電車

架空の都市伝説「山田電車」に関する連作。00〜02までの全3作(きっともっと書くつもりだったはず…)。日付データを失ってしまいましたが、たぶん2010年頃の作品かと思います。

episode-00《都市伝説の電車》

僕は先輩の家で夜遅くまで飲んでいた。明日は一限目から授業があったので、12時には家に帰りたかったのだが、先輩はなかなか離してくれなかった。何でも半年付き合った彼女にふられたとかで、淋しくて仕方ないらしい。延々と聞かされる泣き言にもうんざりしてきたので、もう振り切って帰ってしまおうかとも思ったが、大学で浮きまくっていた帰国子女の僕に色々と世話を焼いてくれた先輩だ、強引に出て行くのも悪い気がした。
「うう~まだいいじゃねぇかよう」
「お願いですから勘弁してください、終電無くなっちゃいますから、」
すると先輩が妙な事を口走った。
「なくなったら山田電車にでも乗ればいいだろう」
「ヤマダデンシャ?何ですかそれ、先輩酔っ払い過ぎですよ」
あからさまに怪訝な顔をした僕に、先輩はドロッとした目を向け、
「ああ…お前帰国子女だったっけか…山田電車知らねぇんだな…」
にやりと笑った。
「し、知りませんよ。何なんですか山田電車って」
尋ねると先輩は愉快そうに、新たな缶ビールの蓋を開けた。
「都市伝説ってよう…アメリカにもあんのか都市伝説って」
「ありますよ。下水道の白いワニとか、マフィアホテルとか、プロムの幽霊譚とか」
「あーよくわかんねーけどそういう感じのじゃねぇよ、もっとこう…口裂け女とか人面犬とかよう、そっち系だよ、そっち系」
口裂け女や人面犬ぐらいならさすがに僕も知っているが、"そっち系"ということは、山田電車はフリークスという事なのだろうか。電車の怪物か何かか?不覚にも僕の中の好奇心が頭をもたげてきてしまったようだ。
「え、つまり、山田電車って怪物系の都市伝説なんですか?」
「山田電車はァ…、怪物じゃなくって、人間だって、そう言われてるけどォ、まあほとんど怪物?に、近いねー。2mだぜ、2m、身長」
ちょっと待て、山田電車は人間なのか?電車じゃないのか?
気になる。
気になりすぎる。
「どんな話なんです?先輩、教えてくださいよ、あ、スルメもっと食べます?」
僕はからしマヨネーズをたっぷり付けたスルメを先輩に薦め、先輩に続きを促した。いいやもう、明日一限目は休む事にした。
「山田電車ってのはよ…」
先輩は少し嬉しそうにスルメに手を伸ばすと、ろれつの回りきらない舌で、実に奇妙な、奇妙な話を語り始めた。

山田電車は、大きな電車の模型を頭にすっぽりと被った大男である。それが一番の特徴だ。もう一つ目に付くのは、妙な金属製の鉄柵のようなものをランドセルよろしく背負っていること。山田電車はこの2つの奇怪な装備で、駅の周辺に直立不動で立っている。
頭部全体を完全に覆う模型の電車はとても精巧にできていて、小さな窓まで備えているが、中は真っ暗で、山田電車の素顔を見た者は誰もいないという。
山田電車というのはもちろん本名ではなく、誰かが付けた仮称だ。何しろ本人は一言も言葉を発した事がなく、名前どころか年齢国籍、何もかも不明なのである。山田、の部分は恐らく適当に名前らしいものを付けられただけに違いないが、"電車"の部分は、彼が電車模型を頭に被っている事に由来している訳ではない。山田電車は間違いなく"電車"なのだった。つまり、彼は乗客を乗せる、そして走る事ができるのだ。

山田電車に乗車したければ、本州全土の駅をしらみつぶしに探すしかない。彼は決まった駅に居る訳ではない、JRはもちろん、私鉄、地下鉄、山田電車が居る可能性は、網の目のように繋がったあらゆる路線のあらゆる駅に等しくある。
幸運にも山田電車に出会う事が出来たなら、先ずは彼の頭部の電車模型を見ていただきたい。通常、電車の行き先が表示されている回転式の小窓の部分に、小さな白い紙切れが差し込まれている事が判るだろう。その紙切れに行き先を記入し、再び小窓に差し込む事により、山田電車は運行を開始する。
とは言え山田電車は人間である。どこに乗車すれば良いというのか?
答えは簡単だ。彼が背負った鉄柵のような部分に乗り込めばいい。背中には吊革まで付いているという噂もある。山田電車はあくまでも電車だ。乗れるように出来ている。
あなたの乗車を確認したら、山田電車は走り出す。スピードは恐ろしく速い。だが、何度も言うように山田電車はあくまでも電車だ。彼は線路沿いしか走らない。線路に則した道が無い場合でも、建造物などを強引に乗り越えて必ず線路に併走する。
注意しなければならないのは、行き先を指定すると同時に、紙片に"急行"、"特急"などと書き加えておかない限り、彼が全駅でいちいち停車するという点である。また、例えそう書き加えていても、東京駅など大きな駅を通過することは決してない。この点においても山田電車は電車なのである。

だが最も注意すべき点は他にある。
山田電車が乗客を乗せて運行している姿を見かけたとしても、絶対に彼を妨害してはならない。
山田電車は運行を妨げる物を、躊躇なく、轢(ひ)く。建造物であろうと車であろうと、人間であろうと、山田電車は容赦をしない。
山田電車にとって、乗客を目的駅に運ぶ事以外の全てのものごとは無意味である。
山田電車は運転手でも車掌でもなく、あくまでも電車そのものだ。
もしも電車車両に心があるとするならば、山田電車の心はそのようなものであると言えるだろう。肉体は人間でありながら、山田電車は、機械の心を持つ。
当然、乗客以外の人間は彼にとって単なる障害物でしかなく……

「何だかなァ…」
と、苦笑いする僕に向かって先輩は口を尖らせた。
「何だか、なんだよ」
「いやぁ、面白いは面白いですけど、何だか子供だましというか、リアリティがないというか、」
「都市伝説ってのはお前、そんなもんだろーがよ。夢がないなあ、お前は夢がないよ」
「だって、電車頭の人間電車なんて、フフ、何だかなあですよ、乗れちゃうってのは面白いですけど。まさか先輩だってそんなの信じちゃいないでしょ?」
「そりゃ頭から信じちゃねぇよ…けどよう……」
先輩の目が僅かに泳いだのを僕は見逃さなかった。
「けど?」
「なんて言うか…その、……見たんだ、見たような気が、した、」
「山田電車を?」
「…そうだよ」
意外な展開だ。僕は身を乗り出した。
「いつ?どこでです?」
ここにきて酔いが最大に達したか、先輩は青い顔をして、呟くように答えた。
「…中学ん時……なんか、人型の、なんか四角いもの背負ったやつが、新幹線の横走ってた…オレんち田舎で、周り田んぼばっかで何もねえからよ、目立って見えた、速ェなんてもんじゃねえんだよ、一瞬だ、びゅーんてきて、すぐ通り過ぎた……アレ山田電車だったんじゃねーかなって学校で言ったら、みんなに笑われたけどよー…」
まあそれは笑うだろうと思う、が、ホラー映画ファンでもある僕は実はこの手のオカルト体験談が大好物なのである。又聞き話ならよく耳にするが、実体験とは珍しい。
「頭、電車でした?」
「遠かったし、そこまでよく見えねえよ」
「誰か乗ってました?」
「だから…そんなよく見えねかったんだっ……ウォェエエエエ!」
と、唐突に、先輩が吐いた。
「あーあーあー…だから飲み過ぎですって言ったじゃないですかぁ…」
「うう…ばかやろ、そゆときは…からだはってとめてくれよ…ううえっ、うぐぅ……こ、氷…氷買ってきて…」
「はいはい…ああまったくもう」
一気にテンションの下がった僕は、とりあえず床を拭いて先輩を寝かせ、ため息をつきながら玄関のサンダルをつっかける。
「氷と、他には?」
「…おーいおちゃ…」
「はいはい」

