乃木と出会わせてはいけなかったのに。路地にもう分かれ道はなかった。そして突き当たりの公園から、見慣れたシルエットが姿を現した。
「乃木だめ、」
叫んだつもりだったのに
「来ちゃ駄目、」
恐怖で大声にならなくて
「どうかと思うよ…スカート履いた死体に、その走らせ方は」
アタシは乃木の穏やかな宣戦布告を止められなかった。

5

女の死体を操る"何か"は、立ち止まった。解れた髪の毛の隙間から、灰色い目玉が、乃木を舐めまわした。深い穴のような口から、ひゅ、と、空気が漏れる。乃木は爪先で地面をいじりながら
「喉、開けないと出ないよ、声」
つまらなさそうに助言した。
「…お、まえ、」
女は手にしたナイフを乃木に向ける。
「同じ、能、力…」
「喋らせると、足のほう、ガラあきになるね、あなた」
冷ややかに、乃木が指差した。
「左足首から下、」
示されて、下を見た女の左足が、クネクネと、妙な動きをしていた。
「もらったから」
いつもと同じ、達観したような乃木の落ち着きが、アタシはなぜか、怖かった。

6

「そん、な、事が、」
「できるんだよ、あなたが知らないだけで」
乃木にそう言われて女は、ぎい、と人の声とは思えないような声を発した。思い通りにならない左足を引き摺って、乃木に襲いかかる。だが、ナイフが届く前に女の体は転倒した。
アタシは、見ていた。乃木の冷酷な魚の視線はずっと女の左足に注がれていた。乃木は、左足に体重がかかる瞬間を狙って操ったのだ。
静寂。
数秒、女の死体は動かなかった。しかし、すぐにカクンと腕が持ち上がる。女は倒れた姿勢のままナイフを掲げ、そしてその手で自分の左足を切り落とした。
「他人のだよね」
乃木はほんの僅かに眉をしかめた。

7

マリオネット使いは、マリオネットが破損したからといって傷を負う訳じゃない。死体を操る者もそうなのだろうか。左足のない女は、見えない糸に引っ張られるように起き上がった。
「ミズエの足、キり落とす、はめに、なっ、たのは、お前のせい、だ」
死体の名?
ミズエさん、
アタシは胸が痛んだ。ああ、死体は、かつてミズエさんという女の人だったんだろうか。
「同じ、能力…おマエに、俺を非難する資格が、あるか?」
死体に言われ、乃木はなぜか一瞬アタシを振り返った。無い足で地を蹴った女が跳ぶ。
「乃木っ」
悲鳴を上げたアタシから、乃木は目を、
逸らした。
「そうだね。あなたの言うとおりだよ」

8

乃木の足元から枯葉が舞い上がり、女の両目に貼り付く、
違う
枯葉ではない、蛾の死骸。視界を奪われた女のナイフは空を切る。
「もらうよ、両目」
乃木が告げた。途端、女は口をオーの字に開け、顔を掻きむしった。
砕け散る蛾。その下から出てきた両目は、グルリと白眼を剥いている。
「見え、ない」
「だろうね」
人は視覚を遮られると、目以外の感覚に集中せざるを得なくなる。恐らく乃木は、さっきの左足同様"ガラあき"になった目を…
アタシはハッとなった。これはかつて"デリカシーが無い"と乃木自身が禁じた行為ではないのか。自分で引いた線を乃木は、ごく自然に踏み越えていた。

9

女は見えない目でナイフを振り回す。
「見えないと集中できないよね」
もとは"ひと"だったそれを、乃木はつまらない玩具のように眺めている。
「今度は左手が、あいてる」
「あ゛、あ」
女が音を漏らす。
右手のナイフを、左手が、掴んでいた。左手からは、勢いのない一筋の血液が流れ落ちる。だが離さない。右手の抵抗をはねのけ、ついに左手はナイフを奪い取る。間髪を入れず左手は右手に、
深々と切りつけた。
「乃木、」
もう1度。
「乃木っ」
もう1度。女の右手首がちぎれて地面に転がって、漸く乃木はアタシの方を見た。そして言った。
「終わり」
濃い灰色の、魚の目、無感動に。

