代理屋

虫だけが友達の青年・秦野逸郎(はたの いつろう)の、虫の代理人のお仕事。
2009〜2011年にかけてゆっくり書いていた連作シリーズ。初期は各話完結、徐々に連続した展開になっていったものの、未完。
2009/10/19

代理屋(1)

「えー私、代理でお願いに来ました。隣の空き地に煙草落とすのヤメロ。との事です」
突然事務所にやって来てそう言った男に、ヤクザ達は激怒し、殴りかかった。
「んだコラ!」
「殺すぞ!」
「イテッ、あの、誓約書欲しいんですが、」
丁寧な口調に反して男はかなり暴れ、2時間後、漸く彼をとり押さえたヤクザ達は疲弊しきっていた。
「何者だコイツ…」
ヤクザ達は男の鞄を探ったが、出て来たのはネコジャラシ、1束。
「あ…それ前金、返して」
「テ、テメェまだ起きて…」
第2ラウンド。再び騒然となる事務所を、空き地からキリギリス達がハラハラしながら眺めていた。
「オ、オイがんばれ代理屋。前金払ってんだぞコッチは」
2009/10/20

代理屋(2)

警官が、他人の家の塀に泥をこすりつけている怪しい男を捕まえた。
「君、悪戯はやめなさい」
「これ仕事なんです」
「は?何の?」
「ツルツルの壁でサナギになると緑色のサナギになるんですが、こういうザラザラの壁でサナギになると褐色のサナギになるんですって。でもこの壁、緑でしょ?ここで褐色のサナギになったら目立っちゃって危険ですよね、だから塗り替えて欲しいって依頼が来まして…アゲハの皆さんから」
男は塀の横のミカンの木を指差した。
「君ちょっと署まで来なさい」
「えっ」
ミカンの上の幼虫達が、
ばっ…代理屋、なに捕まってんだ!
と騒ぐ声は警官には聞こえなかった。
2009/10/23

代理屋(3)

「オイ、代理屋!」
「秦野!返事しろ」
「死ぬのか」
「人間の19ってまだ寿命じゃねェよな」
「代理屋~」
「あの人間…アタシの秦野をこんなにしやがってただじゃおかねェ」
「オメーのじゃねえだろ。代理屋は虫みんなの代理屋だろ」
「うっせー食うぞテメー」
「秦野ー」
「え、代理屋どうしたの」
「人間に刺されたっぽい」
「人間って針あったっけ」
「馬鹿、ナイフとかゆうやつで刺したんだよ」
「はたのー」
あまりにもたくさんの虫が集まって来たため、通行人が異常に気づき、秦野逸郎は一命をとりとめた。なお、彼を刺した通り魔はのちにスズメバチに刺され入院した所を逮捕されたという。
2009/11/01

夕方、電車にて

「あの~…相席、よろしいでしょうか?」
「ありがとう。あ、よかったらポケット、使います?」
「いえ~全然」
「ですよね。もう随分、寒くなって来ましたからね」
「あ~北の方では、そうみたいですね…あっ、どこで降ります?よかったら送りますよ」
「じゃあ次の次だ。あ、いいですよそのままで。道順だけ教えていただければ。えへ、気に入っちゃいました?いいでしょー私のポケット」
電車の中、大きな蛾が羽を広げていたせいで誰も座らなかった席に腰をおろし、下車まで終始独り言を呟いていたように見えたこの男、秦野逸郎19歳が、虫界では超有名人である事を知る乗客はいない。
2009/11/06

禁止ワード

「ハァ、ハァ…ハァッ、」
かれこれ2時間、若者は逃げ続けていた。だがヒョロッと長身の妙な男はまだ追ってくる。
「待って下さぁい」
「来るなァ!」
「あイタッ」
破れかぶれに道端の自転車や廃材をぶつけてみるが、流血しつつも男の速度は緩まない。ついに若者は袋小路に追いつめられた。
「ア、アンタ何なんだよ!」
「あの、先程も申し上げたのですが私、南公園北フェンス側のカマキリのお客様の代理で、貴方に"卵を潰された復讐"をさせて頂く事になりまして」
「だ、だからっ何で虫ケラの、た、ブバッ!」
若者の顔面に男が申し訳なさそうに膝蹴りを入れた。
「すみません虫ケラ、はマズいですお客様に対する差別用語に該当するので…」
2009/11/09

スイートブラッド

男は目を覚ました。気を失っていたようだ。
「わっ…大変、大変」
片足が折れていて、男はよろめいた。全身痣だらけでところどころ出血もしていたが、彼はあまり気にせず辺りを見回した。
「あ~よかった、まだ居ましたか」
完全に気絶している30人余りの暴走族達の中から、一際背の高い金髪の若者の姿を見つけると、男は空中に向けて喋った。
「お客様、彼ですよね?お待たせしてしまってすみません。準備のほう出来ましたので、どうぞー」
すると小さな蚊が1匹、白眼をむいた金髪の若者の顔にとまった。男はニコニコと頷く。
「そんなに素晴らしい味なんですか~いいな~」
2009/11/11

ゼフィルス

その学者は、ある蝶を捕まえるため寂しい山に幾度となく通っていた。いつもあと一歩で逃げられてしまうのだ。今日も彼は蝶を追う。網を振る。蝶はかわす。網を振る。かわす。
その時、学者の足元がズルリと歪んだ。長雨でぬかるんでいたのか。崖を滑り落ちてゆく学者。
「うわぁあ!」
だが落下は途中で止まった。
「ハイ失礼します」
学者は奇妙な青年に襟を掴まれていた。
「助かった…ありがとう」
「私の意志ではなく、こちらのお客様からのご依頼でして」
青年が指し示しす先に学者の追う蝶が羽ばたいていた。
「あ、伝言もあります。まだまだ捕まらないぜバーカ、との事です」
2009/11/11

雨が降っていた。少女は道端で傘をさしたままうずくまる青年を目にした。足元に数滴、血痕が落ちている。怪我だろうか。少女は声をかけた。
「どうしたの」
「あ…大丈夫です気にしないで下さい」
青年は困ったように微笑んだ。
「怪我してるの?」
「はい、仕事で、少し。でも本当に大丈夫なんです、皆さん心配しすぎなんですよ」
答えながら青年は傘を僅かに傾けた。
「キャアアーッ!」
傘の裏にびっしり貼り付いた蛾の群れを見て、少女は逃げ出した。
「えっ、な…」
困惑する青年に蛾が言う。
「あのね秦野。蛾は人間には嫌われモンなの。いい加減覚えようね」
「…すみません」
2009/11/15

おんがえし

空き家で繰り広げられていた5人の不良少年達の酒盛りは、突然現れた男に中断された。
「こんばんは。ある方の代理で皆さんにお席の移動をお願いしに来ました」
「は?何だコイツ」
少年達は訝しげな視線を送る。
「すみません時間がないんで」
「あっ」
「何すんだよ!」
男は手近な少年2人を抱え上げ、空き家の外へ。残りの3人も慌てて後を追う。全員が出た途端、空き家は音をたてて崩れた。
「シロアリさんが食べていたんですよ」
「た、助かった…アンタ誰に頼まれたんだ?」
「このお客様です。皆さんの残したお酒をいただいたお礼だそうで」
男の手にゴキブリが1匹乗っていた。
2009/11/15

オールナイト

「ころころりー、ころころりー」
妙な歌を歌う青年は、暗くなってもまだいなくならなかった。この公園でクスリの取引をする予定だった高村は、しびれを切らし声をかけた。
「お前、いつまで居る気だ」
「はい、この時間はこちらのお客様の代理で私が縄張りを主張しています、ころころりー、朝まで歌いますよ、りー」
誰かに踏まれたのか翅の潰れたコオロギが青年の肩に乗っていた。
「イカレてんのか?おい、今すぐ…」
追い出そうと、拳を振り上げる高村。が、その手は青年に素早く掴まれる。
「りり、この時間は、僭越ながら私、秦野が縄張り争いの方も担当させていただきます、りり」
2009/11/15

3ねん2くみ

「そっか、これ、イジメだったんだ…」
破れた教科書を困り顔で見つめながら、子供は、教室の隅のゴキブリにそう返事をした。ゴキブリが触角を揺らす。
「…うん、ありがと」
子供が答えた直後、ゴキブリに気づいた女子が悲鳴をあげた。クラスのリーダー格の少年がホウキでパチンとゴキブリを叩く。
「すごい」
「怖くないの」
「全然」
沸き立つクラスメイト達に自慢気に答える少年の横で、子供は頬に涙を伝わせていた。
「何泣いてんの秦野。もう死んでんのに」
「ビビリだな」
クラスメイトはそう言って子供を小突いたが、子供は答えず、ゴキブリの亡骸をそっと抱き上げた。
女子が再びギャーッと悲鳴をあげた。
2009/11/16

頼れる人材

山道を歩いていた写真家は、憔悴した様子の青年に出くわした。
「君、どうかしましたか」
「はい、あの…この段差の下に、トンボ池があるんですけど、そ、そこに廃車が、落ちそうになってまして、」
青年は、何故だか大量のトンボのたかったワイヤーを掴んでいる。
「うう…今、親御さん達と一緒に引き上げようとしているんですが、私たちだけではパワー不足でして…」
一部意味不明だったが、ワイヤーに結びつけられた廃車と下の池を確認した写真家は、
「手伝いましょう」
と申し出た。すると青年は言った。
「た、助かります。では、カブトムシさんか、クワガタさんを呼んできていただけますか」
2009/11/16

ハイチーズ

写真家の娘は、父の撮ってきた写真を見て、感想を漏らした。
「父、なにこれ。面白ポーズばっかりじゃないか」
クスクスと笑う娘に、写真家は言った。
「いや…なんか、変わった青年に会ってね。ちょっと手伝いをしたらさ、」

「ありがとうございました助かりました」
「いや、カブトムシ持ってきただけで、そんな」
「虫さんの写真をお撮りになるのですか?」
「ええ」
「なら撮られるの好きなひと呼んできましょうか」