外は思ったより真っ暗で寒かった。そりゃそうだ、もう1時回ってる。このまま帰ってしまおうか、などというアイデアが頭を過ぎったが、それを実行に移せるほど悪党になりきれない僕は、所詮コモノである。だいいち、この時間じゃ終電なんかとっくに行ってしまっている。しがない大学生にタクシーなんて贅沢はもちろん許されないだろう。僕は薄暗い街灯に沿って素直に駅前のコンビニに向かった。
ブロックアイスとおーいお茶、それから自分用にハーゲンダッツを1つ買って店を出る。背後で扉が閉まると、くだらない店内BGMが途切れて静寂がやって来た。
都心からは少し外れたこの辺りは、1時ともなると静かなものである。僕は駅の自販機で紙コップの珈琲を買って一服する事にした。これくらいのささやかな反抗は許されるだろう。でも先輩、ごめん。
煙草に火を点け、息を吐き出す。既に駅の券売機のシャッターは下りていた。静かな駅前には、僕以外人も見あたらない。さっきのコンビニの明かりだけがやけに煌々としていたが、中の店員の姿が見え、僕はじろじろと不躾な視線を送るのも悪い気がして、何となく目を逸らしてしまう。
その時だった。
プァン、
という音と共に一瞬、目も眩むような黄色い光が視界に飛び込んで来た。突風がもろに顔に当たって、僕は手にした珈琲を取り落としてしまう。
「…………」
一瞬の出来事だった。何が起きたのか全然、全くわからなかった。ただ、
ただ何か、巨大な塊が高速で目の前を通り過ぎた気がする、しかも、
…特急電車通過いたします…
録音されたテープのような音で微かにそう聴こえたような、
ああ、
待て、特急"電車"だって?待て待て待て今のって明らかに電車の形じゃなかった、
てゆうか、
ひと
嘘だろ、
だってそんな、

山田電車は本当にいる

風圧で火種の消し飛んでしまった煙草をくわえたまま、僕は暫くの間そこから動けなかった。

日付

episode-01《真夜中の電車》

「あたし見た」
「山田電車?」
「うん」
「どこでよ?」
「ん、うと…箱根ヶ崎の駅んとこ」
「ウっソだあ」
「本当!三小行ってる友達が一緒に見たもん!ほんとに頭、電車で、緑色だったの」
「えー、だってこないだ読んだ怖い話の本見たら頭の電車、オレンジ色だったって書いてたよ」
「ニセなんじゃん?」
「ちがう」
「乗ったの?」
「の、乗っては無いけど、」
「なんで乗らなかったんだよ」
「やっぱウソなんじゃん」
「ちがうもん」
「下村さんってなんでいっつもウソつくの」
「ちがう、」
「もういいよ、ほっとこ。行こ」
「三小の友達ってのも絶対いないよね」
「ねー」

下村千夏は、去ってゆくクラスメイト達の姿を見ながら、まだ、ちがう、ちがうと呟いていた。しかし、彼らの言葉が実際には"違わない"事実であることは、彼女自身よく判っている。
千夏は山田電車を見たことなど一度もない。第三小学校に友達なんていない。それでも意地になって"ちがう"と言い続けるのは、自分の言葉を誰かに聞いて欲しいからにほかならない。千夏は孤独だった。誰にも好かれていない、と感じていた。
誰もわたしの話なんか聞きたくないんだ、
そんな淋しさに堪らなくなり、千夏はつい、皆の興味を引きそうな嘘をついてしまう。去年、千夏の家は父親がいなくなった。それからは母親すら千夏の話を聞いてくれなくなってしまい、三年生になってから千夏の嘘はますますエスカレートしてゆくばかりであった。
千夏自身、かなり危機感は抱いている。嘘が更に孤独の要因となっている事にも気付いていたが、どうしてもやめることが出来ないのだ。自分ではどうにもならないほど、口をついて嘘が溢れる。
千夏は怖かった、
このままではいけない、と思った。
その日の放課後、千夏はある決心をした。
今日からもう嘘はつかない、
そして、
本当に本当の話を、聞いてもらうこと。

翌日、土曜日の朝。
千夏はリビングの引き出しからデジタルカメラをこっそり持ち出し、自転車の前かごに入れて家を出た。母親は既に仕事に出かけている。帰るのは夜遅くになることを、千夏はよく知っていた。
去年乗れるようになったばかりの自転車を危なっかしげに運転しながら、千夏は自分のアイデアに少し興奮していた。
嘘はつかない、
千夏は山田電車を探すことにした。山田電車を探し出し、山田電車に乗り、山田電車の写真を撮る。
そしてそれをみんなに見せて、話を聞いてもらうのだ。
冒険の予感に頬を上気させ、千夏は駅に向かって自転車を漕いだ。
きっと見つかる。
先ずは一番近い駅から始めた。用心深くカメラを構えて、駅周辺を隈無く歩き回る。さびれた小さな駅を行き交うまばらな人々、一人一人の頭をしっかり観察する。
一つ目の駅には山田電車は居なかった。千夏は再び自転車に乗り、上り方面に漕ぎ出す。
二つ目の駅、ここにも山田電車らしきものの姿はなかった。三つ目の少し大きな駅のところでは、入り組んだ駅構内まで覗いてみたが、やはり山田電車はどこにも居ない。しかしまだ千夏は諦めていなかった。
簡単に見つかるくらいなら、噂が広まる前にテレビか何かで既に取り上げられている。山田電車の話はそうでないから価値がある。誰もが見つけられる訳ではない山田電車を自分が本当に見た、となれば、勉強も運動も出来ない、絵も苦手で、取り柄のない自分の話でも、きっとみんなが聞いてくれる。
千夏は根気強く、線路沿いを進み続けた。だが四つ目の駅に辿り着く前に、線路と併走していた道が途中で大きく逸れてしまっている事に気がついた。
しばらく進めばまた線路に近づいて来るかとも思ったが、そうはならず、大きかった道幅もどんどん狭くなってきている。
これはどこかで左に曲がらないと、線路から遠ざかるばかりだ、
黄色く染まってきた空に焦りを覚え、千夏は細い路地をとにかく線路側へ、線路側へと曲がってみた。
ところが、
どうした事だろうか、線路はいっこうに見えてこない。曲がっても曲がっても踏切の音ひとつ聞こえて来ない。やがて、汚れたゴミ置き場のような所で道は突然行き止まりになってしまった。
直ぐにもと来た道を引き返したつもりだったが、どこかで間違ったようで、気付けば千夏は、もはや全く見たこともない景色の場所に出ていた。
低いビル、低いビル、家、人の家、低いビル、電柱に貼られた、千夏には読めない英語の書いた卑猥なチラシ、忙しそうな人、車、車でお金、と書かれた千夏には意味の判らない看板、
小雨が降ってきた。空が随分と暗くなっている。天気のせいだけではない、夜が近づいている。
耳の中で自分の脈拍がどこどことがなり立て、千夏は呆然と立ち尽くした。
どうしよう、迷子になっちゃった、
不安過ぎて涙も出ない。千夏はかすれた声で、
「どうしよう…、」
と呟いた。
夜になる。夜が近づいている。