10

操っていたモノが退いたのだろう、女は動かなくなっていた。傍らの乃木が暗い声で言う。
「もう一度操るには、本人が死体のそばに来なきゃならない。すぐには来ないだろうね、顔を見られたら困るだろうから」
「乃木、」
アタシは尋ねた。
「大丈夫なの」
けれど乃木は答えなかった。
「これ、今のうちに動かせないようにしておかないと。僕がやっておくから伊勢さんは帰って」
どうして目を合わせてくれないのか、乃木は、平気なのか、
「…乃木、"これ"って言った…?」
乃木が、違う。乃木が何だか、違う。
「伊勢さん。帰って」
ああ、やっぱり、出会わせてはいけなかったんだ。

11

冷淡ではあったけれど、乃木はもと"人だったもの"を切りつけて平気でいられるタイプではない。
言うはずなのだ、ポーカーフェイスの瞳を、誰にも判らないぐらい微かに微かに揺らがせて
ごめんねミズエさん
と。ぬるい温度の、でも確かにやさしさだとわかるそれを、乃木は持っていたはずだ。
「帰れない」
アタシは言った。
「見たくないものを見ることになっちゃうよ」
抑揚のない乃木の声。その声自体はいつも通りなのに
「何をするの」
「操られると危険な部分を全部切り落とすんだよ」
壊れてく、
まるで水が低い所へ流れ込んでゆくように、それは自然に起こっていた。

12

「帰れない」
アタシはもう一度言った。
「帰れない、乃木が違くなってく、乃木があいつに壊されちゃう、」
何が言いたいのか自分でもよく判らない、ただ確かなのは、"あれ"が乃木に
お前に俺を非難する資格があるか、と言ったこと、乃木はそれに、あなたの言うとおりだ、と答えたことそして、
"あれ"を乃木と出会わせてしまったのは、アタシだということ。
「乃木ごめんなさい、戻ってきてお願いだから、いなくならないで」
訳の分からない事を並べ立て、きっとアタシはひどい顔をしていたことだろう。乃木はでも、そこで初めてアタシと目を合わせた。
「伊勢さんは、勘が良いなぁ」

13

「ごめんね」
乃木は穏やかで淋しい。
「伊勢さんのせいじゃないよ、"彼"と出会わなかったとしても、僕はいずれこういう事をしていたと思う」
乃木は、諦めている。
「仕方がないんだ。いくら自分の行動を律していたとしてもね、本質的に、僕らはこういうものだから」
「乃木は違う」
アタシは食い下がった。
「同じだよ。僕に彼を責める資格は無い」
「違う、乃木はカマキリを操ってみせた時だって、できるだけ生きたカマキリがする動きだけをさせようとしてた、それでも動揺してた、ほんのちょっとだけど、してた」
「よく、見てる…」
乃木は苦笑した。ひどく悲しそうな笑顔だった。

14

「死体を操りたい、そういう衝動があるんだよ、僕にも」
悲しそうではあった、でも乃木は、それを受け入れている。
「律しても抑えきれない。死んでるものをマリオネットとしか見れなくなる。死そのものに無関心になって、やがて誰の痛みもわからなくなる」
どうして、
「そういうものなんだ、仕方がないんだ」
どうして、諦めてしまうのか。まだ大丈夫な筈だ、だって乃木は
「…助けに来てくれたじゃん…」
「でもね伊勢さん、僕は特に、」
瞬間、アタシの心臓がギュッとなる。何故だか、焦った、その先を言わせたら、
駄目、
殆ど反射的にそう思ったアタシは、乃木を抱きしめていた。