「…で、撮れたのがこれなんだ」
シェーのポーズのカブトムシ。
足を1本、段差にかけて気取ったシオカラトンボ。
組体操するヒラタシデムシ…
「かわいい」
娘はまたクスクスと笑った。
2009/11/23

お別れ

住宅街の空き地に青年が1人、立っていた。足元には1匹のガマガエル。そのガマガエルはバッタをくわえていた。
「秦野、もう泣くなよ」
ガマガエルの口からはみ出したバッタは言った。
「はい…」
青年はコートの袖で目を拭って声を絞り出す。
「これからお前はカエルを見たら、あ、おれだ、って思ってくれればいいんだ、そうだろ」
「うう…」
「ほら、お前が見てるからカエルがおれを食えないじゃないか。もう行け」
促され、しゃくりあげながら青年は歩き出す。その背中に、バッタが呟いた。
「ありがとうな」
住宅街を抜けても、まだ涙を止める事ができなかった青年は、警察官に職務質問をされた。
2009/11/26

人間のお仕事1

深夜の棚卸しのアルバイトの休憩時間。白田は同じバイトの青年に話しかけた。
「秦野くん」
「はい」
倉庫の隅で電灯を眺めていた青年は、振り返った。あまりシフトを入れず、同僚と喋る事も無い青年は、周囲から浮いていた。白田はそんな青年が気になっていた。
「君、ちょっと周りに溶け込む努力したほうがいいかもよ」
「す、すみません…あっ」
長身をペコッと曲げて頭を下げたと思ったら、青年は突然弾かれたように、電灯に向かって、跳ねた。
「駄目です危ない!それ殺虫灯ですっ」
天井に頭を打つほど跳躍して着地した青年の、やさしく閉じた両手には、蛾が1匹おさまっていた。
2009/11/26

人間のお仕事2

棚卸し作業をする青年の頭にとまった茶色い小さな蛾は言った。
「秦野ごめん」
「何がです?」
青年は洗剤の数を数えながら答えた。
「あんたの同僚、さっきの見て青ざめてたよ。また人間の友達、減っちゃったんじゃないの」
「いえ、貴女の命のほうが大事ですよ…それに、」
青年は少し俯いて
「私、子供の頃から、人間のひとが苦手なんで…どのみち仲良くなれなかったと思います」
そう言った。
「ふうん…」
蛾はそこでふと思いつき、尋ねてみる。
「じゃ好きな子もいない?」
「…!!」
青年は硬直した。
「え、いるの?誰!」
「あの、オ、オオミズアオの…」
「違ぇよ人間でだよ」
2009/12/06

あなぐらの彼

ゲジを1匹頭に乗せて、青年は高台のフェンスの上に座っていた。
「スゲェ…思ってたよりずっとスゲェ」
嘆息するゲジに、青年は微笑む。
「ご満足いただけて嬉しいです。しかし貴方は生まれてからあの岩穴にずっと居たんですよね。どうして夕日というものを知ったのですか?」
「以前食ったコオロギから聞いた。あれは、凄い、と」
そこに通りかかった蠅が口を挟んだ。
「ウヒ、穴蔵野郎が夕日なんか見てやんの」
「うっせえな食うぞテメェ」
と言ったものの、ゲジは蠅を捕らえる素振りもせず夕日に見入っていた。
「また見に来ます?」
青年の問いにゲジは答えた。
「1度きりが良いんだ」
2010/01/13

ムカデの微笑み

孤独な画家が居た。画家はすべてを憎んでいた。最後にありったけの憎悪を注いだ絵ばかりの個展を開いて絶筆する事にした。
個展に来た客は皆、顔をしかめて出て行ったが、画家はそれでいいと思っていた。
ところが、ある1人の青年だけは、画家が憎悪の象徴として描いたムカデを指差し、こう言った。
「いい笑顔ですねぇ」
画家は鼻を鳴らす。
「笑顔、だと?馬鹿な」
「えっ、で、でもこのムカデさん笑いかけてきてますよね?大好きな友達にするみたいに…」
言われて画家は絵の中のムカデを見る。描き続けてきた自らの"憎悪"が、頼もしい戦友のように百の脚を踏ん張っていた。
2010/01/29

ご自由にどうぞ

蝉の抜け殻を手に取ったその時、子供は妙な青年に声をかけられた。
「それは売却済みですよ。こちらの、ご自由にどうぞの殻のほうが良いかと…」
子供は笑う。
「うそォ、そんな事かいてないよ」
すると青年は、
「中を見て下さい」
抜け殻を指差した。
「白い糸のような物がありますね?」
「うん」
「それが殻の外に出ていないものは売却済みなんです」
「…ふぅん」
素直に抜け殻を戻した子供に、青年は微笑む。
「貴方は立派ですね」
照れ笑いしながら子供は尋ねた。
「ご自由じゃないやつ取ったらどうなるの?」
「オシッコされます」
頭上で蝉が、ジジッと鳴いた。
2010/03/12

にんげん

虫を戦わせて映像を売る業者の倉庫に、ある夜、青年が1人忍び込んだ。水槽の中のムカデに、青年、秦野は囁きかける。
「代理屋です」
ムカデは丸まったまま返事をした。
「頼んでない」
「え、でもユスリカさんからの紹介で…」
「あのアタマ虫野郎、勝手な真似を。確かに俺は明日ウデムシと戦わせられ、多分死ぬ。だが救出は無用だ。どうせもう体はガタガタだしな。それにアンタそんな事をすれば泥棒だ、人生終わるぞ」
だが秦野はムカデにこう答えた。
「いいんですよ。人間に生まれた時点で私の人生はもう駄目です」
ムカデは思わず頭をもたげたが、前髪の長い秦野の表情はよく見えなかった。
2010/06/22

ひとでなし

青年はバイト先をクビになった。会社の経営が悪化して人員削減を行う事になり、飲み会にも参加せず誰とも交流の無かった青年、秦野に白羽の矢が立ったのである。
「秦野くん、今日で最後なんだって?」
最後の勤務後、同じバイトの女性に声をかけられた。
「は、はい」
「じゃあもう会えなくなっちゃうじゃない。メアド教えてよ」
「な…なぜですか」
彼は純粋に、不思議に思った。彼女と大して話した記憶もなかったからだ。だが
「何でって事ないでしょ」
女は表情を無くし、
「きみってさァ…」
こう言った。
「かわいそうな人だね」
青年は何も言葉を返すことができなかった。
2010/06/22

再び、雨

雨の中、傘もささず青年は歩いていた。アスファルトの水溜まりに溺れるハナムグリを見付けた彼は地面に跪き、それを両手ですくい上げる。
「大丈夫ですか」
「何だ秦野じゃん…お前こそ大丈夫かよ…」
弱々しく脚を動かすハナムグリに言われ、秦野の目が一瞬泳いだ。
「私、どうかしたように見えますか」
「見えるよ…お前、俺はバラの花の精気を見るプロだぜ。つらいことがあったのか」
「いいえ…」
「秦野」
「…人間を、」
「うん」
「人間のくせに人間を愛せないのは、いけないことですか…」
「そんな事ない」
ハナムグリは、
「そんな事あるもんか」
秦野の指を触角でやさしく撫ぜた。
2010/07/13

旅の友

代理屋稼業に忙しい秦野が働ける人間の仕事は限られる。新しい仕事はなかなか決まらなかった。
「出てくのか」
アパートのゴキブリが尋ねる。背中にコオイムシの卵を乗せたまま荷造りをしていた秦野は俯いた。
「ハイ…お別れしたくないですが、家賃を払えなくなりました」
「行くあては?」
「先ずはコオイムシさんから依頼されたこの子達が安全に孵化できる池に、」
「違ェよ、オマエ自身の巣の話だよ」
ゴキブリは
「まァいい。準備できたら呼べ。俺も行く」
それだけ告げてタンスの下に引っ込んだが、秦野がそのまま固まっているので触角を出して様子を窺う。
「何だよ」
「いえ…嬉しくて…」
2010/07/17

退避

空き地の草刈りをしに来た業者の男は、雑草の茂みに体育座りをする青年を見つけた。
「何やってんだアンタここ私有地だよ」
「あ…はい、少し待って下さい」
「困るよ、さあ出て、出て」
男が声を荒げると、青年は立ち上がり、叫んだ。
「皆さーん、時間です」
その途端、雑草からバッタや蝿、蛾、蜂などが一斉に飛び去った。更にヤスデ、蜘蛛など羽の無い連中が次々と青年の体に這い登っていく。大量の虫を体に乗せた青年は去り際に小声で呟いた。
「私個人はこの人を草刈りのできない状態にする方法も良いと思いますが…皆さんがそれを望まれないのでしたら、致し方ありません」
2010/07/19

それは次第に深くなる

「えっ秦野まだ新しい巣ないの?」
ハサミムシに呆れられ、恥ずかしそうに頷いた秦野より先に胸ポケットのゴキブリが発言した。
「そう。コイツ行き当たりばったりの河原とかで全然身ぃ隠す気ゼロで寝んだよまったく」
「うう…でも私、葉っぱに隠れるには大きすぎですし、保護色とかも無いので、どうにも…」
「人間用の巣、借りないの?」
弁解する秦野にハサミムシが尋ねると
「なんか、あんまり…」
彼は言い淀み、俯いてしまった。
「じゃ今回の報酬にいい寝場所教えるよ」
「助かります」
ハサミムシの申し出にペコリと下げた秦野の頭の上で、ゴキブリは
「秦野…」
不安げに触角を揺らした。
2010/07/19