「大丈夫?傘、ないの?」
ふと、後ろから声をかけられ、千夏はびくりと振り返った。
「迷子かな…きみ、いくつ?お母さんは?」
雨の中、白い小さな車に乗った若い男が、窓から柔和な顔を覗かせていた。
「8才、です、あ、の、わたし…ひとりで、ひとりできて道が、」
声が震える。男はそんな千夏に優しく笑いかけた。
「迷子だね。大丈夫、俺が家まで送ってあげるよ。おうち、どこかな?」
バクン、と扉を開けて車から降りてきた男の紺色のジャケットに、雨粒の水玉がパタパタとはじかれる。男はポケットに突っ込んでいないほうの手で後部座席のドアーを開けた。
「自転車は、後ろに乗せてあげる、入るかな…よいしょっ」
男は言いながら、千夏の子供用自転車をひょいと持ち上げ、車に積み込んだ。
「よかった入った」
男はまた千夏に笑いかけた。笑い返すことまではできなかったが、千夏はほんの少し安堵する。
「あ、ありがとう、ご、ざいます…」
「きみはこっち」
男はポケットから出した左手でそっと千夏の手をとり、助手席側のドアーを開いた。千夏は恐る恐る座席に腰掛ける。男は外側からドアーを閉め、雨を避けるように小走りに運転席に乗り込むと、すぐにキーを捻ってエンジンをかけた。
「おうち、どこかな?」
「あ…○×市、東××、じゅうのさんの、にーまるろく…」
「へぇ~、ひとりでけっこう遠くまで来たんだね」
千夏の言葉に男はそう言って頷くと、
「買い物に来たの?あ、ここいらだと映画館かな、あれでしょ、ほら、海賊王。あっ女の子だからあっちか、プリ…なんだっけ、プリ、えーと、」
窓の外を見て車を発進させながらそんなことを喋った。千夏は男が自分の話を聞こうとしてくれていることを、少し嬉しく思った。そうだと答えても良かったのだが、だからこそ千夏はやはり首を振ることにした。
「ううん映画じゃない」
嘘はつかない。決めたのだから。
「あ、違うのか。え~、じゃあどうしたの、あとこのへんジャスコぐらいしかないけど。しょぼい」
「…電車、」
「電車?」
「山田電車を、さがしにきたの」
一瞬、男が沈黙した。そしてちょっとした間をおいて、くすくすと、可笑しそうに笑い始めた。
「うはっ…えっ、山田電車って、あの山田電車?だよね?都市伝説の、邪魔する奴はひき殺すっていう、」
「…そうだけど……」
言わなければ良かったと千夏は後悔する。こんなに笑われるとは思っていなかった。
「そぉっか、山田電車…ははは…きみ面白いね、てゆか、すげぇなガキの発想って、はは、」
男が笑いの合間に息継ぎをした瞬間コ、チ、コ、チ、と、ウインカーの音が車内に響いた。雨粒に遮られた外の景色は曖昧で、千夏には車が今どこを走っているのか全く判らない。
急に、不安になった。
「え、見つけた?見つけてるわけないか、アハッ、ね、山田電車、見つけたら乗るのきみ」
「………」
千夏は黙ったまま頷いた。何だか嫌な気分だった。はやく家に帰りたかった。
「あぁ、はは、眠くなっちゃったかな、暖房効いてるもんね。いいよ、寝てて。おうちに着いたら起こしてあげるから」
そう答えた男は、運転席側のドアーに刺さった道路地図をさっきから一度も開いていない。

どれくらい時間がたったのか判らなかった。どうやら疲れて眠ってしまったらしいと気づき、千夏は辺りを見回した。
窓の外は真っ暗だった。信号機の明かりが水滴で滲んでいる。雨はまだやまない。車は停まっており、右側を見ると運転席の男はいなかった。空気の静止した車内でウインカーの音だけが耳を突く。街灯に照らされた雨粒がダッシュボードに気味の悪い影を落としている様をじっと眺めている事に耐えられなくなり、千夏はそっと助手席のドアーを開け、外に目を凝らした。
黒い木々。既にシャッターの降りた小さなスーパー。
まったく知らない場所だった。
千夏の心臓の鼓動が再び早まる。
へんだ、
うちに送ってくれるって言ったのに、
ここどこ、
あの人、どこ、
「……寝てます…、ええ」
雨音に混じって、声が聞こえた。
「…さあ……きたらまた…すれば……」
よく聞き取れない。千夏は車の影に隠れたまま、声のした道路の向こう側を覗き見る。
運転席の男が携帯で電話をしていた。男は、笑っていた。千夏の話を笑ったときとまったく同じ顔で。男のその表情を目にした途端、瞬間的になぜか、千夏の背中に鳥肌が立った。
逃げたい、
どうしてそう思ったのか千夏にもわからなかった。ただ、怖かった、恐ろしかった、今日会ったばかりのあの男が、なぜだかとても恐ろしくて…、
意識するよりも早く、千夏の足は薄ぼんやりと明るい木々の向こうへと走り始めていた。
こわい、
こわい、こわい、
おかあさん、
ここどこ、どこ、
水たまりを踏みつけた。ピシャン、と大きな飛沫が上がる。千夏に振り返る余裕はなかった。男が追ってきていたら、と思うと、恐ろしくて振り向けなかった。膝が笑う、
侘びしく数本立ち並んでいただけの黒い木と木の間を抜け、千夏は明かりの前に躍り出た。
明かりはただの街灯、
千夏は愕然とした。
街灯の後ろには見知らぬ小さな駅舎が見えたが、そのシャッターは既に閉まっている。
誰もいない。
「たすけて…」
誰も、
誰も、助けてくれない、わたしの声をきく人なんか、誰もいない、
雨に混じって、千夏の頬に熱い水滴が流れた。
「たすけてよう…」
しゃくりあげながら目をこすって、顔を上げた千夏は、クッと小さく息を呑んだ。
視界に、奇妙なものが映ったのだ。
"それ"は、駅舎の脇の時計塔のすぐそばで、微動だにせず直立不動の姿勢で雨を受けていた。
シルエットは人間のようでもある。だが、何かがおかしい、
頭の、部分が、

「…電車……」

千夏の呟きに、紛れもなく山田電車としか言いようのない"それ"が、ゆっくりと頭を傾げた。チカ、チカ、チカ、と、頭部である電車模型の前面で2つの光が瞬く。
千夏は、吸い寄せられるかのように"それ"に近付いていた。

山田電車はとてつもなく大きかった。小学三年生の千夏が小さいせいで、そう見えるのではない。首の上からひさしのように突き出した電車模型の窓の中は、全くの暗闇。その暗闇に隠されているはずの山田電車の視線を頭から浴びて、千夏はようやく、自分が、とんでもないものを前にしているという事を自覚し、ゾッとなる。まるで射すくめられた鼠のように体が硬直してしまい、震えることしかできなかった。と、山田電車が突然、しゃがみ込んだ。背中に背負った檻のような四角い金属が、ガシャッと音をたてる。
「ひ……」
千夏は濡れた地面に尻餅をついた。
考えてみれば、山田電車はお化けのようなものなのだ、なぜこれに近づいてしまったのか、なぜ一瞬でも助けてもらえるかも知れないなどと考えてしまったのか、
千夏の脳裏に、"うわさのこわい話"シリーズ8巻に乗っていた、山田電車に関する、ある記述が蘇った。

山田電車には人間の心がない。体は人間でも、山田電車の心は冷たい機械でできている。

チカッ、
山田電車のライトがまた光った。紙のような顔色で動けない千夏に向かって山田電車は、灰色のジャンパーと黒い手袋に覆われた太く長い腕で自分の頭、模型の電車を指差してみせた。
本物の電車であれば行き先を表示するはずの小窓には白い紙片が差し込まれている。山田電車の指はその小窓部分を指し示していた。千夏の頭を、"うわさのこわい話"第8巻の別の一文の記憶がよぎる。