15

「駄目だから言わないで、言っちゃ駄目、」
なぜ言わせてはいけないと、思ったのか、
それは考えないようにした。アタシは回した両手で、口をつぐんだ乃木の異常に冷たい背中を、ただ必死でさすった。
冷たい、あまりに冷たい乃木の体温が怖くて、そして可哀想で、アタシはまた涙が零れる。この変に熱い液体の温度の半分でも乃木に分けてあげられたらいいのに。
「…伊勢さん、」
黙っていた乃木が呟いた。
「あなたがいてくれるならもしかして、まだ大丈夫なのかも知れないって、」
消え入りそうな声。乃木の腕がそっと、アタシの肩に回される。
「…希望的観測だけど、思うよ…」

16

しばらくの間、アタシは乃木の背中をさすり続け、乃木は冷たい腕をアタシに巻き付けていた。遠くで犬の鳴く声と鎖の鳴る音が聞こえて、こんな状況だというのにアタシの心臓は一瞬、まるで恋人のようだ、と、不謹慎なことを思って早まったのだけれど、アタシたちの足元では街灯にミズエさんの亡骸が照らされていて、
「…帰ろうか、」
乃木は、乃木らしからぬぎこちなさでアタシの二の腕に手を添え、やんわりと体を離した。
「頼める?」
倒れた拍子にめくれてしまったミズエさんのスカートの裾を、乃木は視線を逸らして手だけで示す。
「うん」
アタシは、乃木のさっきの言葉の意味を考えていた。

17

ミズエさんのスカートを直すアタシの後ろで
「ごめんね」
と乃木は呟いた。ミズエさんに向けたものなのかは判らない。乃木は止まれたのだろうか。舗装された雑木林の帰路を急ぎながら、アタシは、どうか乃木が大丈夫でありますように、と誰にともなく祈った。
隣を歩く乃木の手がアタシの手に微かに触れる。切実に体温を欲している冷たさ。手を繋ぎたかったが、迷った。それは狡猾だ。だって乃木が欲しているのは、親身な友達としての、アタシの体温だ。アタシは違う、それだけではない感情を乃木に抱いてる。さっきのように勢いで、とは違う、知っていてつけこむのは、狡い。
ぴう、と風が通った。

18

木枯らしなのか何なのか、寒い風と同時に木々がザワザワと揺れた。乃木が少し立ち止まる。
「どうしたの」
川沿いの公園遊歩道を抜ければ、交差点、警察もある、曲がればすぐ家だ。すぐだ、
「伊勢さん」
乃木の声に被さって風の音はやまない。
「走って」
「どうしたの」
ザワザワと、枯葉を掻き分ける足音に似てる。
「急いで」
乃木の声に弾かれ、アタシは駆け出す。5歩目で振り返る。
「乃、」
言葉が、光景に塞がれた。黒い塊、人型の輪郭だけを街灯にさらして、追って来ている。いくつもの
死体が。
「止まったらだめだよ、走って、」
告げた乃木の形も、逆行で真っ暗だった。

19

心臓が煩い。ずれた時計だらけの部屋みたいに。
"あれ"が持っていたのはミズエさんだけではなかったという事なのか。あの黒いバンには、幾つもの、亡骸があったという事なのか。いや、そんな事よりも、
「乃木、」
膝同様に、アタシは言葉も震えていた。先刻と同じ場所に乃木は留まったままだ。
「はやく逃げよう!なんで」
「僕はね、」
アタシの声を遮った乃木の後ろに、額のざっくりと裂けた女性が迫っていた。映画のようで現実味がない。
「怖い。伊勢さんがいなくなってしまうことが、何よりも。だからこうするしかないんだ。お願い、走って」
そう告げて乃木はアタシに背を向けた。