不在

真夜中、餌を食べに出かけていたゴキブリが寝床に帰ってくると、コの字型のコンクリートの隙間に長身を丸めて眠っていたはずの秦野の姿が無かった。
ここ数日、秦野はこうして時々居なくなる。ゴキブリは気付いていたが、それについて本人に訊ねる事はしなかった。
「アイツどこに行くとか言ってたか?」
コンクリートの隅に巣くう地蜘蛛に聞いてみる。地蜘蛛は
「何も…」
と答え、そして無口な彼女にしては珍しく一言付け加えた。
「変化してるよ、彼」
「知ってる」
「大丈夫なの」
「わかんねえ」
ゴキブリはコンクリートの上によじ登り、月にかざした触角を拭きながら秦野の帰りを待った。
2010/07/31

暗闇

「やるわね?今日も」
羽の潰れたヤミスズメバチは、今夜も姿を現した"友達"に、単眼を向け、そう言った。
「はい…」
頷いた秦野が布で顔を半分隠すと、ヤミスズメバチは満足気に触角を揺すった。スマトラ島からマニアの手によってただ一匹日本に連れて来られ、息苦しい透明なケースから必死に逃げ出したヤミスズメバチにとって、秦野はこの地で初めて出来た友達だった。
「スマトラでは家族を焼かれて、ここでは監禁。人間は酷い生き物よ。アタシは人間が憎いの。でもね、」
飛べないヤミスズメバチは秦野の耳に脚をかけ、囁く。
「お前は別。アタシと同じ心を持ってる。秦野、お前は人の姿をした闇雀蜂だもの…」
2010/08/03

真夜中のスズメバチ

深夜。コンビニの周辺に数人の若者達が集まっていた。その内の一人、女が悲鳴をあげる。携帯の光に誘われ、小さな蛾が彼女に纏わりついてきたのだった。
「ヤダヤダ!とって!」
「ウルセーなあ」
隣にいた男が雑誌で蛾を叩き落とす。
「ただの蛾だろ」
落ちた蛾に、一人がふざけてライターで火を点けた。
「ギャハハ何してんだよウケる!」
「スゲー、マジで燃えてんな」
笑っていた彼らは、蛾が灰になった所でふと、何かの視線を感じて振り返る。
「何だアンタ…何見てんだよ」
街灯の脇に長身で猫背の男が佇んでいた。
「何か文句が…」
言いかけた若者の顔面に、猫背の男の膝が突き刺さった。
2010/08/04

風が吹く

「良い風が吹いていますね」
秦野逸郎は土手のススキ野原を歩きながら胸ポケットのゴキブリに話し掛けた。
「ああ悪くない…」
応えて少し間を空け、ゴキブリはきり出した。
「秦野」
「何ですか」
「こないだ業者が草刈りした庭な、」
「はい」
「近所に庭の草刈りをしない奴がいるから何とかしろって行政にクレームつけた人間が居たらしい」
「はい…」
「そいつ、夜中に何者かに襲われて入院したってよ」
「………」
秦野は胸ポケットから目を反らし、俯く。
「そいつだけじゃない。他にも、同じような事件が相次いでいる」
ゴキブリはついに尋ねた。
「秦野…お前は夜、何をしている?」
2010/08/13

蜘蛛の糸、蜂の毒

藤沢基樹は待合室に捨て置かれた新聞から目的の記事を切り抜いた。
顔を隠した長身の男に暴行を受けた11人の被害者のうち8人は、蜘蛛の獲物のように全身をビニール紐で巻かれた姿で発見された。巻かれなかった3人は襲われた若者の集団に含まれており、これは単に紐が足りなかった為と思われる。被害者に共通点は無く、警察は無差別的な愉快犯と見ていた。
藤沢が事件に興味を持ったきっかけは、最初の被害者男性が事件直後、偶然ハチに刺され、藤沢の勤める病院で緊急に治療を受けた事にある。
蜘蛛の糸、蜂の毒
藤沢は記事の裏に鉛筆でそうメモを記し、仕事に戻った。
2010/08/14

辿る男

「貴方は虫の写真を専門に撮られるとか」
「ええ…」
突然訪ねて来た浅黒い肌の男に、写真家は怯む。暗い目で淡々と喋るその男は、藤沢、と名乗った。
「では愛好家や研究者との交流も?」
「ええ、はい、」
「蜂と蜘蛛に詳しい方をご存知ですか。できればこの界隈で」
そう言った藤沢は蜂にも蜘蛛にも興味がある風には見えない。
「全然違う生物ですから、両方に詳しいとなるとちょっと…」
答えながら写真家は、先日近所の山で会った長身の青年の事を思った。まるで虫と会話しているようだった彼なら、或いは。
だが写真家は青年の事を藤沢に話す気にはなれなかった。
2010/08/16

虫の言葉

ビニール紐で巻かれ、道端に転がされた人間を、秦野の肩の上から見下ろして、ヤミスズメバチは囁いた。
「アタシをそこに降ろして」
「…それは、」
顔を隠した布と長い前髪の隙間から覗く秦野の目が、それまでの空洞のような色から微かに揺れる。
「最初の日以来、降ろしてくれないじゃない」
「貴女がこの人を刺さないようにです」
「…人間に同情する気?」
「違います。それを続けたら人間はこの辺のスズメバチさんを一斉駆除しかねないからです」
違います、という穏やかで冷酷な宣言に、ヤミスズメバチはクスクスと顎を鳴らした。
「そうね、裏切る筈がないわね…人間じゃないものお前は」
2010/08/17

ひとむし

「…人間でいるのがつらいんです、」
秦野はゴキブリの体を、砂の彫刻を扱うかのようなやさしい手つきでポケットから手のひらに乗せ直した。
「"あのひと"と一緒に居ると、私は虫になれる気がするんです、」
大丈夫、躊躇うことも悲しむこともない。苦しくなればいつでもアタシが、言ってあげる。おまえは虫よ、醜い人間などではないの――
「秦野、」
ゴキブリは触角で秦野の鼻先に触れた。
「虫はそこまで人間を憎んではいない。俺ですら、そうだ。引きずられるな、その女は人間を憎みすぎて…」
ゴキブリは言葉の途中でハッとなる。
お前もそうなのか秦野、人間でありながら人間を、
2010/08/23

恋の片棒

「こんにちは」
獲物を待ち伏せていた大きなカマキリに、青年は声をかけた。
「秦野か」
カマキリは三角の頭を傾げる。
「お元気でしたか」
「あたしはいつも元気だ。お前は少し痩せたな秦野。メシ食ってるか?」
「昨日はイタドリの葉を食べました」
「そうか。あたしはバッタを食べたぞ。すごくうまかっ…あっ!何をするっ」
秦野の方ばかり見ていたカマキリは、背後から足の悪い雄カマキリに抱きつかれた。
「好きですお願いします!」
「むむ、秦野を雇って隙を作らせるとは策士だな。いいぞ、お前の卵を産んでやろう」
交尾の姿勢に入った2匹の邪魔にならぬよう、青年はそっと草むらから離れた。
2010/08/23

彼の光景

ミニバンのフロントガラス越しに、道の無い草むらからヒョコッと現れた青年の姿を見て、写真家は小さく、あ、と呟いた。
「父、どうかした?」
助手席から写真家の娘が尋ねる。
「"彼"だ、」
「彼って誰、」
父の視線を目で辿り、娘は絶句した。猫背の青年の周りに20匹近くのカラスアゲハが集まっていたのだ。警戒心の強い蝶である。信じきれない光景に、娘は身を乗り出す。
「…もしかして例の"彼"?」
「うん」
少し急いでいたのだが、写真家は、青年とカラスアゲハが反対側の草むらに消えるまで車を先へ進めなかった。
「綺麗だね。何だか泣きたくなる」
娘はそう言って1枚だけシャッターを切った。
2010/08/24

嘘と捕虫網

藤沢基樹が昼間の仕事に精神科の看護師を選んだ理由は、人間の嘘と真実に関する様々なサンプルを観察できるからである。彼は写真家が"告げなかった何か"に気付いていたが、追及するには材料が足りなかった。無関係かもしれないまともな人間、それも穏やかで無害な者に尋問の恐怖を与える事はできない、それは藤沢基樹が最も嫌う行為の一つである。
だが写真家が隠しているものが"何か"ではなく"誰か"である事は察しがついていた。それが藤沢の探す"虫"であるのかどうか、
別のアプローチが必要だ
と、彼は考える。数個の×印の付いた地図を広げ、藤沢基樹は歩きだした。
2010/08/24

本の虫

「そこのアンタ、これを読んでくれないか。俺はカタカナしか読めないんだ」
「お前ら、人間に依存しているくせになぜ人間文字が読めないんだ?」
ゴキブリが窓枠から呼ぶと、紙魚(シミ)は嫌そうに百科事典から顔を出し、そう応えた。
「行動派なんだよ俺達は。本の糊だけじゃカロリーが足りない。書を捨て街へ出よ、だ」
「どこで覚えたそんな事」
「テレビだ」
「テレビはくだらん。…で、何を読んで欲しいんだ」
これだ、と、ゴキブリは窓の外に落ちた新聞を示す。紙魚は素早く新聞に乗り、舐めるように記事を読んだ。
「ビニール紐暴行、12人目の被害者は死亡…」
「死亡?」
ゴキブリは触角を震わせた。
2010/08/27

蜘蛛男

死んだ12人目の被害者はビル街の駐車場で発見され、傍には灯油缶とマッチが転がっていた。当初、犯人の物と思われたそれは被害者当人が購入した物と判明。被害者は、昨年秋より続く連続ビル放火の犯人である可能性が高い、
「そんなところだ」
紙魚は記事の文章を要約してゴキブリに告げた。
「この記事がどうかしたか」
「いや…」
ゴキブリは震え続ける自らの触角が感じる違和感の正体を、考える。
違う、
何かおかしい、
「TVでは犯人をメリケン漫画の蜘蛛男に例えて正義漢扱いする輩までいる。くだらん、やはりTVは駄目だ」
そう言って紙魚は再び百科事典に滑り込んだ。
2010/08/27