その紙に駅名を書き入れることで、山田電車に乗車することができる

「行き先…乗って…って、こと…?」
千夏のかすれた問いに、山田電車はカクンと長い頭を頷かせる。
「……………」
躊躇っていると、山田電車は自分で紙片を抜き取り、緑色の、JRのロゴの入ったボールペンと一緒に、千夏に差し出してきた。チカチカチカ、と連続で頭部のランプが点滅する。
「走り…たい、の…?」
山田電車はもう一度はっきりと頷いた。ちょうどその時、どこかで、半ば雨にかき消された車のクラクションが聞こえて、千夏の心臓がぎゅっと縮こまった。
怯えながら頭を上げると、雨の幕の向こうから、車のライトが二つ近付いている。白い車だった。
あの人だ、
千夏は硬直して思い通りにならない指で山田電車から紙片を受け取った。そして書き込んだ。自分の家に最も近い、駅の名前を。
JR、H線、小学校に通うときには毎回通り抜けることになる、馴染みの小さい駅の名前。
左上には乱れた字で、"特急"と付け加える。
それが頭部に差し込まれた瞬間、山田電車の灰色いジャンパーのポケットの辺りから、どこかの駅で録音されたと思われる、音質の悪いアナウンスが再生された。
『ぇ電車まもなく発車いたしまァす、ご乗車になってお待ちください』
駅名を表示させた山田電車の後ろに回り、千夏は、彼の背負う金属の底板に足をかけた。電車の連結部分そっくりの底板は、山田電車の背中の側以外の周囲三面を、千夏の身長ほどの柵で四角く囲われている。千夏が乗り込むと同時に、山田電車は立ち上がった。
『ドア閉まりまァす』
前傾姿勢。バランスを崩した千夏は、山田電車の背にもたれるような形になる。灰色のジャンパーに覆われた山田電車の硬い筋肉の塊のような背の、肩の部分に、吊革が付いていた。千夏は無我夢中でそれに掴まった

ピイッ
鋭い笛。山田電車は駅の脇から線路に沿って伸びる細い路地を走り出した。
ガッシャン、ガッシャン、ガッシャン、
山田電車の一歩一歩に合わせて、千夏を乗せた柵が鳴る。最初はゆっくり。
「あ…、そっちは、」
千夏は思わず声を上げる。山田電車が走り出した先に、例の白い車がスッと横づけるのが見えた。男が車の窓から顔を出す。何か言っているようだが、雨と、そして山田電車の背負った金属の柵が軋む音でよく聞こえない。雨に遮られてはいたが、男の顔には驚きと、恐怖、そしてなぜか怒りが見えたような気がして、千夏は唾を飲み込んだ。その表情が段々近付いて来る。山田電車はほんの少しも進路を逸らそうとはしなかった。
ぶつかる、
千夏がそう思った次の瞬間、白い車は凄まじい勢いで跳ね上がり、
宙を舞った。
自ら跳ね上がった訳ではない。白い車は、山田電車によって蹴り上げられたのだった。充分な高さにまで吹っ飛んだ車の下を、僅かに屈むこともなくくぐり抜け、山田電車は加速してゆく。背後で凄まじい音をたてて落下した白い車がどうなったのか、千夏は振り返って確認しようとしたが、山田電車のスピードはどんどん上がっており、横転した車体も、その隣に転がり出た男の姿も、詳細がよく見えないうちに遠ざかってしまう。
ガシャ、ガシャ、ガシャ、
更に加速、
千夏の小さな心臓は壊れてしまいそうなほどのリズムで脈打っていたが、巨大な背中を通して伝わる山田電車の脈拍は、非常にゆっくりとした、ゴトン、ゴトン、という、何か巨大なものを連想させる重いビートを刻んでいた。その音を聴きながらふと上に視線を向けると、見慣れた愛する最寄り駅の名を表示させた山田電車の模型の頭が目に入り、千夏は不思議な、相変わらず恐怖はあったものの、何か不思議な安心感のようなものを感じずにはいられなかった。
加速、更に加速、
街灯が光の線となって過ぎてゆく、どこかで犬の鳴き声、それもすごい早さで去ってゆく、前方から数台の車、
一瞬、体に感じる重力が消え、千夏は呼吸を忘れて吊革を握りしめる。引きつった表情のドライバーの顔がスローモーションのように視界に焼きつく。山田電車は、ゆるい弧を描いて3台の車を飛び越えた。着地の衝撃は僅か。スピードはまったく落ちない。千夏の足元の金属板の振動は、もはや連続した低い唸りのようなものに変わっている。髪に吹きかかる雨粒ですら、切り裂かれた空気に砕かれて次々と後方に流されてしまう。
と、そこで線路沿いの道が唐突に途切れた。やや高台に乗り上げた線路のすぐ脇を、学習塾の茶色いビルが塞いでいる。
「…ぶつかる、よ!ねえ!ぶつかる!」
千夏は悲鳴を上げ、山田電車の、生きた人間の温度を持つ背中にしがみついた。山田電車はしかし、止まるどころか速度を増す。
茶色い壁があと数メートルまで迫ったところで、山田電車は跳躍した。
明らかに高さが足りない、
千夏は目を瞑る。
山田電車は三階の窓を突き破ってビルの中に飛び込んだ。硝子とコンクリート、ひしゃげた窓枠が派手に散る。正確には窓枠を少し上に外れた部分を、壁ごと破壊していたのだが、山田電車は構うことなく、整然と並んだ学習塾の机をバラバラに蹴り壊しながら約二秒で反対側の窓を破ってビルを貫通し終えた。そのまま滑空するように、隣接した建物の二階へと、今度は窓を狙う様子もなしに突っ込む。
「う…うわぁ、あ…」
壁の向こう側に立っていたオフィス棚、机、椅子、部屋の間仕切り、何かの商品が詰まった段ボール、何もかもを轢き、粉砕し、突き抜ける、
立ち並ぶ倉庫の屋根の上に着地した山田電車は立ち止まる事なく前進を続けた。山田電車が通り過ぎると同時に、金属の屋根板が硬質の悲鳴を上げて変形していく、その振動を聞きながら、千夏はいつしか気を失っていた。

「…千夏、…千夏!」


名前を呼ばれ、千夏は目を開ける。泣きはらした目の母親の顔が視界いっぱいに飛び込んできた。
「おかあさん…」
母親に強く抱き締められたのをきっかけに、千夏は止まっていた涙を溢れさせた。
「千夏、大丈夫よ、もう大丈夫だから、」
母親の頭越しに、数台のパトカーと、制服姿の警官が見えた。その後ろには、千夏の家に最も近い、いつもの駅舎がパトカーの赤い光に照らし出されている。
「…電車は…?」
母親の肩に涙を染み込ませながら、千夏は言った。
「電車…、どこ、」
山田電車の姿はどこにも無かった。

翌日、隣接する県との県境の駅前で事故を起こしたと思しき白い乗用車の残骸から千夏の自転車とデジタルカメラが発見された。事情を訊くため、警察は運転していた男の行方を追っている。男には海外を相手にした売春斡旋の前科があった。
しかし事件にはひとつ手がかりのない不思議な謎が残った。
車でも4時間はかかる県境の駅から自宅付近の最寄り駅まで、深夜に、千夏がどのようにして戻って来たのか。
それは誰にも判らない。ただ、この地区の子供たちに事件のことを尋ねると、皆口を揃えて、こう答える。