20

繊細な手つきで一番前の女の向きをクルリと変えた乃木の姿は、オーケストラの指揮者に似ていた。マリオネット、という言葉を使ってはいたが、もしかしたら死体を操るのは音楽に似ているのかも知れない。人が音楽を欲するように、乃木や"あれ"には死体を操りたい衝動があるのかも知れない。
けれど乃木の奏でる曲はどうしたって悲しい。
こんなに沢山の死体を操れば、きっと乃木は乃木でなくなってしまう。けれどやらなければ、
乃木は。
誰か、人を、警察、何でもいい、呼ばなきゃ、
アタシでは駄目だ、乃木はアタシのために退路を断ったのだ。自分自身を呪いながらアタシは身を翻し、駆けた。

21

乃木はアタシが居なくなるのが怖いと言ったけれど、アタシだって乃木がいなくなるのが怖い。乃木はそれを判ってない。
だって乃木は知らない、アタシが乃木を見続けていた事を。
「仁成(じんせい)と読むんだよ」
図書カードに書かれた彼の下の名前を尋ねた時だって、アタシは本当は読み方をとっくに知ってたんだって事を、乃木は知らない。地味だけど穏やかで、特定のグループに入らず、誰とも普通に接して態度を変えない乃木が、アタシにとって特別な存在だった事を、乃木は知らないのだ。
泣きたくなった。走る先がよく見えない。交差点が近いはずだ、誰か、
人の姿が見えた気がした。

22

枯れ葉の下の地面の凹凸に足を取られながら、アタシは叫んだ。
「助けてください、友達が、大変なんです、警察を」
支離滅裂だ、でも死人が動いているなんて言えないし、ああ、こうしている間にも乃木は。
「どうしました、大丈夫ですか」
駆けてきた人影が若い男の声でそう言った。"あれ"がミズエさんの喉を使って出したようなぎこちなさの無い、生きた人間の声にアタシは安堵する。
「警察を呼んでもらえますか、友達が、襲われて、すぐそこで、」
アタシは涙を拭った。バイクに乗っていたのかフルフェイスのヘルメットを被った男の人の姿が鮮明に見えて
「あ、の、」
アタシは何故か言葉に詰まった。

23

「どうしました、」
と男は言った。ヘルメットの中、表情が見えない。アタシの喉で言葉が詰まる。脚が勝手に後退りたがってアタシはバランスを崩した。
「手を貸しましょう」
差し伸べられた、手、黒い皮手袋、どうしてかそれに頼るのをアタシの脳は拒む。頭の中に先刻の乃木の台詞が再生された。
伊勢さんは勘が良いなぁ、
「あの、アタシ、いいです、ありがとうございました」
男の横を通り過ぎて交差点に向かおうとしたアタシの腕が強く引かれた。
「あ…!」
「警察に行って、どうする?死体が動いてる、とでも言うつもりですか」
男の声は、乃木よりも更に冷たい、鉱物のような質感を伴っていた。

24

「無意味だ。信じると思いますか、警察が」
振りほどこうとしたが男はアタシの肘のあたりを、まるで物を扱うように強く掴んで、離さない、痛い。
やがて誰の痛みもわからなくなる、
乃木がそう言ったのを思い出す。
「離して、」
「人間は、自分に理解できないものを信じない。そして自分の信じないものを憎む性質がある」
「いやだ、離して、」
「死体が動いた、なんて言って見ろ、彼らは君を狂人扱いして憎む事だろう。俺を疎外した人々がそうだったように」
平坦な音で男が告げた途端、アタシの目の前が一瞬、白く爆発した。耳が熱い、殴られたのだと判るまでに時間がかかった。

25

人が人を殴る、という行為には感情が存在する。とアタシは思っていた。怒り、或いは悲しみ、快楽の場合もあるかもしれない。けれどたった今アタシを殴った男は、どれも持っていないように思えた。殴れば、物理的に捕らえやすくなる、それだけに見えた。
「別に自然な事だ、呼吸をするのと変わらない。肺があるから息を吸う、力があるから操る。俺や"君の友人"にとってはそういう事だ。それによって疎外されたとしても仕方がない、なのに」
髪の毛を掴まれた。
「君の友達は、何を躊躇しているんだろうな」
「乃木は」
アタシは男の手に爪をたててもがく。
「乃木あなたとは違うっ」