かげろう

青年は葦の川原に座っていた。工事で河川の流れが変化し、その水場に1匹取り残されてしまったカゲロウの幼虫が羽化するのを待っていたのである。
「できた~」
亜成虫となったカゲロウは、小さなリボンのように青年の頭にとまる。
「では行きます」
青年は走り出す。他のカゲロウ達の群れる場所まで連れて行ってほしいという依頼だった。羽化したカゲロウの時間はとても限られている。青年は急ぐ。トラックをギリギリでかわすとカゲロウが悲鳴を上げた。
「急いでくれるのは嬉しいけど…秦野、キミは自分の命があまり好きじゃないみたいだね…」
カゲロウの言葉に青年は
「スミマセン…」
と俯いた。
2010/08/30

狩る虫と逃げる虫

月明かりの弱い晩だった。
「邪魔者が居る」
「え、」
布で顔を覆った青年は、ヤミスズメバチの突然の言葉に狼狽した。
「出てきなさいよ」
顎をカチカチと鳴らしたヤミスズメバチに応じて、青年の薄いコートの裾の辺りからゴキブリが2本の触角を揺らした。
「目ざといな」
「ゴハンを食べに行っていたのでは…、」
青年が驚いて差し伸べた手にゴキブリはするりと這い登る。
「悪いな秦野。だが俺はこの女に話がある」
「…私に?」
ヤミスズメバチは、狩る者特有の攻撃的なフォルムを優雅にくねらせる。だが逃走の反応速度に自信のあるゴキブリは動じず、ふてぶてしく彼女を睨み返した。
「そう、アンタだ」
2010/08/31

狩る虫と逃げる虫(2)

「アンタこいつをどうするつもりだ」
ゴキブリは尾肢で空気の流れに注意を払いながら、ヤミスズメバチに尋ねた。つい先程まで真っ暗な穴のようだった青年の目は憔悴に染まり、2匹の虫の間を泳いでいる。ヤミスズメバチの頭が嬌笑に似た角度へと持ち上がる。
「まるで私が秦野を唆しているみたいに言うのね。違うわよ?ねえ秦野」
ハイと頷きかけた秦野の指をゴキブリは僅かに噛んだ。
「答えなくていい秦野。わかってるのか?アンタのせいでこいつは追われてる」
「警察は秦野の仕業だと知らないわ」
「警察だけと思うか?」
その言葉にヤミスズメバチは潰れた翅を微かに傾けた。
「どういう事?」
2010/09/04

挑発

「N市のビル街に、紐で巻かれた人間の死体が出た。被害者はビル放火魔だ。見せ付けるように放火の証拠品がバラ撒いてあった」
ゴキブリの言葉に青年が頭を上げた。ヤミスズメバチは触角を立てる。
「これはアンタと秦野がやったんじゃないな。なら誰がやった?」
「模倣犯、ですか」
青年が擦れた声を上げた。
「違うわ」
ヤミスズメバチは苛々と顎を鳴らした。
「模倣犯なら無差別に相手を選ぶ。わざわざ放火魔なのが問題よ。こいつ、私たちに"目的がある"事に気付いて、わざと別の"目的"を、すり替えて…」
畜生、とヤミスズメバチは呟く。
「私の憎しみは私のもの…それすら奪うっていうの」
2010/09/04

働き蜂

「邪魔はさせない。行くわよ秦野」
頭を上げたヤミスズメバチは冷たい複眼で青年を促した。
「…はい」
「よせ、挑発に乗るな。秦野、お前もその女を止めろ」
慌てて青年の首筋に登ってきたゴキブリに、ヤミスズメバチは言う。
「馬鹿ね。秦野はヤミスズメバチなのよ。私達の憎しみを勝手に書き換えようとする奴は許さない。それは秦野も同じ気持ちなの。そうよね?秦野」
「こいつはアンタの働き蜂じゃない。おい、きっぱり断れ」
ゴキブリは青年の前髪に隠れた瞳を覗き込む。だが青年は目を閉じてこう答えた。
「貴女が望むなら…」
「秦野っ」
「判ったら消えて」
スズメバチはゴキブリに針を向けた。
2010/09/08

さなぎ

わたしがおまえを完全な虫にしてあげる
人の部分を捨て去って、闇に透き通るわたしの翅に
「どうしたの。やって」
「……」
足元に転がった昆虫売買人の首に手をかけ、しかしなかなか力を入れようとしない青年に、ヤミスズメバチは言った。
「まだ出来ないのね…いいわ、じゃあしるしを付けるだけにしなさい」
「すみません…」
青年は消え入りそうな声で謝る。
「急かしてごめんね秦野。本当なら段階を踏んで、お前の中の"人間"を少しずつ壊してあげたかったけど」
ヤミスズメバチは触角で甘く青年の頬を撫でる。
「邪魔が入ったからね…大丈夫、悲しまないで、次は出来るわ」
2010/09/08

しるし

それは単純な線ではあったが蜂の体の構造を的確に描写していた。針で引っ掻いた、原始的な刺青のようなものである。
予想通り、足跡を残し始めた…
藤沢基樹は患者の腕に刻まれた蜂を観察しながら、そう考えていた。
「怖い、」
昆虫売買を生業とする患者が、顔中を覆った包帯の下から苦しげな声を上げる。
「虫が、来る、怖い、」
すまない
藤沢基樹はそっと跪く。
けれどもうすぐだ、
あれが人を殺すようになる前に、俺が必ず見つけ出す。
「…大丈夫、何も来ません、安心して眠って、どうか早く良くなって下さい」
低く静かにそう囁き、藤沢基樹は病室を後にした。
2010/9/10

人であること

ヤミスズメバチの攻撃を恐れてではない。ゴキブリがあの場を離れたのは、秦野がヤミスズメバチの方を取ったからである。
お前はそんなに人でいるのが辛いのか、秦野
夜道を走るゴキブリの姿に、すれ違った人間が悲鳴を上げる。
「うわっ」
「やだ!やだ潰して!」
ゴキブリはしかし、人間のそんな反応を面白がりはすれども、激しく恨む憎むといった気持ちは持っていなかった。奴らもただ生きているだけ。そう捉えていた。
「そのスピードでは無理だな」
革靴を華麗にかわし、ゴキブリは河原へ向かった。そして夜の川面を見ながら、人であるというのはどういう気持ちなのだろう、と思った。
2010/09/15

ヒト科の子

「元気出せ秦野、ゴキブリの奴ら気紛れなんだ、帰って来るよ」
「…ありがとうございます」
「それよりさーキティてどう見ても僕のパクリだよな」
「キティとは何ですか」
「うっそ秦野、知らないの?ヘローキティ」
川沿いの雑木林でヒメジャノメの幼虫と話していた青年は突然、背後から声をかけられた。
「ねえ」
高校生だろうか、ショートカットの少女が笑いかけてくる。青年はひどく戸惑った。
「わ、私ですか」
「うん。ねえ今、ヒメジャノメと喋ってたでしょ」
「君は…ヒメジャノメさんとお知り合いなのですか?」
青年の微妙にズレた反応に少女は真顔で首を振る。
「ううん。むしろお兄さんを知ってるかも」
2010/09/15

ヒト科の子(2)

青年は警戒した。拾ったばかりのビニール紐の入ったポケットを、右手で覆い隠す。
「…あなたは誰ですか」
少女が答える前に、ヒメジャノメが口を挟んだ。
「あ、僕この子知ってるぜ。こないだ僕を写真に撮ったキャメラマンの娘だろ」
「カメラマンの娘さん…」
青年の呟きに少女は目を丸くした。
「何でわかるの!?」
「あ…、ヒメジャノメさんが写真に撮られたと…」
「え、じゃあキミあの時の!?立派な終齢になったねー」
ヒメジャノメは少女には聞こえない言葉で"まあね"と得意気に胸を反らした。青年は以前、山で会った写真家の事を思い出す。
「カブトムシさんを連れてきてくれたカメラマンさんですか…」
2010/09/15

ヒト科の子(3)

少女は青年の名前すら訊かなかった。ただ
「父がお世話になりました」
と頭を下げ、そして
「わたし、父からお兄さんのこと聞いて、あの…ファンなのお兄さんの」
そんな事を言った。
「あ、ヒメジャノメ君のファンでもあるからね、うん」
付け加えられた言葉に"ホントかよ"と身を捻ったヒメジャノメは、茫然としている青年を
「だってよ秦野、サインしてやれば」
と突いた。
「……わ、私は…」
青年が口籠もると少女はそそくさと立ち上がり、
「ご、ごめんなさい、もう行くね、」
と駆け出してしまった。
「何だアレ。なあ秦野…」
ヒメジャノメは言いかけて口をつぐんだ。青年はひどく青ざめていた。
2010/09/20

喪失

ヤミスズメバチとの一件以来、ゴキブリは青年のポケットに未だ一度も戻って来ないままだった。昼間に出会った少女の言葉にひどく困惑していた青年は、ゴキブリにその事を相談したかった。困惑というより恐怖に近かった。
夕暮れの草むらを探して回るが、幾世代にも渡って青年を見守っていた焦げ茶色の親友は見つからない。
青年の脳裏に、自分が人でないものになりかけた事で親友は去ってしまったのかという考えが浮かぶ。だがそれと同時に、親友は人間に薬殺されてしまったのではないか、という考えも浮かんだ。
ザワザワとススキが風に揺れる。青年は立ち尽くした。
2010/09/20

里親

その子供は、人の言葉を理解するよりも先に虫の言葉を聞いていた。虫の友達と遊び、虫の友達を尊敬した。
「お前の育て方が間違っていたんだ」
先ずそう言って雄親が巣から姿を消した。
「お願いだからもうやめて!何と喋ってるの!?もう疲れた、もう嫌、」
次にそう言って雌親が姿を消し、子供はひとりになった。児童相談所に保護されるまでの三週間、衰弱してゆく彼に言葉をかけ食料を運んだのはアパートに住むゴキブリだった。
「がんばれしっかりしろ、しぬな」
世代交代を繰り返し、それからずっとゴキブリは子供を見ていた。子供が青年になってもそれは変わらなかった。
2010/09/22