"山田電車は本当にいる"

episode-02《夏の電車》

先週。奥原西高野球部の監督兼コーチ兼顧問であり、俺の担任でもある数学教師の押田が、くも膜下出血で入院した。幸い命に別状は無かったのだけど、部員全員で見舞いに行ったら、押田は例の眉間にシワを寄せた仏頂面のまま眠っていて、なんと言うか、あの恐怖の大王がすごくジジイに見えてしまい、俺は泣きたいような叫びたいような気持ちになった。うちみたいな田舎の公立高校の野球部が地方大会をちょっといいとこまで勝ち進んでしまったのは、偶然のせいだけじゃない。8割偶然だが、2割は押田のおかげだ。
だから、柄にもなく"押田のためにも頑張ろうぜ"的な雰囲気にはなっていたんだ。次当たるのは私立の強豪校だから、無理っちゃ無理なんだが、それでも、補欠も含めて全員、駄目でもとにかくいい試合しようって気合いは入ってた。ほんとに。
なのに、何でこんな事になったんだ?
まず、第一の不幸は、先日の集中豪雨で昨日新幹線が止まってしまっていたという事。うちの学校は田舎だから、同じ県内だってのに試合の球場まで、一部新幹線を使ったって2時間はかかるって言うんで、色々考えて、予定では昨日のうちに部員全員、現地入りしているはずだったのだ。押田の急病で完全にテンパってしまったマネージャーの小泉が、なんとか新幹線の切符を取って、ホテルの手配までやってくれたというのに、それが全部パー。
ドカベン全巻を部室に持ち込んだ張本人であるマンガ好きの小泉奈緒は、自身がマンガかよというぐらいバカでマヌケで、"誰でも変化球が投げられるマジカル☆ボール"を部費で30個も購入してしまいそうになったり、練習メニューを書いた紙を見ながら歩いていたら野良ヤギに襲われて紙を半分食われたり、というような事をリアルにしでかすような女なのである。そういう奴がテンパりながらも奇跡的にこなした仕事が、気の毒なことに無駄骨となってしまい、俺たちは試合当日に球場まで長時間かけて移動しなきゃならない羽目になった。
小泉は、小泉にしちゃあ頑張ったと思う。一応、時刻表を調べて全員にメールくれて、何時何分の電車に間に合うように駅に来いと指示してくれた。ほんとに日頃のあいつからしたら凄い手際の良さだった。ただ、たださ、小泉。ひとつ言わせてくれ。
駅って、2個あるじゃんか。学校挟んで街側の、少し大きいK駅と、俺とか小野みたいな郡出身者が主に使うU駅と。そこ指定なかったら、俺ら郡民は駅っつったらU駅って思うんだってば。
しかも小泉、駅がK駅だったというなら、だ。お前が書いた"電車の"発車時刻とやらは、これはつまり"新幹線の"発車時刻だったってことだよな?
もちろん新幹線も電車には違いない。だけどこういう場合は、新幹線、と書いて欲しかったよ小泉奈緒。
そんな訳で群出身者である俺、小野、それから1年の柏崎と須藤は、おいてけぼりをくらってしまったのである。
柏崎と須藤は補欠だが、俺はスタメンのキャッチャー。どうすんだ?それでも俺の代わりはまあ居るには居る。問題は小野だ。小野はピッチャーだ、それもそこらの投手とは違う、しゃれこうべみたいな顔してるくせに、一部では変化球王子なんて言われてる、お前なんでウチの学校にいるんだ?ってレベルの投手なのである。小野なしで試合なんかしてみろ、コールド負けだコールド負け。だってウチ、控えの投手なんかまともなのいねぇし。
まあ小泉のマヌケを知っていながらよく調べなかった俺たちも、なかなかにテンパっていたのだろうと思う。で、不運ってのは重なるもんで、2つ目。U駅全然電車来ねぇ。
構内アナウンスを聞くところによると、人身事故だと。
これが時間通り運行していたとしたら、早めに到着していた俺たちは、K駅でみんなと合流できたかも知れない。だが、電車は来なかったのだ。
仕方がないので俺たちはタクシーをつかまえて、K駅まですっ飛ば…そうと考えた。で、ここで3つ目の不幸。
そう、渋滞だった。
「なんで今日に限ってこんな事になんの?マジでなんなの?ハンデなの?ふざけんなよ畜生、なんでだよなんでだよう」
小野がキイキイ声で喚いた。喚いたって車が進む訳じゃない、イラッときた俺は小野を殴ろうかとも思ったが、一応大事なピッチャーだからやめておく。まだ諦めたくない。
「なあ、降りて走る?」
俺の提案に、小野は泣きそうな顔になった。
「なんで試合前にマラソンかよ!秋津おまえ、キャッチャーだからいいだろうけどな!俺はスタミナ、」
「判ってるけど、たいした距離じゃねぇし、遅刻して出れねーよりマシだろ。つうかお前そうやって喚いてんのが一番体力消耗してんだ、馬鹿。すいません、降りて歩きます、会計お願いします」
有無を言わせず俺は車を降りた。柏崎と須藤が手分けして荷物を持つと言ってくれて、小野はそれでようやく、K駅までのランニングを決意した。
あとはもう、走る。
小野が車にはねられたら元も子もないので、俺はそこだけ随分気をつけたが、基本的にはもう、とにかく間に合いたい一心で黄色信号も突っ走った。

「……………」
目の前で、新幹線が出て行った。
あと一歩、だったんだが、間に合わなかった。
「須藤…次の新幹線、何時か見てくんねぇ?」
「一時間後っす」
「じゃあもしかして次でも間に合うんじゃねぇか?」
「いや…次のはG駅で止まらないやつなんで…乗り換えが増えるっぽくて…ヤバいかもしれないす」
「…くそ」
「あああ終わった…マジで神なんていねぇ…」
小野が情けない声を上げた。正直、俺もそう思った。神なんかいない。もしいたとしても、ウチみたいな全然、名門でも何でもないくせにたまたま今回奇跡的に勝ち進んでしまっただけのヘタレ公立普通科の野球部なんか死んじまえバァカ、お前らの幸運もここまでだ、ざまあ、と思っているに違いない。
「別ルート、高速バスとか、出てねぇか…」
「オレ、バス調べます、秋津先輩、電車の別ルート見てもらえますか」
「わかった」
俺と須藤がチマチマ携帯をいじっている横で、魂の抜けた様子の小野がへなへなと地べたに座り込んだ。
「…終わった…終わった…もうだめだどうしようもうだめだ」
小野のメンタルの弱さは筋金入りである。まあ、だからこそウチみたいな学校にいるのだろうが、それにしてもこういう時のコイツの泣き言は大変にウザい。
「もう絶対間に合わない…もうダメだ終わった…オレ終わった…どうしようどうしよう」
「小野うるせー黙れ。今、間に合うように俺とスドで調べてんだろ」
「無理だよもう!昼からだろ試合!いま8時30分過ぎてんじゃんもう9時なるじゃん絶対無理!もうダメ死んだ!あああどうしたらいいんだ」
「落ち着け…くそ…」
頼むから落ち着いてくれ小野。お前のテンパりが伝染しそうだ。俺だって焦ってる、けど、まだ諦めたくないだろう?お前だってそれは同じだろ?
「柏崎、悪ィけど小野になんか飲み物買ってきてやって、ポカリかなんか」
「は、はい、」
俺は柏崎に小銭を渡すと、ひたすら携帯と向き合ってコチコチ時刻表と乗り継ぎを調べまくった。その間も小野は、
「間に合いそうか?なあ、間に合うか?やっぱ無理か?どうする?どうしよう?」
と、ずっと俺の周りをウロウロしていて、本当にコイツ投手じゃなかったら絶対蹴り入れてる、俺は心の底からそう思いながら無視を決め込んでいた。
「…ダメだ…バスじゃ間に合いません、全滅です」
須藤が暗いため息をつくのと同時に、俺の携帯画面の"スピード駅すぷれす"というサイトも試合終了を告げた。
「こっちも…最短でも向こうの駅着くの試合始まってからだ、そっから球場向かうからな…」
「ああああああああああああーーーッ!」
「うるせえ!遅れても行くしかねぇだろ!待ってくれるかもしんねぇし、」
「ほんとに待ってくれるのかよ!てゆうか入れてくれんのかよ!絶対かよ!」
「知るかよ!とにかくできるだけ早く行くしかねぇじゃん!」
「………………」
小野が急に黙ったので、蝉の声がやけにはっきり聞こえてきて、俺たちは何だかがっくりうなだれた。
「…とりあえず、次の特急乗ってH駅で急行に乗り換えんのが最短だから、何か飲もうぜ」
「そうすね…あれ…柏崎遅いな」
「うぐッ…うう…」
「泣くな」
小野にはそう言ったが、はっきり言って俺も少し泣きたい気分だった。おそらく高校生活最後となるであろう舞台に、遅刻、もしくは出られない。最悪だ。悪夢だ。
俺たちは無言で、のろのろと改札裏の自販機スペースに移動した。ボンヤリと立っていた柏崎に、須藤が手で罰を作って見せる。
「ダメだ。でも次の特急乗ってなるべく早く行くから、」
しかし妙なことに柏崎は須藤の言葉に何の反応もしなかった。ただ呆けたように、駅の柵の外の方を眺めたまま立ち尽くしている。
「あれ?おーい柏崎、どした大丈夫か」
須藤がもう一度呼ぶと、柏崎はようやくこっちを振り返った。そして、激しくブンブンと手招きをしてきた。