26

「同じだよ。寧ろ、彼の衝動は俺より強いように思える」
テキパキと、男はアタシの手を後ろに組んで縛る。暴れても動じない、作業的な動作。頭にくる、怒りが涙になって流れてしまうのが悔しい。
「乃木は違う、全然違う、」
「君は死体を操れない。俺や"彼"と同じ景色は見られない。俺達と君とは根本的に別の生き物だ。君がそこを理解せずに引き止めようとしたせいで"彼"は、呼吸を躊躇って、あんな事になっているのかも知れない」
あんな事って、何、
「…乃木に何をしたの」
耳が熱い。ジンジンする。脈に連動している。男は答えない。代わりに男の手元で金属が、ピン、と鳴った。

27

ナイフなのか、何なのか、男の手元で光ったそれに、アタシは息苦しくなるほどの恐怖を感じた。
「ミズエも俺を引き止めようとした」
男は静かに呟き、アタシの体を引き寄せる。奇妙なことに、死そのものへの恐怖は存外にリアリティがなく、アタシの心臓を締め付けていたのは、アタシが死んだら、止める者のいない乃木はこの男のようになってしまうのではないか、という恐怖の方だった。
「苦しんだよ、最初は。でもミズエをマリオネットにした瞬間、これでよかったんだ、そう思った」
地面を蹴って逃れようとしたアタシの髪を引いて、男は平坦な喋り方のまま、身体を捻った。
刺される、
アタシは目を瞑った。

28

男がアタシに向けて体重を移動させるのが音でわかった。腕を上げる気配はしない。明確な殺意のある人間は凶器を振り上げない、と何かの本で読んだ事がある、乃木と一緒に図書館に行った時読んだのかも、きっとそうだ、乃木は読書家だから、
全身に鈍い衝撃だけを感じた。
痛みは無い、冷たい、何か冷たいものにアタシの体は触れている。
伊勢さん、
幻聴なのか乃木の声が聞こえたような気がして。
「殴られたんだね…大丈夫?」
冷たいものは、アタシの耳を撫ぜた。反射的にアタシは目を開ける。
「…何で、」
幻聴ではなかった、乃木はそこに居た。片腕でアタシを抱えるようにして。

29

ゆっくりとまばたきする乃木の顔から、アタシは視線を下にずらす事が出来ない。決定的なものを、見てしまうのが怖い、怖くてたまらない。
乃木は慎重にアタシから体を離して、男を振り返った。ヘルメットの中の表情は見えない。しかし男は、
「どういうトリックを使った?」
ほんの僅かに、緊張の見え隠れする声を出した。男の手にした、見慣れない形のナイフには、黒っぽい何かが付着している。
「単純なトリックだよ、日宇見さん」
乃木はかすれた声で静かにそう言った。男は言葉を失う。名前、どこで?
「この位、単純な、」
乃木の足元でひしゃげた黒猫が、男の免許証らしきものをくわえていた。

30

「車のナンバーも控えてある。外して良いんじゃないかな、意味がない」
「そうだな…」
乃木に言われて、男は素直にヘルメットを脱いだ。思ったよりも若い、狐を思わせるシャープな印象の青年、日宇見は淡い色の目を眇めて、乃木を観察する。
「無痛症、というやつか?初めて見る」
乃木の身体からパタパタと枯葉の上に滴ってゆく何かの音。アタシはまだ乃木を直視できない。
「会うのはね…初めて、じゃないと思うよ。多分、そのヘルメット、僕は覚えてる」
よろめくように体を曲げて、乃木は猫の口から免許証を取った。
「あなた3年前も伊勢さんのあとをつけてたでしょう」
パタパタと、滴る、音。