誘惑

「居ないんです、」
月明かりの中、青年はそう言って、ヤミスズメバチのとまるネムノキの枝から一歩距離を取った。
「あんな奴は放って置けばいいの。秦野、あいつらは人間に依存しすぎている。言わば裏切り者よ。いいから今夜も行くのよ、おいで」
「ですが…心配なんです、もしどこかで、彼が人間に、」
青年の言葉を聞いてヤミスズメバチは嗤った。そうしてネムノキから躊躇なく飛び降りる。
「あ、」
すかさず駆け寄り彼女を両手で受け止めた青年に、ヤミスズメバチは言った。
「そうね…人間に殺されている可能性はあるわ」
青年の肩がザワリと震える。
「行くのよ秦野、人が憎いでしょう」
2010/09/22

叫び

ヤミスズメバチを肩に乗せて、青年、秦野逸郎は夜闇を進む。石の上の灰色の蛾のように気配を殺す。耳をすまし、虫の悲鳴を聴く。
故意に道路に投げられ、車に半身を潰されたキアゲハの幼虫の気門から漏れる最期の吐息、縁起が悪いという理由で殺虫剤をかけられた物置のハエトリグモの断末魔、人工の光に惑わされ電気に焼かれたオオミズアオの恐怖、
心臓が2つに引き裂かれ、その隙間から黒くて熱い液体が溢れ出てそうになっているのに、何故だか秦野の目は温度を失ってゆく。
ふと、
ヤミスズメバチが爪で彼の肩を握った。
「…何、これ…」
街灯の向こうに広がる光景に秦野は息を呑んだ。
2010/9/24

荒野

ビニール紐で縛り上げられた人型のものが路上に投げ出されている。街灯に照らされたそのシルエットが息をしているかどうかは判らない。だがヤミスズメバチと秦野が見ていたのはそれではなかった。人型の周りのアスファルトの地面及びコンクリートの壁に、無数の小さな黒い染みができている、ふたりはそちらを見ていた。
「これは、何」
ヤミスズメバチの言葉に秦野は返事をしなかった。
「こんな事、」
数メーター先からでもヤミスズメバチには判った。小さな染みが全て、擦り付けられた虫の亡骸だと。死臭がヤミスズメバチの感覚器官に絡み付く。
秦野は黙ったまま頭を上げて街灯の向こうの闇に目を凝らした。
2010/9/24

藤沢基樹が自身の目で確認した被害者の腕には"蜂"の絵が刻まれていた。そして別の被害者の脚には"鈴虫"が描かれていたことを彼は新聞で知った。慈しむような線で描かれた精巧な虫達の姿。藤沢基樹はそれらが通常の犯罪者の自己主張のマーキングとは異なる意味を持つ事に気付いていた。或る確信を持って彼は帽子を深く被り手袋を嵌めそして次に為すべき行動を起こす。下準備は既に出来ている。餌にすべきものの選択も間違っていないそれが犯した罪についても彼は良く知っている。
単純な罠だった。
真逆の意味を持つ"しるし"を残せば、"奴"はそれを消しにかかる。
2010/9/24

罠(2)

ひと(person)
或いは人間(human being)
行動を起こす時、藤沢基樹は名を捨て、自らをそう呼ぶ。"数時間前まで看護師・藤沢基樹だった者"は、"かつて女性に対する暴行と殺人を繰り返した女、だった物"をビニール紐で入念に巻き上げる。蜘蛛がするように入念に。
次に彼は集めたばかりの蛾や蜘蛛、蜂、甲虫などを1つ1つ殺した。袋の中で既に死んでしまったものもあったが、いつ死んだかという事に関して彼が注意を払う必要は無い。しるしが示せれば良いのだから。
全てが終わると彼は静かに身を隠し、待った。"虫"が次の段階に行く前に罠に掛かってくれる事を祈った。
2010/9/25

3人目

1人目の若者は素通りした。面倒ごとに関わりたくなかったのだろう、狭い路地を塞ぐ"巻かれた人型"に見向きもせず走り去った。2人目の中年の女はそれを見るなり踵を返し、もと来た方へ逃げた。警察を呼んで来るかと思い、後をつけて少し様子を窺ったが、女が通報する様子はなかった。悪い夢だとでも思ったのかもしれない。
彼は再び路地のコンテナの陰に戻って3人目を待った。
3人目は背の高い青年だった。青年は人型の手前数メートルの地点でビクリと立ち止まる。"彼"は青年の視線を注意深く観察した。
青年の、半分以上前髪に隠れた双眸は"しるし"だけを見つめていた。
2010/9/25

邂逅

しるしに向いていた青年の視線がゆっくりと持ち上がる。コンテナに隠れる"彼"の姿は、街灯の向こうに居る青年からは真っ暗な闇としか見えないはずだった。だが"彼"には、青年の無機質な洞窟にも似た視線が真っ直ぐ自分に注がれているのがよく判っていた。
ああ、こいつは"虫"だ。間違いない。
彼は確信した。敢えて言葉を発する事をせず、懐中電灯のスイッチを入れる。青年、もとい"虫"が懐中電灯の光に弾かれたように塀の上に飛び乗ったのを見て"彼"は少し笑いたい気分に駆られた。
鉤針のような猫背に折れ曲がった長身の"虫"に、"彼"は言った。
「やっと見つけた」
2010/09/27

人と虫と人か虫

「やっと見つけた」
その言葉に青年は、対峙する目の前の男が自分を追う者である事、そしてその為にこの恐ろしい"しるし"を残した事を理解した。
「………」
青年は、紐に巻かれた人型の周りに散らばった虫たちの屍に、塀の上からもう一度視線を送った。ヤミスズメバチは青年の、秦野のその真っ暗な悲しみと憎悪に塗れた眼球をじっと複眼に映して囁いた。
「走って、秦野。私にはわかる。この人間はお前を、」
秦野はしかし、動かなかった。
「…私のせいです、」
秦野がヤミスズメバチに語るかすれた言葉を、"彼"は静かに聴いている。
「私が人間だから、この方々は殺されたんです」
2010/10/16

人と虫と人か虫(2)

男は言った。
「それは違う、寧ろ」
帽子を深く被って手袋をした男の声は、嘲るものではなく、かといって友好的な口調でもない。義務をこなすような生真面目さがあった。
「寧ろ、お前が"人間でない"事が問題だ。お前の心は人ではない。そうだろう?」
塀の上の青年からは返事が無かったが、男は意に介さず続ける。
「幼児の頃に人でないもの、鳥や獣、植物や石などと会話をする者も居るが、人よりもそれらと喋る事が多いまま育ってしまった者は、もう人にはなれない。便宜上、そういう者たちを俺は"虫"と名付けて分類している」
男の指が青年を差す。
「お前は"虫"だ」
2010/10/17

人と虫と人か虫(3)

「"虫"は厄介で悲しい。例えばそこの女のように人生の途中で人間を踏み外す者も居るが、」
男は、ビニール紐で巻かれた人型の塊に目を遣る。
「その場合はまだ戻れる事もある。残念ながらこの女は手遅れだったが、"虫"はそれとは違う。"虫"になる可能性のある者は5歳になるまでに"虫"になるか、人間になるか、決まってしまう。一度決まってしまえばもう人間にはなれない。形は人間でも中身は永遠に別物だ」
男の、憐れむような視線に秦野は吸い寄せられ、動けない。抱いていた疑問に男が答えをくれるのではないか、秦野がそう感じ始めている事にヤミスズメバチは気付いていた。
2010/10/20

人と虫と人か虫(4)

「人の形をしていながら人ではないものが、成長してどうなるか、」
静かに言葉を紡ぎながら、男が懐中電灯を揺らす。反射的に秦野はその光を真っ暗な目で追う。
「…人を憎むようになるんだ。いずれそれは爆発する。必ず、そうなる。なってからでは遅い。人間を守るには誰かが"虫"を駆除する必要があるが、」
攻撃的な気配は完全に隠蔽されていた。静かに素早く、男の手が秦野の首を掴む。言葉に釘付けられ、動けずにいた秦野の目が見開かれる。
「"虫"の存在に気付いているのは俺だけだ、独りで戦うしかない。そのために多少、アンフェアな事をせざるを得ないが、許してほしい」
2010/10/21

火に入る虫

塀の上から引きずり降ろされた秦野は、地面に落ちる前に男の爪先に蹴り上げられた。ヤミスズメバチは6本の脚で秦野のコートを必死に掴み、叫ぶ。
「逃げるんだってば秦野!」
言われて秦野は長い手足を舵に、空中でカクンと向きを変えた。距離をとって着地する。が、そこに男が間髪を入れず飛び掛かる。正面から片手で頭を掴むと、男はそのまま打ち付けるようにして秦野の身体を塀に固定した。衝撃に一瞬目を閉じた秦野は、押さえ付けられたまま、スズメバチが潰れていないか慌てて確認する。
「そいつが気になるのか」
その視線に気付いた男はもう片手を秦野の肩に伸ばした。
2010/10/21

火に入る虫(2)

男の左手が翅の無い蜂に向かっていると認識した秦野は、脊椎反射に近い速度でその指を掴み、折った。ボキリという振動がヤミスズメバチの触角にも伝わる。
「本性を顕わしてきたな」
男は苦痛に顔を歪めつつも秦野の頭を掴む右腕は離さない。秦野は、彼にしては早口でヤミスズメバチに囁いた。
「お姉さん、私と一緒だとつぶれてしまいます。危ないので塀、を、」
男の革靴が鳩尾に打ち込まれ、言葉が途切れる。
「…伝って逃げてください」
ヤミスズメバチはしかし、複眼の半分も秦野と目が合わない事に違和感を覚えた。
お前、
ヤミスズメバチの微細な毛が逆立つ。
死にたがってるの?
2010/10/24