「何なんだよ」
小走りで柏崎のもとへ向かうと、細長い体型の後輩は
「あ、あれ…」
と、ポカリを持った手で白い柵の外を指差した。
駅の外。誰も見やしない薄汚れた市内の案内看板の脇。緑化だか何だかで去年植えられたばかりの丸っこい木のそばに、そいつは立っていた。
「なんだアレ…」
「何だアレって、アレなんじゃないすかやっぱり」
「ま、まじにアレなのか?アレって実在すんのか?」
「でもアレにしか見えませんよアレは…」
「ちょ、何だよ!アレアレって何なんだよ!何が見えんの!?説明しろよ!」
俺と柏崎と須藤の会話に、一人だけ離れた後ろから小野が叫んだ。何で自分で見に来ないんだよ…どんだけヘタレだよ変化球王子。
「小野先輩、アレですよ見てください、ほら」
「うわ、うわっ引っ張んなよう」
須藤に袖を掴まれて前に押し出された小野は、それを見るなり例のしゃれこうべみたいな口をガクンと開いて、絶句した。まあそうだろう。俺も驚いた。まさか小学生の頃さんざん噂した、都市伝説のバケモンを、白昼堂々目撃してしまうとは普通思わない。
「…コスプレって奴じゃないすか?」
とは須藤の見解。だが
「こんなとこで?何のために?そんな人もいねーし、第一、アレほんとに人間?デカすぎだろ、182ある秋津より全然でけえじゃん、アレ2m越してるって、靴上げてもねえし、コスプレとか違ぇよ本物だよ…うわわ…おい…」
これに関しては確かに小野の言うとおりだと俺も思った。
「ですよね…」
須藤も"アレ"を呆然と見上げて頷く。
「それか、暑さと焦りで俺らの頭が狂ったか、だ。それが一番納得いく」
絶対違うと思いつつも俺はそう言ってみた。柏崎が妙に悲痛な顔で、
「やめてください」
とこっちを見たので、俺は口を噤んだ。
「……………」
それにしても、"アレ"は全く動かない。まるで巨大な岩か何かのように棒立ちで、背中に背負った鉄の柵みたいなやつも相当な重さがあるはずなのに、足元ひとつブレない。しかしよく見ると、7月だというのに灰色の長袖ジャケットなんかに覆われた分厚い胸がほんの僅かに、ゆっくりと呼吸をしているのが判り、それだけが"アレ"が人間である唯一の証拠のように思えた。
「……あ…」
そこで、俺はある事を思いつく。
「おい……、」
「な、なんです?」
「なななんだよ秋津」
「何ですかせんぱい…」
同時に返事を返してきたこいつらは、もしかしたら俺と同じ事を考えていたかもしれない。
「…これ乗ったら試合間に合うんじゃね…?」

駅前道路を走る車の音と、蝉の声に混じって、ゴク…と、誰かが唾を呑み込む音がした。或いは俺だったかも知れないが。
沈黙に耐えかねて、俺は行動に出た。柵に身を乗り出すと、ホームの方に居た婆さんがじろりとこっちを見てきた。あの位置からじゃ"アレ"は見えていないはずだから、俺は完全にしつけのなってない悪ふざけバカと思われたに違いないが、構っている余裕は無かった。
「…おい、電車。山田電車。聞こえるか」
"アレ"がガクンと電車型の頭を持ち上げ、こっちを見た。
「せんぱ…何やっ、」
「正気すか!?」
後輩たちの声を無視して、俺は"アレ"、人を乗せて高速で走るという都市伝説の怪物・山田電車に語りかける。
「E駅…2時間で、E駅まで行けるか?」
山田電車は頭の電車の前面に付いた2つのライトを点滅させ、ゆっくり頷く。
「よ、4人だ…荷物もあるけど、」
俺が言い終わらないうちに山田電車はガクンともう一度頷き、背中の檻を指差してみせた。山田電車の巨大な背中に、ランドセルのように背負われた檻は、三方が低い鉄の柵に囲われた頑丈そうなものだったが、野球部員4人と荷物が入るにはさすがにかなり無理がありそうだった。しかしだ…
無理やり乗れば乗れないことも、ない、と、思う。山田電車自体が保つかどうかは賭けだが。いや、それを言うならちゃんと間に合うのか、そもそも無事に目的地に着けるのか、すら賭けなのだが。
俺は振り返って後輩たち、そして小野に視線を送った。
「どうする…うまくすれば逆転ホームラン、かも…」

俺は自分が正気じゃないことぐらい気付いていた。明らかにイカレてる、完全にイカレてるのだが、それでもなお、試合に間に合いたかった。それを約1割の好奇心が後押しする形となって、
結果、俺は1分後には都市伝説通りに山田電車の頭の方向幕に"特急E駅行き"と書いた紙片をぶち込んで、背中のランドセルに乗り込んでいた。嫌がる小野を連れて、だ。
「ふざけんなやめろやめ…やめて怖い怖い怖いぃいいい!」
「耐えろ小野。騒ぐと消耗する」
「やだオレはやだ怖い降りる降りる!」
「オレも怖いですけどっ!一番居なきゃマズいのは小野先輩なんですから、頑張って!」
「先輩、よしてください暴れると余計怖いす」
須藤と柏崎も俺と同じ思考を辿ったのか、両脇から小野を押さえるようにギュウギュウと乗り込んできた。いいぞおまえら、これで小野は動けない。
「たすけてえ!」
『ドア閉まりますご注意ください』
小野の悲鳴にかぶさって、山田電車のポケットの辺りから、どっかで録音したような駅員の声が聞こえた。と、同時に、俺たちを乗せるためにしゃがんでいた山田電車が突然、立ち上がった。
野球部員4人、プラス、荷物も4人分、
これだけの重量を、山田電車はいとも簡単に持ち上げ、そして進み始める。
「あああああ!」
「う、動いた…」
はじめはゆっくり、線路沿いの道を、ガッシャン、ガッシャン、と重々しい音をたてて、山田電車は走り出した。