31

日宇見の目が微かに見開かれた。
「…3年前、」
「そう」
乃木は淋しい笑い声で空気を吐いた。
「あなた声をかけられた筈だ。通りすがった若者に、ナイフなんか持って、どうしたんです?って、」
日宇見が息を呑むのが判る。同時にアタシの全身を鋭い風が通り過ぎた。
やめて、
「そんなはずはない、」
抑揚は無い、けれど喘ぐように日宇見は呟く。
「殺したはずだ…」
「致命傷でも即死じゃなかった。だからあなたは後で死体を回収しようと、一旦その場を離れた」
「生きていたのか、」
耳を塞ぎたい、けれどアタシの両手は動かない。
「いや、」
乃木やめて、乃木、
「…死んでたよ」

32

死んでいた、3年前から乃木は死んでいた
どうして口に出してしまったの。気づいちゃ駄目だって、乃木はアタシに言ったじゃない、
「お前、まさか、自分の死体を、操って、いるのか…?」
日宇見の額に浮いた汗が街灯に輪郭を縁取られる。同じ光で乃木の姿も照らされて、
「そんな事が出来るわけがない。それではまるで、」
アタシがそれを見てしまうのと同時に日宇見の口から言葉が零れた。
「幽霊、」
「…何とでも、呼んでもらって構わないよ」
尖ったアイスピックのような棒が数本貫通している、乃木の身体、片腕が、無い、
嫌だ、認めたくない、アタシは認めない、乃木は、死んでなんか。

33

「馬鹿な、」
日宇見は緊張した笑い声を上げた。
「有り得ない。有り得ないが、もしもそれが本当ならば尚更だ、お前は俺よりずっと制約のない世界に居るはずだろう、違うか」
乃木は答えない。静かに、日宇見のナイフの切っ先に視線を注いでいる。
「まだ人の死に同情する心が残っているようなふりを、その女の前でしていたわけだな、お前は、」
日宇見はナイフを逆手に握りなおし、
「大した詐欺師だ、」
乃木のちょうど心臓の辺りに振り下ろした。
「やめて、」
アタシの声は、冷たくはっきりした日宇見の言葉に遮られた。
「本当はこの女をマリオネットにしたくてたまらないんだろう?」

34

「そうかも知れない」
言いながら乃木は、突き立てられたナイフを、ちぎれていない方の片手で押さえた。
ああ、痛い、
アタシの胸は乃木の代わりに痛みを感じる、締め付けられる。苦しくて立ち上がれない。
「ならばやればいい、俺がミズエを殺したように」
縦に、ナイフが乃木の身体を引き裂く。痛い、乃木、
「できなければ俺がやってやろうか」
「日宇見さん。僕とあなたの違いは、」
息一つ乱さずに乃木は言い、
「僕には伊勢さんがいるという事だよ」
奪うようにナイフを自分の体に残して日宇見から離れると、アタシの前に立つ。次の瞬間、暗闇から、バールを振り上げた女の死体が現れた。

35

「乃木…」
「気分のいいものじゃないと思うから、見ないほうがいいよ」
乃木はアタシの耳元でそう囁き、首の動脈のあたりに食い込んだバールを引き抜いた。パタパタと枯葉に、勢いのない血が零れる。
「僕にとっては、」
赤色の服の女の死体の頭に、ひしゃげた黒猫が飛びかかった。
「この世界に伊勢さんが存在してることが、」
逆方向から飛んできた大振りの刃物を、深々と肩で受け止め、乃木はそっと腕を振る。刃物を投げた死体の背骨が、奇妙な方向にねじ曲げられる。
「重要なんだよ…生きてるふりをするぐらい、」
乃木の声は穏やかでやさしく、そして悲しさを含んでいた。