蜂の針

ヤミスズメバチは思った。
いま秦野から離れてはいけない
男の指を折ったのは、ヤミスズメバチが危険にさらされたからであり、あくまでもヤミスズメバチを庇護する目的による反撃である。秦野自身は一切、自分の身を守ろうとしていない。少なくともヤミスズメバチにはそう見えた。
「嫌。私は離れないよ秦野」
「………」
男に掴まれた頭を塀に叩きつけられたせいなのか、秦野は返事をしなかった。ヤミスズメバチは必死に爪をかけ、秦野の頭までよじ登ると
「秦野は殺させない。死ぬのは、」
秦野の頭蓋骨を押さえ付けている男のその親指に、深々と針を突き立てた


「あんたの方よ、人間」
2010/10/25

蜂の針(2)

ヤミスズメバチは素早く毒を注入し、針を抜いた。
「…クッ」
男は直ぐに手を離すと、もう片手の折れていない残りの指で患部を強くつまむ。蜂の毒が回るのを防ぐには有効な方法である。解放され、塀に凭れるようにガクリと座り込んだ秦野に男は告げた。
「いずれ、また会う。お前は逃げられない。何が最良の結末かは、お前自身が誰よりわかっているはずだ」
自らに酔うでもなく、静かに確信めいた言葉を残し、男は右腕を押さえたまま走り去った。
「秦野、しっかり」
ヤミスズメバチに触角で頬を撫でられ、秦野はよろめきながら何とか立ち上がり、そして呟いた。
「…わかってます、」
2010/11/02

傷口

コンクリートの四角いブロックに囲われた枯草の寝床に戻ってきた青年は、上半身を抱え、ヤスデが渦を巻いて休む時に似た姿勢で蹲(うずくま)ると、目を閉じた。すぐ側の小さなイスノキのコブからアブラムシが一匹顔を出し、青年の傍らにやってきた。明け方の薄明かりの中、青年が眠っているのを確認したアブラムシは、そっとその体によじ登ると何も言わずに尻の先端から体液を出し始めた。
「なあ…気持ちは判るけど意味がない。アンタの体液で治せるのは木の傷だけだろうに」
ブロックの穴に住むワラジムシがそう言ったが、アブラムシは作業を止めず、誰にともなく嘆いた。
「誰が秦野の心をこんなにした?」
2010/11/04

教え

たとえ苦痛でも、人間がするような事をある程度はしなければならない。でなければ人間はお前を攻撃してくるだろう。真似事でもいい、ほんの少しだけ体裁を整えて身を隠すんだ。一見しただけならば普通の人間と変わらぬように。
そう教えてくれたゴキブリはもう居ない。けれども青年は、今朝も教えを守ろう、と思った。ゴキブリが自分の為を思ってくれている気持ちを無碍にしたくない。起きて川辺に水を汲み、人がするような身仕度をしなくては。
ところがまともに体が動かない。青年はそこで漸く、ああ自分は昨晩既に人間に攻撃された後なのだったと思い出した。
2010/11/06

痛む身体を折り曲げ、青年は土手を降りた。深い水溜まりに浮いた赤いキャンデーを見つめて佇む赤蟻の姿が目に映る。青年は屈んで赤いキャンデーを摘むと岸の赤蟻に差し出した。
「ありがと。でも、」
赤蟻は言った。
「秦野やせた。ナナフシみたい。その飴あげるか?」
青年は首を横に振る。
「いえ大丈夫です…ああ、ではその飴を運ぶ隊列で、私の上を通っていただけませんか」
「いいよぅ」
寝そべった青年の体の上に斥候の赤蟻はしるしをつける。集まって来た仲間達が青年の上を行進する。
「どう?しあわせ?」
耳元を通った斥候に尋ねられ、青年は目を閉じたまま答えた。
「はい」
2010/11/09

蟻を体にたからせている青年の姿を写真家の娘は土手の上から遠巻きに眺めていた。声をかけたかったが、青年の幸せな時間を壊してしまいそうな気がしてできなかった。けれどそうしているうちに娘は、青年がひどくぎこちない歩き方をしている事に気が付いた。
怪我をしているのでは?
そう考え、娘は急いで自宅に走る。だが救急箱をひっ掴んで再び土手に戻って来る頃には青年の姿は既になかった。後には一生懸命に飴を運ぶ赤蟻の群れだけ。娘は思わず蟻に問う。
「ねえ…お兄さん怪我してなかった?」
斥候の蟻が頭を上げる。けれど娘には蟻の言葉はきこえなかった。
2010/11/13

人間の道

藤沢基樹は、その男がポケットにナイフを所持している事を知っていた。人を傷つけるための道具を、人を傷つけようと思って持っている人間は、道具の手触りを執拗に確認する。男がポケット越しに何度も触るその手の形、布の皺の形状を観察する事によって藤沢基樹は、道具がナイフである事を確信していた。だから男が下校途中の小学生の後を付けて路地を曲がるのを見て、彼は迷わず同じ路地に足を向けたのだった。
「おまえは、」
藤沢基樹は包帯を巻いた腕で背後から男の口を塞ぐと後ろ姿の小学生に聞こえないよう静かに尋ねた。
「本当にそういう事をしなければ生きられないか」
2010/11/13

人間の道(2)

「戻れる可能性があるならば、戻れ。もしそれができないようなら、俺がこの場で殺す」
藤沢基樹が男にそう囁いたのには理由があった。1つには、男の目に未だ迷いがあるように思えた事、もう1つは、片手指の使えない体で男と争う場合を考えたからである。100%のパフォーマンスが見込めない以上、何らかのミスをおかす可能性は大きい。もしも逆上した男が小学生を人質に取ったら?最も起きてはならない事態を想定し、藤沢は出来るだけ小学生との距離が開くよう時間を稼いだ。
男が震えながらナイフを地に落とす。藤沢は素早くそれを足で踏み、男の鳩尾に手刀を入れ、気絶させた。
2010/11/16

人間の道(3)

どうせならば、"あれ"を呼び寄せる餌に使うか。
そう考えた藤沢基樹は、気絶させた男を静かに引きずり、駐車場の車の影に隠す。細心の注意を払って行ったつもりだったが、折られた指の分、作業の精密度が下がった。砂利の音に、小学生が振り返る。
「…あっ」
小学生は、気絶した男と藤沢基樹に交互に目を遣り、小さく声を上げた。
「この事は誰にも言うな。ただし、言わなければお前の命が危ない、という場合は言っても良い。判ったな」
藤沢の言葉に、小学生はコクコクと頷く。それを見て、藤沢の口の端に僅かに感情らしきものが浮かんだ。
「良し。良い子だ、もう行け」
2010/11/17

人間の道(4)

藤沢基樹は人間が好きだった。人間を愛していた。けれど実直に人間らしく生きる人間ほど、弱い。人のルールの通用しないものたちに踏み躙られる。本来、そうであってはならないのに人間らしい人間が踏み躙られるのは、人の形をした人でないもの達が、紛れているからだ。
藤沢基樹の愛した家族の命を奪ったのも、そういう、人の形をした人でない何かだった。
誰かが戦わなければならない。観察し、奴らを見分ける事のできる者が。でなければいつか本来の人間は、滅びてしまう。
藤沢基樹は、考えていた。例えそれで自らが非人間的なものになろうとも、俺は人間を守る、と。
2010/11/17

蛾の瞳

「秦野たすけて」
一匹の蛾が青年の胸にしがみつき、震えていた。青年はそれをやさしく手で覆う。
「どうしました」
「でんきが怖いの、わけがわかんなくなっちゃうの。強すぎるの。光が。わたし頭がおかしくなっちゃうの」
青年は蛾の目が、本来とても弱い月明かりを頼りに翔ぶための目であり、街灯の光には眩んでしまう事をよく知っていたから、悲しい顔で頷いた。
「こわいの…夜が。わたしがわたしでなくなっちゃう。お願い秦野、今夜だけでいい。一緒にいて、こわい、私こわい」
「はい…」
青年は思った。この世の全ての街灯を粉々に壊してやれたらどんなにいいかと。
2010/11/20

捜索

写真家の娘は自転車にまたがったまま双眼鏡で河原を見渡した。前かごには救急箱が突っ込んである。"虫のお兄さん"は怪我をしていた。それは一体どうして負った傷か?娘は妙な胸騒ぎを覚えていた。
けれど視界に彼の姿は見当たらない。
娘は再び自転車のペダルを漕ぎ出そうとして、ふとブレーキ部分に小さな蜘蛛が乗っているのに気付いた。
「危ないよそこにいると」
娘は小指に蜘蛛を移し、草むらに放す。笹の葉の上に乗った蜘蛛が娘をじっと見つめる。
「…言葉が分かればなぁ」
ため息をついたところでふと視界が暗くなった。背後に人影がある。娘はハッと振り返った。
2010/11/20

捜索(2)

「奇遇ですね」
と、声をかけてきたその男に、娘は見覚えがあった。何度か父親を訪ねて来た事のある男だ、名前は確か、
「藤沢です。お茶を出して頂いた時ぐらいしか会っていませんから、もしかしたら覚えていないかな」
「い、いえすみません、少し驚いただけで」
茶を淹れるのは娘の仕事であった。先日は珍しい蜂か何かについて父親に質問をしに来ていたようだ。娘は父親がこの男を苦手としているのを空気で勘付いていた。
「どこか怪我でも?」
「え、」
藤沢の言葉に娘はドキリと顔を上げる。
「救急箱、」
「それは、その…」
口籠もる娘を、藤沢は真直ぐな目で見つめた。
2010/11/26

捜索(3)

虫に詳しい人物、それから例の蜂について情報を得るために、藤沢基樹は写真家の家を何度か訪れている。しかしその娘であるショートカットの少女に声をかけた理由は、情報を得るためではなく、たった1人で淋しい土手に座り込む彼女の姿に、学校でいじめでも受けているのではないかという疑念を抱いたからであった。
「どこか怪我でも?」
手にした救急箱が少し気になり、そう訊いてみた際の娘の表情を観察し、藤沢の疑いは強くなる。
例えばそれは末期癌の患者の家族の顔。
何かを隠している。
「私よく転ぶから、持ち歩いてるんです」
娘に怪我をしている様子はなかった。
2010/12/01