茹だるような夏の日差しの下、白昼堂々、ユニフォームを着たむさ苦しい高校生男子4人を担ぐ電車頭の大男。
あまりに異常な光景過ぎて、幻覚だとでも思うのだろうか、行き交う人々が、意外なほどこちらを気にしないことに俺は驚く。まあもちろん全員じゃない、思いきり大口開けて凍りついてしまっているガキなんかはチラホラいたが、正直、不思議なほど視線を感じなかった。これも山田電車の魔力か何かなんだろうか?いや、どちらかと言うとだ、魔力、というよりも普段、線路を走行する電車をごく当たり前のものと思って無視している、その感じに近いかもしれない。
そうこうしているうちにスピードが上がってきた。鉄柵の無い側、山田電車の背中に吊革が付いている事に気づいた柏崎がいち早く右肩の輪を握る。左肩のは須藤が。悲鳴を上げながら、小野もちゃっかり真ん中の背骨に沿った吊革を掴んだ。俺の位置からだと掴める吊革は既に小野の持っている吊革だけだったので、仕方なく体を少し起こして山田電車の両肩に直に手をかける。
体温が、あった。
青果市場に面した線路沿いの道路を、山田電車は駆け抜ける。既に数台の車を追い抜いている。歩行者の顔を認識することができないスピードになってきた。
「はあはあはあはあはあ」
小野が緊張のあまり叫ぶことすら中断して荒い息をしている。
「平気か小野」
訪ねると、冷や汗びっしょりの小野はかすれた声で答えた。
「うう…うん…い、意外と揺れない…」
確かに。そう思った時ちょうど、隣の線路を、向かい方面から、下り電車が走ってきた。すれ違いざまに山田電車の頭部から、プァアアアン、と音が鳴る。須藤が震えた声で呟いた。
「…すれ違う時に、警笛鳴らしましたね…ハハ…電車だ…本当に電車だ」
引きつった顔で笑う須藤は間違いなくイカレた人間に見えたが、そういう意味では俺が一番イカレて見えるんだろう。なぜならこの時俺は、山田電車を電車として認め始めていた。乗り心地は良くはないが、思ったほどガクガク揺れる訳でもない、とか、そんな事を考えていたのだから。
と、突然、カーブする線路に沿って、山田電車がフェンスを飛び越え、路線の敷地内に入った。僅かに体が浮いて、着地と同時に俺は少し小野の左手を踏みそうになる。ヒヤッとした。
「悪ィ」
「ワアアアアアア」
小野はフェンスを飛び越えたショックで叫ぶのに夢中だった。こんな奴だが本当に、投手としては面白い奴なのである。俺は小野の投げる変な球が好きだ。シンカー崩れの意地の悪い球も、時々とんでもなく鮮やかに決まるスプリットも、成功率の低いナックルも好きだ。試合で小野の球を受けられるのは今日が最後かもしれない、そう思うと、例え都市伝説の化け物であっても、俺は山田電車に縋らずにはいられなかった。
頼む…間に合ってくれ、
そう祈るのと同時に、山田電車が再び空中を滑空した。
「え!?ちょ…、」
「ウソだろ」
着地したのはトンネル入り口の屋根の上。慌てる俺たちに構うことなく、山田電車はそのまま、トンネルの貫通している山の斜面を駆け上がり始めた。
「ちょ…ま、まさかこれ」
「ギャアアアア!」
「うわあああああ!」
夏の濃厚な草いきれと共に、木々が凄まじい勢いで視界のものすごく近いところを過ぎていく。山田電車は、山の内部を通るトンネルの真上を、走行しているのだった。
ざざざざざざざ、
という音が後ろにぶっ飛んでいき、やや後ろに傾いていた体重が、前にかかり始めたところで、再び、宙を舞う感覚、
「あ…」
「あ、」
「…あ、海…」
「アアアアアア!」
山の下から一瞬だけ見えて再びトンネルに入ってゆく線路を一気に飛び越し、山田電車は次のトンネルの上に着地した。そうしてまた斜面を駆け上がる、休息はしない、1秒たりとも。
「うふ…いま海見えました…とおくに…」
ほとんど放心状態の柏崎がそんな事を呟いた直後、再び、滑空、
「お…」
本当に海が見えた。ということは、G駅が近いのか。
「今何時だ?」
「け、携帯見れる体勢じゃないす…」
「だよな」
言いながら俺は山田電車の、電車型の後頭部に視線を遣った。折れた枝が引っかかっていた。奴は気にしちゃいないみたいだが、片手を伸ばして一応、とってやる。柵に体を押し込めて座り込んだ格好の小野が、俺の顔を下から眺めていた。
「…秋津…俺たち間に合うかな……」
「祈っとくしかねえんじゃん」
「何に?」
「電車に」
ざざざざざざざ、という音が途切れた。山田電車はトンネルの出口から右に反れて線路脇の民家の屋根に降り立った。屋根瓦を蹴散らして隣の屋根に移る、すぐまた隣、隣と繰り返した後、唐突に地面に飛び降り、そして、
止まった。
「えっ」
「なんで、だってまだ、」
自販機の前に居たサラリーマンが、こっちを見て固まっている。その頭上に看板が見えた。
「…H駅、」
駅ビルもある巨大な駅舎。須藤が泣き顔にしか見えない笑い顔で振り返った。
「先輩…こいつH駅で停車しちゃってます…」
「秋津、目的地H駅にしたのかよ!」
小野がいっぱしに抗議の目を向けてきやがったが、俺は首を振った。
「違ぇよ、ちゃんとE駅特急って書いて…」
『まもなく発車となります、電車お乗りになってお待ちください』
割り込んできたのは山田電車のポケットからのテープ声だった。
『ドア閉まります』
須藤が例の泣き顔で噴いた。
「ぶはっ…違いますよ、先輩、こいつ電車だから、デカい駅だと停まるんですよ、きっとそうだ、だって特急だってココ、絶対停まりますもん」
「…融通きかねぇ…急いでんのに…」
小野がため息をついた途端、山田電車が、ガシャンと立ち上がった。枝にこすったのか、頭部の電車模型にはざっくりと傷が付いて、オレンジ色の塗装が剥げてしまっているのが目に入り、俺は走り出した山田電車に向けて、思わず、
「大丈夫かよ…」
と言ってしまった。もちろん電車は返事をしなかった。

新幹線に乗って行った小泉奈緒たちはH駅で乗り換えをしたはずである。山田電車がどうするのかと思えば、奴はとんでもない方法で路線変更を成し遂げた。
先ず駅舎と繋がった白い駅ビルに真っ直ぐ突進し始めた時点で、小野が泣いた。だが真の恐怖はこれからだった。ちらほら見受けられる通行人の視線を浴びながら、山田電車はあろうことか駅ビルの壁をよじ登り始めたのだ。
「ニャアアアアア!落ちる落ちる落ちちゃうう!」
「ええええええ!?」
「おい、待っ…これ、どうやって…」
「はわわ…わわ」
信じきれなかった。
山田電車はクマか何かのような大きさの手をぶち込んで、壁に穴を開けながら、それを足掛かりにして登っていた。電車同様、最初はゆっくり、しかし次第に加速しながら、山田電車は10階はあると思われる駅ビルをあっという間に登りきり、僅かの減速も無しにそのまま、何の躊躇もなく、
跳んだ。
耳を裂く風の音。閉じそうになった視界を無理にこじ開けると、展望台からも見たことの無い、気が狂いそうな全方位パノラマの風景が広がっていて、俺は息を止め再び目を固く瞑った。
ドン、
と、あの高さに反して有り得ないほどの軽い衝撃の後、山田電車は乗り換えの線路と併走する道路に着陸し、間髪入れず、走る、走る、走る。
電信柱が、家が、車が、犬を連れた婆が、何もかもが形の溶けた、ただの色のストライプと化してゆく。プアン、と山田電車の警笛が鳴ったということは、たった今過ぎた白い塊はすれ違った電車だったのか。踏切を横切る道路を丸ごと飛び越したと気付いたのも既に事が終わってからだった。次いで正面に巨大な暗褐色のビルがそびえ立っているのが見えて、小野と柏崎が泣き叫んだ。
「…………!!!」
音が風で後方に流れてしまうため、声は聞こえなかった。俺と須藤は青ざめた顔を見合わせようとしたが、山田電車はそれより速く、ビルに正面衝突した。