36

「欺瞞だ」
切り捨てるように言って、日宇見はジャケットの内側から刃の黒いナイフを取り出した。指揮を執るようなもう一方の手の動きに合わせ、2体の、半分乾いたような皮膚の男女の死体が並んだ。
「欺瞞のもとになっているものを断ち切れば、お前はこっちに来る。…ミズエはもう口をきかないからな…独りでは、少し、淋しい」
皮肉にも、事実上アタシを殺すと宣言した日宇見の語尾に、人間らしさが滲むのをアタシは感じた。
「止めるよ」
「できるのか、"その"マリオネットで」
「それをさせない為に、生きてるふりまでしたんだからね」
静かに答えた乃木の体から、生気のない血液が落ちた。

37

ぱた、
と、枯葉が鳴って、灰色の皮膚をした男女の死体が乃木に掴みかかった。それと同時に日宇見はアタシに向かって跳び、ガクガクになった足を奮い立たせてアタシも地面を蹴った。
アタシは逃げることしかできない、
乃木の痛みを代わりに感じながら逃げるしか、
日宇見が黒いナイフで空中に柔らかな曲線を描く。アタシの前方からさっきの赤い服の死体と、もう1体、目の周りの青黒い女性の死体が姿を現す。
「ミズエは君に、少し似ていた」
呟きながら日宇見は引き寄せる形の曲線を描いた。亡骸たちが、前に出る。
来る、と思った冷たい手はしかし、アタシではなく
日宇見の体を捉えた。

38

叫びこそしなかったが、日宇見は明らかに驚愕していた。制御していたはずの死体が、自身に向かって来たという事実に。
日宇見と同じように唖然としているアタシの傍に、足を引きずりながら乃木が歩いてきた。
「その2人は、」
低い低い温度の目に、自分のマリオネットに押さえつけられる日宇見の姿が映っている。
「僕が操っていた。あなたに操られているふりをして」
「…なるほど」
日宇見は目を閉じた。
「殺すか?俺を」
答える前に乃木はアタシを見る。魚の目は、低い温度で最大限、アタシの心を想像しようとしていた。
「やめておくよ」
死体に殴りつけられ、日宇見は気を失った。

39

乃木が小さく指先を動かす。日宇見のマリオネットたちがバンの停めてあった方角に歩いてゆく。暗闇に見えなくなった彼らから、乃木は視線をアタシに移す。
「伊勢さん、」
と呼ぶ乃木の声が、いとしい。いとしくて悲しい。
「大丈夫、耳、」
アタシの耳なんてどうでもいい、乃木、そんな事より乃木は、
アタシは言葉よりも先に涙が落ちてしまってうまく喋れない。
「ごめんね、」
違う、それはアタシが言うべき言葉、
「伊勢さんはちゃんと気づかないふりをしてくれていたのにね」
ちぎれた片腕、刺さったアイスピック、ナイフ、出血の少なすぎる傷、悲しい、悲しい、
ああ乃木は、死んでる、アタシのせいだ。

40

「あんまり悲しまないで」
乃木はポケットからミシン目の閉じたままのティッシュを取り出し、泣きじゃくるアタシに差し出した。
「もしもあの時、伊勢さんがいない世界になっていたら、僕はきっと日宇見さんと同じ道を辿っていたはずだよ」
使わないティッシュなんか持ち歩いていた乃木は、いつかこの日が来るのも、アタシが泣くのも知っていたのかもしれない。
「あなたがいたから、僕は死んでも僕のままでいられたんだから」
過去形、乃木は過去形を使う。どこかに行ってしまう者の使う言葉を。
やめて
生きてなくてもいい、いなくならないでよ乃木、お願い。
アタシは乃木の手を掴んだ。