捜索(4)

藤沢は、衣服で隠れた部位に傷があるというより深刻な可能性も捨ててはいなかった。少女の父親、つまり写真家による虐待も考えられる。家を訪れた際、父子間の会話に妙なところは見受けられなかったが、もし虐待の事実があれば、世話になった男とは言えど許すわけにはいかない、と藤沢は思った。
調査の必要がある。
「そうか…気を付けるんだよ。お父さんが心配する」
「あ…はい…」
娘の隠しているものが、イジメや虐待でなければ調査は途中で打ち切る。子供が邪悪なものに害なわれるのは辛い、どうか少女らしい他愛のない秘密であってくれと、藤沢は静かに願った。
2010/12/05

望み

「最近、呼んでくれないんですね」
ネムノキの上で川向こうの人間のビルの明かりを眺めながら考え事をしていたヤミスズメバチは、青年にそう声をかけられた。
「………」
「これ、よかったら…」
青年はカマキリから報酬として貰った手付かずのアブの亡骸をそっと、枝の上のヤミスズメバチに差し出す。
「すみません…幻滅させてしまいましたか、人間を、殺せなくて、」
「違う」
ヤミスズメバチは翅を震わせた。
「怪我はだいぶ治りました。依頼に支障はないです。次はちゃんと、」
「…嘘吐き」
青年が何を望んでいるのかヤミスズメバチは知っている。虫にもヒトにもなれない彼が何を望んでいるのかを。
2010/12/05

アイデンティティ

ヤミスズメバチに今夜も"行かない"と告げられ、青年、秦野逸郎は、わかりました、と応えて夜の土手を後にする。
人を傷つければ、きっとあの男に再び逢う事になり、そうなれば自分はたぶん死ぬだろう、と、秦野は承知していた。けれど秦野は虫たちの憎悪の力を借りなければ人を傷つける事ができなかった。空っぽの穴のような両目で真夜中の川原を、ただ歩く。
「秦野、」
見兼ねたカワラバッタが足元から囁いた。
「ちょっと頼まれてくれない?」
「カワラバッタさん…」
「何て顔してんのさ、頼みごとしてんのはボクだよ」
縋るような色に染まった秦野の目の上にカワラバッタは優しく触れた。
2010/12/10

前兆

珍しいことがよく起こる時というのは、それ自体が何か大きな異変の前兆である場合がある。前兆は、本流の異変そのものとは一見関連が無く、例えば大洪水の前に、たまたま白蟻が引っ越すのを目撃した、或いは、不明な理由でのたうち回る蟷螂を踏みそうになる、そんな事であったりもする。
写真家の娘は、はっきりと異変の前兆であると確信していた訳ではないが、何か、奇妙だとは感じていた。
最近、虫と目が合いすぎる。
「…おはよ」
振り返った先のブロック塀の上に居たコガネムシに、娘は思わず挨拶をした。通じるはずがないにもかかわらず、コガネムシはワサワサと触角を開閉した。
2010/12/19

逡巡

「姐さん、見てきたよ」
現れたオオスズメバチの羽音に、ヤミスズメバチは目を覚ました。
「…どうだった」
「あれからまた1人、ナイフを持って小学校付近をうろついてたって人間が、巻かれたらしい。巻かれた人間は生きたみたいだけど、周りでミバエとアシナガバチが20匹以上死んでた。現場を見てきた、酷かったよ」
そう告げてオオスズメバチは翅を震わせた。この蜂は、人間に女王を殺された巣の者だった。彼女のコロニーは遠からず滅亡する運命にある。
「ありがとう。お礼をしたいけど、」
「いいよ。何か貰って持ち帰ったってさ、」
オオスズメバチは頭を垂れた。
「うちの女王は…もういないもん…」2010/12/19
逡巡

「姐さん、見てきたよ」
現れたオオスズメバチの羽音に、ヤミスズメバチは目を覚ました。
「…どうだった」
「あれからまた1人、ナイフを持って小学校付近をうろついてたって人間が、巻かれたらしい。巻かれた人間は生きたみたいだけど、周りでミバエとアシナガバチが20匹以上死んでた。現場を見てきた、酷かったよ」
そう告げてオオスズメバチは翅を震わせた。この蜂は、人間に女王を殺された巣の者だった。彼女のコロニーは遠からず滅亡する運命にある。
「ありがとう。お礼をしたいけど、」
「いいよ。何か貰って持ち帰ったってさ、」
オオスズメバチは頭を垂れた。
「うちの女王は…もういないもん…」
2010/12/23

逡巡(2)

蜂にとって、女王は母親であり恋人であり、自身の一部であり、アイデンティティーそのものでもある。女王を失った時の喪失感は凄まじい。まして次期女王を立てることができないスズメバチの仲間にとって、それは世界の終わりと同義だった。
スマトラで女王もろとも全家族を焼かれたヤミスズメバチは、自分から何もかも奪った人間を憎んでいる。復讐のためならどんな事でもしようと誓っていた。
異国の地で秦野逸郎という奇異な人間に出会った事も、亡き女王達の導きだと思った。
この人間を使えば翅の捻れた無力な自分でも人類に報復できる。
そう考えていたのだ。つい、数日前までは。
2010/12/24

逡巡(3)

「あ…あ、あの私、怪しい者ではなくて、その…」
ヤミスズメバチは初めて秦野に会った日、そう声をかけられた。長身の青年は息をついてから
「すみません貴女の単眼に見とれてつい声をかけてしまいました…あの、少しだけ…近くで見てもいいですか…?」
と言った。
「ダメ。と言ったところで人間に通じるはずもないわね…こういう奴は刺されなきゃわからないんだ」
独り言のつもりで吐いた言葉に
「そ、そんなっダメなのに無理に見たりはしないです!あああ変な事言ってすみません…恥ずかしい…」
青年が応えたのでヤミスズメバチは驚いた。
「おまえ、虫の言葉がわかるの?」
2010/12/24

逡巡(4)

ヤミスズメバチは、人間に生まれた事を悔いている秦野の感情を直ぐに見抜いた。長身で虫のように強靭なこの人間は、少し背中を押してやれば人類に害を為すための素晴らしい武器となる。
おまえを虫にしてあげる
ヤミスズメバチがそう言ってやると、秦野は命じられるまま人を襲った。"追う者"に攻撃される前まではヤミスズメバチは彼を武器だと、自らの翅であると考えていたのである。けれど、
「…秦野、」
愛した女王と家族の仇を討つ気持ちに今も変わりはない。けれどヤミスズメバチは自分が、武器を失うという意味においてだけではなく、秦野の死を怖れている事に気付いてしまった。
2011/01/11

決断

道端で親子が笑っている。子供が抱えた箱の中では、異国のカブトムシが、生気を失い、じっと死を待つ。通りの庭では庭師が樹木に薬を撒いている。その足元で、死にゆくイラガの子供達が身をよじって断末魔の叫びを上げる。隣の家は改装中。土の庭をコンクリートで埋め立てる。土中のカニムシは逃げ場もなく、あ、と、囁き窒息する。
単に体の大きな生物の生活によって死を迎えるのは構わない。ヤミスズメバチが人を許せない理由は、その規模があまりに膨大でアンフェアである事にある。文明という、他生物が戦いを挑む事すら許さない強大な暴力を自覚もせず濫用した上に幸せを築いている点である。
2011/01/11

決断(2)

迷いはある。しかしどうしても針の一刺しを残してやりたいという気持ちは激しかった。お前たちの幸福が、私の女王を、同胞たちを奪っているのだと、人間に刻んでやりたい。ヤミスズメバチのクチクラの内側で、祈りにも似た暴力の衝動が破裂しそうになっていた。
秦野を襲った例の男も、きっと人間としては悪人ではないのだろう。けれどあれほど沢山の虫を、生命ではないもののように簡単に殺す。まるで人以外の生命が人の幸福のために殺されるのを目的として生み出されたかのように。
陽がまた落ちた。薄闇の中、僅かに草を踏む音がして、ヤミスズメバチは今夜も秦野が誘いに来た事を知った。
「お姉さん…迷っているのですか」
2010/01/22

決断(3)

秦野はヤミスズメバチのとまる枝の傍まで顔を近付けて、消え入りそうな声でこう言った。
「私を利用してください」
長い前髪の下の秦野の目は穏やかで、ひどく淋しい。
「この間、お姉さんが私を守ってくれた事はすごく嬉しかったです…。でも、人にひどい目にあわされたあなたが、人の形をした私を守る事なんかないんです、利用して、使い捨てていいはずです」
「秦野、アタシはお前を完全な虫にすると言った。半分、もうお前は虫なの、だから、」
ヤミスズメバチの言葉を秦野は震える声で遮った。
「いいえ違います…その言葉は…もう死んでも構わないぐらい嬉しいけど……違う、」
2010/01/22

決断(4)

「心がどんなに虫に近付けても、人の形である以上、本当の本当には虫になれないです…」
秦野の空洞のような目から一滴の水分が零れ落ちた。
「お姉さんはでも、私を虫だと言ってくれて…私はそれだけで幸せだったんです、だからもう充分なんです、」
もう充分、そう告げた秦野の望みがヤミスズメバチには痛いほど分かった。
「秦野、お前はやっぱり…」
「どうか利用してください、お姉さん…ただの"人間の失敗作"じゃなく、虫である貴女の道具としておしまいになりたいんです…」
ヤミスズメバチは思った。ああこの"おしまい"のために秦野は代理屋となったのではないか、と。
2011/02/09