死んだ

そう思った。だが俺たちは無事だった。あまりのスピードに、何が起きたか把握出来なかったが、俺は何とか後ろを振り返ってみて、事を理解した。突き抜けたのだ、ビルを。何だか倉庫のような薄暗い場所を通過したような気がしないでもないが、全く判らなかった。心臓が口から飛び出るんじゃないかと思うぐらい激しく脈打っている。俺は、俺たちは恐ろしい怪物に乗ってんじゃねぇのかこれ…、
今更だが、背中に冷たいものを感じた、その時だ、
ガクン、という今までにない激しい揺れと同時に、山田電車が
突如、減速した。
駅ではない。人気のない、何か、建築中のまま放置された施設の敷地内のような場所。山田電車が減速するのは駅で停車する時だけじゃないのか?
嫌な予感がした。考えてみたら俺たちは信じられないような不運の連続だったのだ、それがもう打ち止めだという保証はどこにもない訳で、
「あ、あ、前!前!」
柏崎の声にかぶせて山田電車が警笛を鳴らす。俺は山田電車の肩の辺りに首を寄せて前方を確認した。
ちょうど、俺たちの進路に向かって鉄骨の群れが倒れて来るのがスローモーションで、見えて

電車は急に止まれない

ふざけた言葉が頭を過ぎり、俺は叫んだ。
「ぶつかる、かがめ、───

金属とコンクリートが次々と衝突する音の嵐に、鼓膜が破けそうになった。全身に力を込めて硬く体を丸め、俺は鉄骨が落ちてくるのを覚悟した。というか、覚悟なんかできていないが反射的にそうしてしていたのだ。
けれど、音はやまないくせに、痛みは来なかった。
俺は頭を覆った腕の間から、その光景を見て言葉を失った。小野も、須藤も柏崎も、俺と同じように丸まって縮こまりながら絶句していた。
「………………」
時間差で連続して倒れて来る長い鉄骨の群れを飛び越えるのは危険、手前でブレーキをかけて止まる時間も無い、そう判断したのだろう。山田電車は減速しつつも、連続して崩れて来るバカでかい鉄骨を、あの長くて太い腕で払いのけて前進していたのである。
しかし全てを完璧になぎ払うのは不可能だ。俺たちの見ている目の前で、鉄骨が山田電車の頭部を直撃した。
「…あ、」
小野がかすれた声を上げる。山田電車の、電車車両の形をした頭部は、真ん中の辺りで大きく陥没し、車輪のあたりからジャケットに、どす赤い液体がバタバタと落ちて染み込んだ。だが山田電車は意に介さず、黙々と俺たちの側に傾いてきた鉄骨を掴んで投げ捨て、前進を続ける。
どう見ても奴は、俺たち、乗客の側に鉄骨が当たらないようにする事と、そしてとにかく目的地に近づく事を最優先していたに違いなかった。
山田電車の頭部から、パリン、と細かい欠片が散る。頭の電車の、割れた窓部分だった。俺は最初に山田電車の肩口に掴まった時、奴に体温があったことを思い出す。
体は人間、心は電車
山田電車に関する都市伝説でそんな話を聞いたことがあるような気もした。
電車には鋼の装甲がある。木造でなく鋼で形を造られた時点で、電車は乗客を保護する形質を備えていると言える。もしも電車に心があるとするなら、それは電車の姿そのものに既に表れているのかもしれない。
体は人間の山田電車の心には、乗客を保護する鋼の車体と同じ形をした部分がある。そんな気がした。
「…電車、」
最後の一本を蹴り退かすまでに、山田電車は計4本ほどの鉄骨を浴びていた。脚にも何本か当たっていたと思う。それでも奴は構わず再び加速を始めた。塀を乗り越えて民家の屋根に上がり、そこからまた細い道を走り抜ける。まるで鉄骨の事故など無かったかのように、ときに跳び、ときに突き抜け、ときに登り、走行し続けた。
扇風機でも乾燥機でも餅つき機でもいい、全機能をフルパワーで回転させて動かした機械が、無機質なくせに猛々しい歓喜にうち震えて見えることってないだろうか。俺は山田電車に同じものを感じて、妙に胸が熱くなった。
ただ、やはり若干、僅かに、乗り込んだ当初より山田電車のトップスピードは落ちている気もした。
「なんか……」
小野がじっと、山田電車のジャケットに零れた血痕を見つめながら言った。
「なんか…がんばれ…」
もちろん山田電車が応えるわけは無かったが、小野の気持ちは俺にもよく判る。おそらく須藤や柏崎も同じだったのだろう、目が合った。口にこそ出さなかったが俺も内心で、山田電車に声援を送っていた。

E駅まで山田電車はどこにも停まらなかった。ひたすら線路に併走し、鉄橋では橋の裏側にしがみつくようにして渡りきった。落ちやしないかとも思ったが、そんな事はなかった。工業地帯を抜けて、丸い屋根のE駅が見えてきたところで山田電車はゆっくりと速度を落としていった。ちょうどホームの端にあたる駅前広場の銅像の裏側で、山田電車は停車し、ガクンとしゃがんで俺たちを降ろした。
いち早く須藤が広場の時計を仰ぐ。
「10時30分…ま、間に合いました!てゆか早い!全然余裕ですよっ」
「あああああよかったあああああ!良かったようう」
「逆転勝利じゃないすか!」
「マジかよ……」
ふと目を遣ると、浮かれる俺たちを全く無視して、山田電車が、ボコボコに壊れた頭部の電車の方向幕に何か差し込んでいた。
回送
そう書いてあった。
「電車、」
呼ぶと山田電車は振り返って、回送の表示を抜き取ろうとしたので、俺は慌てて手を振った。
「違う、いい、乗りたいわけじゃねえから、違くて、これ、」
俺は山田電車にポカリを手渡した。K駅で買ったやつだ。これぐらいしかやれるものが無い。山田電車は青いポカリの缶を、壊れた電車頭でじっと見つめ、首を傾げた。
「やるから」
俺は山田電車に缶を押し付け、一歩下がり、先輩にやるように頭を下げた。ばたばたと後ろで音がしたのは、小野、柏崎、須藤も同じ動作をしていたからだろうとすぐ判った。きっちり3秒数えて頭を上げて、俺たちは踵を返して球場に向かう道を走った。
50メートルくらい行ったところでチラッと見た時、山田電車はまだ手に持ったポカリに首を傾げていたが、その次に見たときにはもう姿が無かった。
「小野、調子は?」
前を走る小野に尋ねると、小野は例のしゃれこうべみたいな顔をニタリと歪ませて、
「とりあえず、緊張は無いな」
と答えた。まあ、山田電車に乗った恐怖と比べたら、試合のプレッシャーなんかぬるいもんだろう。
「どうすか先輩、いけちゃったりしそうすか」
「さあ。結構いけちゃうかもしんねぇ気はするけど…まあやるだけだろ」
電車は走ればいい、
野球部員は、野球をすればいい、
単純に。
死ぬほど心配しているだろう小泉に、着いた、とメールを送りながら、俺は山田電車の走る姿を思い浮かべた。
メールの題名は、電車の絵文字にしておいた。

跡地に戻る リストに戻る