41

本当は判っていた。それでも、言わずにはいられなかった。
「嫌だ、いなく、ならないで乃木、」
「そういうわけにもいかないよ…。僕の体はもう生きているふりをするには、壊れすぎちゃったからね」
もしもこの世界に神様がいるとしたなら、きっと言うだろう、これは生命を騙すような行為だと、いけないことだ、と。でも駄目だ、アタシは、だって、苦しくなるくらい乃木のことが好きなのだから。
「だったらアタシの体を使って、いい、乃木にならマリオネットにされたって、」
全部言う前に、乃木に抱きすくめられた。
「できない」
涙は無い、けれど乃木は泣いていた。
「できるわけがない」

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刺さったアイスピックや何かがアタシの体に当たらぬように丁寧に、けれど固く、乃木は片腕でアタシを包み込む。
熟考してからアクションを起こすのが常だった乃木の、こんな姿は初めてで、アタシはそれがとても悲しくていとくて、動けなかった。
脈のない、呼吸もしていない乃木の身体が強く触れる。アタシの肩に頭を埋めている。じっとしている、じっと。やがて静かに
「さよなら、伊勢さん。僕はあなたのことが好きだった。ずっと、前から」
回した片腕を離し、
何処へいくの乃木、待ってよ、
「まって、乃木、アタシもずっと乃木が、」
月明かり。
振り返った乃木は穏やかに、微笑んでいた。

43

それっきり。
乃木はアタシの前から姿を消した。行方不明、という事になっている。
日宇見は傷害で逮捕され、その後、ミズエさんを殺害した罪のみ自供し、裁かれている。
アタシはといえば、何処へ行ったのかわからない乃木を探して、心神喪失のようなことになっていた。泣き尽くしてもう涙も出ない。それなのに毎日、今日がやってくる。乃木のいない世界。
日曜日の図書館に行ったって、もう乃木は隅っこの席に座ってはいない。
「先に結末を読むのよしなよ」
と笑うことはない。
乃木の席に座ってアタシは、好きなひとの名前を呟く
「乃木、」
もうこの世にいないひとの名前を。

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窓際の長机は園芸と農業に関する本棚の傍にちょんと配置してあって、図書館内でも一番小さな席だったけれど、雑木のたくさん植えられた庭がよく見える。時々本から顔を上げて、外を眺めていた乃木の映像が、アタシの頭の中に無音で再生される。
乃木にあいたい
彼がしていたように窓に目を遣ったが、冬の寒さと図書館の暖房の温度差のせいで、窓は白く曇ってしまっていた。代わりに視界に入ったのは、掃除をし忘れているのか、埃だらけの茶色い窓枠。
あ、
あれは高2の時だったろうか、アタシはまた乃木の言葉をひとつ思い出し、立ち上がって窓に顔を寄せた。

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それは乃木の居ない今日であっても変わらずにそこにあった。
「不思議だよね、太陽の光を求めているのかな、」
窓枠に必ずいる、埃にまみれた小さな小さな、幾つもの羽虫の、亡骸。あの時、乃木はやさしい眼差しをしていた。とうに死んでいたはずなのに。
記憶に縛り付けられるかのように、アタシは羽虫たちの亡骸から視線を逸らせなくなった。
乃木、
水分で揺らめいた視界の真ん中で、
瞬間、ふわりと、
舞い上がったのは、羽虫、生きてたの?まだ、
違う、だってさっきは絶対に
「乃木、」
脳が追いつく前にアタシは声に出していた。
「乃木なの…?」
微かな、微かな羽音。

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羽虫はホバリングしながらゆっくりとアタシの顔の前を通過し、読みもせずに開いてあった本の上に着陸した。
ページの上を歩き回り、時折、まるで指し示すように文字の上で立ち止まる。そのミクロな動きを、アタシは息を止めて見つめた。
偶然かもしれない。小さな羽虫は死んでおらず、偶然アタシの目の前で飛び立っただけかもしれない。偶然、その文字を、その順番に踏んで歩いただけかもしれない。
そ ば に い る か ら
ねえ乃木、不謹慎だよって乃木は笑うと思うけどさ、
アタシこの世界に死があるおかげで、生きていける気がしたんだよ。
(了)
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