文字

「おい」
紙魚(シミ)は、本棚の下から顔を出してTVに釘付けになっていたゴキブリの尾肢を自分の触角で小突いた。
「うお!びっ…くりした…やめてくれ。そこは敏感なんだ」
「人間文字を覚えたいと言ったのは貴様だぞ、ゴキブリ。私の時間を無駄にするな」
「ああ悪い。気になるニュースがあったんだ」
「またお好み焼き屋の開店情報だったら殺すぞ」
「違う」
隙間に戻ったゴキブリは触角を垂れ、僅かに身震いする。
「件数が増えてる…秦野の奴、また"あれ"を再開したようだ」
「…間に合うのか」
紙魚の言葉にゴキブリは答えた。
「親友見捨てるほどバカじゃねえよ。間に合わせるさ」
2011/02/21

遠く

「貴様はどこかへ行ってしまうのか」
足元のオサムシに言われ、青年は一瞬戸惑った。
「え」
「羽蟻どものようにソワソワして見える」
「今、旅をする予定はないです。でもまた高山に行って次の世代のアサギマダラさん達に会うのも良いですねぇ」
「あのボンヤリどもにか?奴ら、ハンカチと女の区別すらつかんぞ」
「大らかな方達です」
「フォローになっとらん」
「えへ」
「秦野」
オサムシは、本当は秦野の様子は、自ら羽をもいでしまってもはや飛べなくなった女王蟻が遠くを見つめる様に似ていると思った。けれど何故かそれを言う事が躊躇われた。
「…ミミズをやる。貴様は痩せすぎだ」
「光栄です」
2011/03/16

地面

細い細い月の夜、中年の男が1人、庭の玄関口にしきりに殺虫スプレーを撒いていた。
「くそっ…死ね、死ね、」
小声で呟きながら、逃げ惑うゴキブリ達に執拗に薬を噴射する男に向けて、屋根の上から声をかける者があった。
「外に出て行こうとするゴキブリさんまで殺す理由を教えて下さい」
長い針金のような青年が、屋根に張りついていた。
「何だ、お前は」
「なぜ人間は、全ての地面を人間のものだと思うんですか?」
青年は音もなく飛び降りると、あっという間に男の、殺虫剤を持つ腕を掴んで折った。悲鳴を上げる男の顔を、哀しい洞窟のような双眸が覗き込む。
「どうして?」
2011/09/07

接点

それはほんの偶然だった。不当な暴力が振るわれた形跡は無いか。写真家の娘に関して藤沢基樹が調べようとしていたのは本当にそれだけだったのだ。娘の机に開かれたままになっていた手帳に挟み込まれた一枚の写真。それをペンライトで照らした瞬間、彼は息を呑んだ。
無数の黒い蝶に取り巻かれた、猫背で長身の青年。非現実的で悪魔じみた光景だったが、おそらく、CG合成によるものではないと、藤沢は直感的に判断する。
彼は青年と写真家の娘にどの程度の接点があるのか考えを巡らせた。そして遠からぬ未来に少女の身に起こり得る危険を想像し、僅かに唇を噛んだ。
2011/09/07

跳ぶ虫

深夜の百貨店に警報器が鳴っている。床にはビニール紐で巻かれた警備員。昆虫売り場のカブト虫達は、布で顔を半分隠した青年に
「今から皆さんは自由です。飛べますか」
と訊かれ、戸惑った。
「飛んだ事ない」
「僕らは飛べるのか?」
青年はそれを聞いて少し悲しげな目をした。
「では私に掴まってください」
木屑の中からそっとカブト虫達を抱き上げ、青年は彼らをポケットへ。そうして暗いフロアを滑空するように駆け出す。
「待て!」
下のフロアから警備員が上がって来た。青年の肩の上のヤミスズメバチが告げる。
「破壊して」
青年は黙って頷き、細長い脚で警備員の頭を蹴り上げた。
2011/10/14

つぎの約束

山際の雑木林でかぶと虫たちと別れ、秦野逸郎はねぐらとする河原沿いの林へと続く道をゆく。俯いた彼の首すじを、ヤミスズメバチは前脚で抱き締めた。
「これでいい。人間と、人間のものを破壊しよう、秦野。私達それしかできない。針を残すの。怒りを刻み付けるの」
「…はい」
秦野は目を閉じてヤミスズメバチの言葉をきく。
「そしてきっと次は一緒の巣にうまれるのよ」
「…貴女が女王にうまれたら、私を産んでくれますか」
擦れた声でそう言った秦野はヤミスズメバチの背を指先でそうっと撫ぜる。
「そうする、必ず」
告げた直後風が吹き、ヤミスズメバチは頭を上げた。嫌な臭いが、した。
2011/10/15

巣の破壊

走ると言うよりバッタのように、秦野は跳躍する。距離の長い一歩の間に、胸騒ぎが加速する。ヤミスズメバチは秦野のコートにしがみつく。彼女の体は震えていた。
やめて みんなをころさないで
燃えてしまう 燃えてしまう
焼き払われた巣の映像がヤミスズメバチの複眼に蘇るのと同時に秦野も足を止めた。
まだ遠い河原の林の、この数ヶ月秦野が暮らしていた辺りからオレンジ色に照らされた煙が上がっている。どこからか消防自動車の鐘の音が流れてきた。
「…どうして?」
土手沿いの桜の木の影に向け、秦野はか細い声で訊ねた。影、もとい藤沢基樹は答える代わりに小さく息を吐いた。
2011/10/18

人の選択

写真家の娘の部屋で"虫"の写真を見つけた瞬間、あの土手で遭った日に彼女が隠していたものが何であったのか、藤沢基樹の脳裏で繋がるものがあった。救急箱、娘と虫の関係、藤沢自身が虫と遭遇した日時、与えたはずのダメージ、タイミングは合っている。藤沢は娘が行き来していた土手の周辺を探った。
そうして見つけたのだ。
およそ人の生活跡とはかけ離れた、しかし長く放置されたものではない人間の荷物の残されている"巣"を。
当初、藤沢は"虫"が巣に戻るのを待ち伏せるつもりでいた。だが彼は考えた。果たして虫はいつ戻る?それを待つ間に人を、どれだけ傷つける?
2011/10/18

虫の憎悪

「この方角から戻って来ると思っていた。数時間前の百貨店の事件はやはりお前だったのだな」
藤沢は、帽子を深く被り直しながら秦野の前に姿を現した。
「一度活動を止めた虫がそれを再開した時が、最も残虐な事件を引き起こす確率が高い。今日必ず片をつけたかった。こうすればお前は逃げない。憎悪がお前を引き止める」
藤沢の確信に呼応するかのようにヤミスズメバチが顎を鳴らす。
「いくつ命を殺したか…人間は数えもしない、…数えもしないんだ!殺してやる!おまえは、おまえは、」
飛び出そうとするヤミスズメバチを秦野は手のひらで止めた。
「依頼、して下さい、最後の」
2011/10/19

2匹(1)

割れ鐘に似た耳障りなエコーに乗せて、市内放送が消火を告げた。しかし、街路樹のアオマツムシ達を沈黙せしめたのは、その音による空気の振動ではなかった。
細い影が跳ねる。先に動いたのは秦野だった。フードの中でヤミスズメバチが顎を鳴らし続ける。
殺して 憎い 人間が 憎い
秦野の、人の姿をした体の中にスズメバチの心が流れ込む。空中で向きを変え、人のリズムでない奇妙な形で藤沢の側頭部を狙い爪先を振りかぶる。
これを辛うじて躱し、藤沢は一瞬顔を手で覆った。
「典型的な虫だ」
暗視ゴーグルを装着した彼は低い位置から秦野を見据える。
「同情の余地がなくて助かる」
2011/11/17

2匹(2)

ゲジが獲物を捕える時のように、秦野は空中から長い腕を鞭のように藤沢の頭部に絡ませようとする。藤沢はしかし、振りかぶる動作を観察する事により、それを既に読んでいた。
紙一重で身を沈め、細い虫の腕を掴むと、藤沢はそのまま捻り上げるように身体ごと相手の背後に回った。致命的な一撃を加えるのは確実に動きを封じた後、と決めている。通常はこれで完全に止められるはずだった。しかし、秦野はそこで藤沢の想定していなかった方法を選んだ。
鳥に襲われたナナフシは、自ら脚をもいで難を逃れるという。
秦野は、掴まれた左腕を自ら、いとも簡単に折ったのである。
2011/11/21

2匹(3)

瞬きすらせず自分の腕を破壊した秦野は、藤沢にそれを掴ませたままあり得ない方向に曲げ、ぐるりと体ごと振り返る。丸い眼球が、藤沢のほんの一瞬の、次の行動を計算し直す為の隙を捉えた。おそろしく細い、しかし異常に頑丈な秦野の脚が、息遣いを切り裂いて藤沢の顎を蹴り上げる。
ヤミスズメバチの複眼は藤沢の体が仰け反るシルエットを追う。だが同時に、彼女の複眼の反対側の一部の眼たちには秦野の折れた腕が映り込んだ。途端、ヤミスズメバチの気門に薄ら寒い風が吹く。
はたの、
ヤミスズメバチの全ての複眼が秦野を見つめた。だが次の瞬間その視界はガクリと大きく揺さぶられた。
2011/11/21

2匹(4)

引き倒された秦野の背が、地面に叩きつけられる。僅かな月光で充分視界を得られるヤミスズメバチは、藤沢の手元のワイヤーが秦野の脚を締め付けている事を理解した。
「…おそらく、」
口元の血を拭い、藤沢は言った。
「お前はこれと似たやり方でこれまでに2人、人を傷つけている」
藤沢の手にした側のワイヤーは既に、脇の桜の枝にかかっていた。それをギュッと引く。秦野の片脚は僅かに地面から浮く位置に固定される。
「足首に特に強く紐の跡が残っていた」
淡々と間合いを詰めた藤沢に胸骨を蹴られる瞬間、秦野の無事な方の腕が跳ね上がってヤミスズメバチの前に壁を作った。
残念ながらここまでとなっております。実は商業で漫画にする話もあったのですがわたしの力不足でうまくいきませんでした。いつかリメイクできたらいいなと思っています.
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